|
|
|
今日は先週と同じ安息日論争のお話しであります。お読みしました聖書には三つの話がありまして、一つは安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちの話、もう一つは安息日の会堂で片手の萎えた人を癒されたイエス様のお話であります。この二つの話で、イエス様はファリサイ派の人々からたいへん憎まれることになってしまったとあります。それから三つ目の話は、イエス様に熱狂するおびただしい群衆の話であります。
先週は、このおびただしい群衆のお話をしまして、一方ではイエス様に敵愾心を持つ人々がおり、他方ではイエス様を熱狂的に歓迎する人がいるということは、いったいどういうわけだろうかというお話しをしたのでした。
結論だけをもうしますと、イエス様を歓迎した人々というのは「病気に悩む人」であったということなのです。聖書の中で人間の一番の病気と何かと言いますと、体の病気でもなく、心の病気でもなく、罪という魂の病気です。この病はすべての人にある。もちろん、ファリサイ派や律法学者といった人たちにもあるのです。しかし、問題は自分の病を知っているかどうか、そのために悩み、真剣になって救いを求めているかどうかということにあるのです。
その違いは、当然、安息日の守り方にも現れて来ることになります。自分の病に悩む人は、形式的に安息日を守っているだけでは決して満ち足りないのです。天の父なる神様に出会い、その大いなる愛のもとで真の安息を手に入れたいと、真剣に願っているからです。
イエス様は、まさにそのような人々の祈りに答えて安息を人々に与えようとされたお方でした。今日、お読みしましたところにも、「人の子は安息日の主である」と言われております。「人の子は安息日の主である」それは、イエス様を通して、私たちは神様の大いなる愛を経験することができるということです。そして、神様の愛が私の全生活を取り囲んでいてくださるのだということが分かるときに、私たちははじめて真の安息というものを手に入れることができるのです。 |
|
|
|
|
今日は麦畑のお話しからです。イエス様が麦畑を通っておられると、弟子たちが歩きながら麦の穂を摘んで食べ始めました。麦畑というのは、私にはあまり馴染みがないのですが、年輩の方に聞くと、自分も弟子たちのようなことをしたことがあると仰る方があります。麦を噛んでいるとチューンガムのように粘りけが出てくる。そういうことをして遊んだというのです。もちろん、ここで弟子たちは遊んでいたわけではありません。実はほかの福音書を見ますと、弟子たちはお腹を空かしてつい麦を摘んで食べてしまったのだと書かれています。
すると、ファリサイ派の人たちがそれを見とがめて、イエス様に「あなたの弟子たちは何で安息日にしてはならないことをするのか」と抗議をしました。ファリサイ派というのは、ずいぶん細かいことを言う人たちだなあと思われることと思います。こんな風に細かく言われると、安息日というのは、これをしてもいいのだろうか、これはいけないんだろうかと一日中気疲れをして過ごさなくてはいけない日になってしまうのです。
聖書には、安息日について「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書いてあります。たしかに「いかなる仕事もしてはならない」とありますが、何々は仕事だからしていけないとか、何々は仕事にあたらないからゆるされているとか、そういう細かいことを神様が言っているわけではないのです。
聖書全体を見ても、そこにあるのは畑を耕したり収穫をしてはいけない、酒船を踏んではいけない、荷を負ったり負わせてはいけない、市場を開いてはいけない、商売をしてはいけない、薪を集めてはいけない、料理のために火をおこしてはいけないと、せいぜいそのくらいです。ところが、イエス様の時代には1500以上の禁止事項があって、ファリサイ派の人たちはそれを全部守らなければいけないと言ってたのでした。
安息日とは何か。先週もお話ししたのですが、もう一度お話しをさせていただきたいと思います。
たとえば、イエス様の弟子たちはお腹を空かしてつい麦畑から麦をつまんで食べてしまったというのですが、実は聖書では、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べても良いが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでも良いが、その麦畑で鎌をつかってはならない」(申命記23章25ー26節)という律法がありまして、お腹を空かした人が他人の麦畑から麦をとって食べることは決してドロボウにはならなかったのです。
どうしてかというと、ぶどうや麦というのは、農夫が畑を耕したり、種をまいたり、世話をして育てたものであるようですが、決して人間の力だけで育ったわけではありません。一生懸命に仕事をしても、日照りで枯れてしまうこともあれば、大雨で流されてしまうこともあれば、大風で倒れてしまうこともあるのです。だから、収穫というのは天の恵みなのです。だから、貧しい人に惜しみなくも分け与えなさいという教えが生まれてくるわけです。
麦やぶどうだけではなく、人間の生活というのは、実は自分の努力や働きだけではなく、大きな神様の愛の手によってささえられて成り立っているのです。イエス様は、「空の鳥を見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりもはるかに価値あるものではないか。だから、何を食べようか、何を着ようかと自分の命のことで思い煩うな」と言われました。私たちがあれこれ心配しなくても、あくせくしなくても大丈夫なのだ、天の父なる神様が私たちのことを心にかけていてくださる、だから恐れるな、思い煩うなと、イエス様はそういうことを教えてくださっているのです。
ただここで一言注意しておかなければ行けないのは、イエス様は働かなくても良いと言っているのではないということです。聖書には怠け者を戒める教えが随分あります。働くということは、それ自体、尊いことなのです。今日は、働くということについてはあまり詳しく話せませんが、働かなければ食べることができないから働くということを言っているのではありません。働くということが人間にとって大切だから、働きなさいと言われているわけです。ところが、働きというのは色々と苦労があることでありまして、そういう苦労をしていると、つい神様の存在というものを忘れてしまうのです。
