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先週は創立50周年記念礼拝ということで、ロバート・タヒューン先生に来ていただきまして「神の国の建設に招かれた」というお説教をいただきました。朝からぶどう園で働いた人と、夕方からぶどう園で働いた人が、同じ1デナリオンの報酬を受けたというイエス様のたとえ話からのお話しでありました。荒川教会にも朝早くから招かれている人も、お昼頃から招かれている人も、また今招かれている人もおりますけれども、私たちは皆同じイエス様によって、この「神のぶどう園」である荒川教会に招かれているのです。
そして、どうでありましょうか。私たちが招かれた時のことを考えてみますと、それが何時であれ、またどんな事情であれ、他に行き場所のない私たちを、恵みによって、憐れみによって、イエス様が「神のぶどう園」であるこの教会に招いてくださった、それが私たちみんなの共通する体験ではありませんでしょうか。朝早くから招かれている人も、今招かれている人も、そのイエス様の恵みを忘れずに、心を一つにして、この神のぶどう園で神様を讃え、神様に感謝し、神様に仕える者でありたいと願うのであります。
今日はまたイエス様のご生涯のお話しに戻って聖書を読みました。まるでタヒューン先生の「神の国の建設に招かれた」というお話に合わせるかのように、「12弟子の選び」という御言葉が今日私たちに与えられているのです。しかし、決して意図的に合わせたわけではありません。イエス様のご生涯を順番にお話しをしてまいりましたら絶妙のタイミングでこのお話しが今日与えられたわけです。私も不思議だなと思うのですが、これが神様のお導きというものなんだと思うのです。
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13節をもう一度お読みしたいと思います。
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」
「山に登って」とありますが、イエス様は大切な時というのは必ずといってもいいほど山に登っておられるのです。例をあげますと、ユダヤの荒れ野で宣教の準備の期間を過ごされた時にも、イエス様は山の上で悪魔の誘惑をお受けになったという話があります。キリスト者の生き方ということを教えられた説教も山上の説教と言われますし、終末の苦難について教えられるときも山の上からエルサレム神殿を見下ろされてお話しになったと書かれています。山上の変貌と言われますが、宣教のちょうど半ば頃、イエス様は山の上で神様の栄光をお受けになって、そのお姿が白く輝くという神秘的な体験もなさいました。それから十字架におかかりになる前の最後の晩餐の夜も、食事の後、イエス様は弟子たちとオリーブ山に登らました。そして、復活の後も、イエス様が弟子たちを山の上に集め、「行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになったと言われています。
山に登る。これはイエス様にとってどんな意味があったのでしょうか。今日はマルコを読みましたが、『ルカによる福音書』にも、今日と同じ12弟子の選びの話があります。そこにはこういう風に書かれているのです。6章12節
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」
イエス様は12弟子をお選びになるにあたって、山の中で徹夜でお祈りされたということが書かれているのです。山に登るということは、「神に祈る」ということだったわけです。この場合、祈るのはイエス様に力がないからではありません。祈ることによって神様のお心と交わり、ただ神様のお心のみを行おうとされたということなのであります。
山に登る。これは私たちがこの世の人生を生きていくうえでも、たいへん示唆に富んだことです。この世で生きていくということは、この世のいろんな問題を抱え込んで生きていくということです。しかし、問題ばかりを見ていても問題は解決しません。私たちは問題の多さや問題の大きさを見て、うつむいてしまっていないのでしょうか。そして、どんどん心が暗く沈み込んでしまっていないでしょうか。
みなさん、山に登ることが必要なのです。山に登るというのは、神様を見上げるということです。聖書を読み、祈り、讃美を歌い、すべてのことの上にあって、すべてのことを治めておられる神様の高みに私たちの心を引き上げるのです。神様の愛を知り、神様の永遠のご計画に希望を持つのです。私たちの道は神様から開けてきます。
アブラハムが失望したとき、神様は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と言われました。アブラハムは、「あなたの子孫は数え切れない星の数のようになる」という神様の言葉を信じて、希望を持ちました。
エジプトを脱出したイスラエルの民が、エジプト軍に追いつめられ、立ちはだかる海を前に立ち往生したとき、モーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」と言いました。そして、モーセが杖を高く天に向かってあげると、神様から風が吹いてきて海を二つに分けて道を創ったというのであります。
イスラエル軍がペリシテ人の巨人ゴリアトを前にして恐れおののいている時、少年ダビデは「あの男のことで誰も気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人を成敗してきましょう」とサウルに言って、ゴリアトの前に立ちました。そして、ゴリアトに向かい、「お前は剣と槍をもって私に向かってくるが、私は晩郡の主の御名によってお前に立ち向かう」と言い放ち、石を投げてゴリアトを倒したのでした。
まだ、他にも例をあげたら切りがありませんが、どのような問題が私たちの前に立ちはだかるとも、天を仰ぐとき、神を仰ぐとき、神様から私たちに希望が与えられ、勇気が与えられ、勝利が訪れるのです。 |
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さて、イエス様が12人の弟子を選んだということでありますけれども、この選びについて、聖書は、イエス様がこれと思う人々を呼び寄せられたと書いてありました。「これと思う人々」というのはどういう人なのでしょうか。そのまま受け取れば、イエス様のお眼鏡に適った人々と読めなくないのです。しかし、ここで聖書が言いたいことはちょっと違うのです。
お眼鏡に適ったと言いますと、この人たちに何かイエス様の気を引くものがあったということになると思います。選ばれるだけの理由があったと想像されるのです。けれども、そこが違うのでありまして、「これと思う人々」という言葉には、乱暴に言えばイエス様の気ままによって選んだ人々というニュアンスがあるのです。何か基準や理由があってのことではなく、イエス様の自由な裁量によって、ただイエス様がそう願ったという理由で、この12人が選ばれたのだということなのです。
この12人の名前が16節以下に記されています。最初にでて来るのがシモンです。シモンにはペトロというイエス様がつけたあだ名があります。それは「岩」という意味でありますが、教会の土台になるというイエス様の祝福に満ちたあだ名でありました。しかし、ペトロは初めから立派な人物だったわけではなく、むしろ「岩」というあだ名の通り、ただの頑固者だったと言っても良いのです。そして、固さの故のもろさをもった人間でありました。それをイエス様が恵みによって使徒にしてくださったのです。
次に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネという兄弟が出てきます。やはり、二人には「ボアネルゲス(雷の子ら)」というあだ名が付けられています。どうして、こんなあだ名がつけられたのでしょうか。この二人はたいへん気性の激しい熱血漢でありました。すぐにかーっとなるタイプです。大声で怒鳴りあって意見を戦わすようなこともあったのではないでしょうか。それで雷の子だと、イエス様があだ名をつけられたというのです。こういう人は、決して腹黒い人間ではないかもしれませんが、人格者とも言えない欠点の多い人間だと言ってもよいでありましょう。しかし、イエス様はこの兄弟も使徒にしたいと願われたというのであります。
その次はアンデレです。アンデレはペトロの兄弟です、ペトロより先に弟子になって、ペトロをイエス様に導いた人なんですね。ところがどういうわけか、アンデレの名前は四番目に出てきます。この辺にアンデレらしさがあると言っても良いのですが、アンデレは地味な人で、自分よりも人を立てるのがうまい人なのです。何をしても目立ってしまうペトロとは正反対の人だと言ってもよいと思いますが、決してどちらが良いと言えません。現にイエス様はどちらも使徒にしたいと願われたのでした。
それからフィリポです。フィリポはアンデレと親しかったようです。性格的にもアンデレと同様に人を紹介するのがうまい人で、馬があったのだと思います。その一方で、自分の思ったことを率直な言う人でありました。
次はバルトロマイです。バルトロマイは別名ナタナエルとも言いますが、物静かに黙想することを好む人で、霊的ではあったかもしれませんが、あまり行動的なタイプではありませんでした。
それからマタイです。マタイは徴税人でした。徴税人というのは今の税務署の職員とはぜんぜん違いまして、ヤクザまがいの仕方で人々が金を巻き上げていた人です。言ってみればゴロツキだったのですが、イエス様に招かれて弟子になりました。そして、やがてはマタイによる福音書を世に残す人となるのです。