安息日というのは、そういう日常の中で忘れがちな神様の絶対的な存在というものを思い出す日です。そして、働きがうまくいってもいかなくても、私たちを生かすのは天の恵みであるということを心に刻むのが安息日です。ですから、安息日で大切なことは、この世のことはすべて神様に御手にお委ねして、天の恵みを味わうということにあるのです。
お腹が空いた時に他人の麦畑の麦を摘んで食べてもゆるされるというのは、麦が天の恵みだからだとお話しをしましたが、そうしますと、イエス様の弟子たちはまさしく安息日に天の恵みを味わっていたということになるのです。 |
|
|
|
|
ところが、ファリサイ派の人たちはそこのところがどうしても分からないわけです。「どうして、安息日にしてはならないことをするのか」と難癖をつけてくるんですね。それに対してイエス様は、「安息日は人のためにあるのであって、安息日のために人があるのではない」とお答えになったとあります。
そのお話をする前に、もう一つ、イエス様が片手の萎えた人を癒されたというお話しを見てみましょう。イエス様が安息日の礼拝をするために会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がいました。人々は、イエス様が安息日の掟をやぶってこの人を癒されるだろうかどうかと注目していました。そしてそこには、何とか口実を見つけてイエス様を訴えようとする人々の心があったというのです。
実は「片手が萎えた人」ということがミソでありまして、ファリサイ派の人たちも命に関わる緊急時に人を癒すということは安息日でも仕方がないと考えていたのです。しかし、片手が萎えているというのは、決して緊急事態ではありません。癒すのが明日になっても命に別状があることではないのです。
しかし、イエス様はそうはお考えになりませんでした。「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われ、5節を見ますと「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた」とあります。イエス様は怒り、そして悲しんだ・・・それは人々が片手の萎えた人を神の子としてみないで、イエス様を陥れる道具にしかみていないということに対して、怒り、悲しんだのです。
「安息日にゆるされているのは善を行うことか、悪を行うことか」
善悪とは何でしょうか。私は、ちょっと世間の考え方とは違いますが、善というのは世のため人のためになす業であり、悪というのは自分だけのためになす業ではないかと思うようになりました。自分のことしか考えていない企業、自分のことしか考えていない政治家、自分のことしか考えていない牧師、自分のことしか考えていない人間というのは、そのなす事がたとえ法律に触れていなくても、やはり人に迷惑をかけたり、世のためにならないことになってしまいます。
しかし、生きていくためには自分のことも考えなくちゃいけないのではないかとも思うのです。ところが、安息日というのは、神様が天の恵みをもって自分のためにすべてをしてくださるということを覚える日です。本当に安息日を守っているならば、自分のことなど何も心配しないで、純粋に善いことができるはずだ、ということがイエス様の仰りたいことではないでしょうか。
それから、「安息日に許されているのは命を救うことか、殺すことか」とイエス様は仰いました。この命というのはプシュケーという魂を意味する言葉です。片手が萎えているということは、肉体的生命には別状がないかもしれませんが、この人はそのために長年の苦しみ続けてきたことでありましょう。そのことが原因で、この人の人生は今までずっと暗く、絶望感に満ちただったかもしれないのです。そういう人の目に見えない人間の苦しみということを、イエス様は敏感に感じ取ってくださるお方なのです。
そして、イエス様はその人を人々の真ん中にたたせました。安息日というのは、こういう貧しい人、弱っている人こそが中心になって、天の恵みの豊かさを知る時だということではありませんでしょうか。
ファリサイ派の人たちの安息日の守り方というのは、律法に忠実であろうとしたわけですが、大いなる欠陥があった。それは人間が不在であったということです。命ある人間、天の恵みに生かされる人間よりも、律法の方が大事になってしまったわけです。
|
|
|
|
|
今日人々が失っているものは真の安息ではないでしょうか。競争が激しくなり、複雑になるにつれて、人々はそれに巻き込まれ、真の平安、魂の休みを失っています。
それは仕方がないことだとは思わないのです。休み方というものをわすれてしまっているということが問題ではないでしょうか。どうしたら、人生の荷物を降ろして、休むことができるのか。どんな混乱や激しい闘争の中にあっても、そこに造り主成る神、救い主成る神を見いだすことができるならば、安息と平安を得ることができるのです。七日に一度、安息日が備えられているのは、そういう時間を私たちが持つためなのです。
英語の休日は、ホリデイと言いますが、それは聖なる日という意味です。神様が聖別された日です。休日に遊ぶの悪いことではありません。むしろ、仕事を忘れ、生きていることが楽しめるような遊びを、大いにして欲しいと思うのです。しかし、それができるためには、やはり安息を与えてくださる主を知らなければなりません。神の愛と御心を信じて、穏やかな心をあたえられてはじめて休めるのです。
そうでないと、休日まで心から悩みが消えない、心の重荷がおろせない。どこにいっても、何もしても心が晴れないということになってしまうわけです。そうではなくて、天の恵みを味わい、一週間また頑張ろうという魂の回復が与えられるような安息日を、この荒川教会で守っていきたいと願います。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|