次はトマス。トマスにはたいへん有名なエピソードがあります。復活のイエス様が弟子たちに現れた時、たまたまトマスはそこにいなかったのです。トマスはイエス様を見たと言って喜んでいる弟子たちに、「私はイエス様の十字架の釘跡に自分の指を入れてみなければ、そんな話は絶対に信じない」と言い張ったのです。それでトマスは疑り深い弟子と言われているのですが、実はトマスというのは、正直な人で分からないことは分からない、信じられないことは信じられないという人だったのです。しかし、一度そこを突き抜けて真理が分かり、信仰を持つと、全身全霊でそれに答えるという忠義の人でもあったと言ってもよいでありましょう。
それからアルファイの子ヤコブとタダイの名前がありますが、この二人については聖書にもほとんど書かれていなくてよく分かりません。そして、熱心党のシモンもよく分からないのですが、熱心党というのは国粋主義者で、その信念、理念を貫くためには暴力も厭わないという過激な革命的グループです。そんなところからもイエス様の弟子になる人がいて、しかも使徒に選ばれているということにはちょっと驚くべきものがあります。
最後にあるのはイスカリオテのユダです。イエス様を銀貨30枚で敵に売り渡してしまったユダです。この名簿にも、「このユダがイエスを裏切ったのである」とちゃんと書かれています。ユダというのは、実務に長けた人で、非常に現実的なセンスをもった人でした。ナルドの香油を主に注いだ女性を見ても、「ああもったいない、そんなことをするならば売って貧しい人に施せばいいのに」と考える人なんですね。決して悪人ではなかったと思うのですが、結局イエス様が永遠について語っておられることがどうしても理解できず、失望してしまったのではないかと思います。 |
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こうして十二人を一人一人を見てみますと、本当に色々な人がいます。誰一人として同じではありません。ヤコブ、ヨハネのような熱血漢もいれば、バルトロマイのような祈りの人、黙想の人もいます。熱心党シモンのような国粋主義者がいるかと思えば、徴税人マタイのようにローマ帝国に身も心も売り渡してしまった売国奴のようだった人もいる。教養のある人もいれば、ペトロのように無学な人もいる。単純に信じる人もいれば、疑り深い人もいる。この中には、イエス様の弟子となるための一定の基準など見いだせない、そこが大切なことではないかと思うのです。
よくクリスチャンらしいとか、クリスチャンらしくないという言い方をします。でもクリスチャンらしいというのはどういう人でしょうか。色々な言い方があるかもしれませんが、それは人間が勝手にそういうだけのことであって、少なくとも、イエス様はそんな風に紋切り型に人間をご覧になってはいないのです。一人一人、神様に創られた個性豊かな人間として、掛け買いのない人間として、どちらが良いとか悪いとか決められない存在として見ていてくださるのです。その中から、ただ主がそのように望まれたということによって、私たちはクリスチャンとして、イエス様の証し人として召されているのです。そして、イエス様によってクリスチャンとしてつくられていくのです。
「なぜ、牧師になったのですか」と聞かれることがあります。実は、自分でもよく分からない部分があるのです。牧師こそ自分の天職だなんて思ったことは一度もありません。牧師になりたくてなりたくてたまらなかったわけでもありません。正直な話、自分に牧師がつとまるなんて思ってもいなかったのです。今でも、自分は牧師に向いていないんじゃないかと思うときがよくあるのです。「どうしてこんな私が?」といつも思っているのですが、それに勝るイエス様の召し出しということを感じるのです。つまり、イエス様が私を牧師にしようとしてくださっている。それにお答えしなければという思いだけがあるのです。
クリスチャンとして生きるということもそうではないでしょうか。自分がクリスチャンらしいかどうか、クリスチャンとして資格があるかどうか、そんなことはとても自分では言えないのです。それはあまり大切なことではないのです。大切なことは、ふさわしいかどうか分からないけれども、イエス様が私たちをクリスチャンにしようと願ってくださっている。世の光、地の塩、復活の証し人、神のぶどう園の農夫、神の国の建設者にしようと願ってくださっているのです。そのことを自分に与えられた神様の恵みと感じ、感謝をもってお答えしようということが、私たちとって一番大切なことなのです。
今日の十二弟子の選びのお話しは、もう少しお話ししておきたいことがありますので、来週もまたご一緒に学びたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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