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今朝お読みしました聖書には、三つのお話しが書かれてました。
一つは、安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べていたら、規りにうるさいファリサイ派の人たちがそれを見て、「安息日に麦を摘むのは律法違反ではないか。なぜ注意をしないのか」とイエス様に訴えたという話です。
もう一つはそれに続く話ですが、イエス様が安息日の会堂で片手の萎えた人をお癒しになると、そこでもイエス様の安息日破りのことが問題になったという話です。
それだけではなく、ここには穏やかでない事が書かれていまして、ファリサイ派の人々は、これを機にヘロデ派(ヘロデ王朝を支持する政治的党派)の人たちと共に、イエス様を殺す相談をし始めたというのです。それが段々本気になって、エスカレートしてきて、ついにはイエス様を十字架にかけて本当に殺してしまうというところまでいってしまうのです。そうしますと、今日のこの安息日破りの話は、イエス様がなぜ十字架にかからなければならなかったのかということを物語る非常に大切なお話しであるということが言えると思うのです。
三つ目のお話しは、イエス様はそのような不穏な動きを察して、ガリラヤ湖のほとりへと退かれたということが書かれていました。すると、おびただしい群衆がイエス様を追いかけてついていったというのです。
これまでにもイエス様のもとに押し寄せる人々がたいへん多くいたということが書かれているとことがありましたが、今日のところにはその群衆の多さと熱狂ぶりということが非常に強調されています。たとえば「おびただしい群衆」ということが二回も言われています。群衆というだけでも大勢の人々を表すのに、ここではわざわざ「おびただしい」という強調の言葉をつけているんです。
その人々はガリラヤ周辺の町々からだけではなく、都エルサレムや外国の町であるティルスやシドンから来ていたと書かれています。かなり広い範囲にイエス様の存在が知れ渡り、熱烈な支持者が大勢いたということが分かるのです。それから、イエス様が、そのおびただしい群衆に押しつぶされそうになったということも書かれています。さすがのイエス様も、これには閉口しまして弟子たちに助けをお求めになります。そこで弟子たちは舟を出して、イエス様を湖の上に逃れさせたというのです。また中には、「あなたは神の子だ」と熱狂的に叫んだり、ひれ伏したりする人々もいたとも言われています。
この三つ目のお話しは、内容的に前の二つの安息日破りの話とは関係のないことのようですが、一方にはイエス様に対して敵意をむき出しにする人がおり、他方にはこんなにもイエス様を熱狂的に歓迎する人々がいたという比較として見てみたいと思うのです。つまり、イエス様というお方は、ある人たちにとっては目の上のたんこぶのように非常に邪魔な存在でありましたが、ある人たちにとっては本当に待ち望まれていた救い主であったということなのです。
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では、どういう人たちとってイエス様は邪魔な存在であり、どういう人たちにとってイエス様は待ち望まれた存在であったのでしょうか。
3章10節を見ますと、イエス様に押し寄せた群衆についてこう書いてあります。
「病気に悩む人が皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」
イエス様を歓んで迎えた人々というのは、「病気に悩む人」であったということが、ここにはっきりと書かれているのです。では、病気に悩む人というのはどういう人でしょうか。それは自分の病いを知っている人、しかもその深刻さを知っている人です。
病には肉体的な病だけではなく、霊的な病があります。しかし、本当は病気であるのに何も知らないで平気な顔で生きている人がいます。あるいは病気であることが分かっていても、それを軽く見てしまう人もいます。そういう人は病いに悩むことはないしれないけれども、自分の病を癒そうとも思わない人なのです。そういう人ではなく、自分の病を知り、主の癒しを必要とする人々が、イエス様の所に来たということなのです。
前にイエス様が徴税人レビをご自分の弟子とされたというお話しをしました。その時、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と仰ったということを学んだのです。同じ事がここでも言えます。自分の病を知るがイエス様を見いだし、たとえ自分は丈夫だと言い張る人は、たとえ病んでいてもイエス様を歓迎しないのです。
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ところで、聖書を読みますと、イエス様は必ずしもこのおびただしい群衆を歓迎しておられないというような感じを受けます。舟に乗って群衆から逃げ出すとか、「あなたは神の子だ」と熱狂的に叫ぶ人たちを厳しく戒められるというようなことから、そういうことを感じるのです。
それは何故なのでしょうか。確かにこの人たちは自分の病を知り、主の癒しを求めて来たに違いないのですが、まだイエス様の心と人々の心には大きな開きがあったということではないかと思うのです。
人々が求めていたのは肉体的な、精神的な癒しでありました。しかし、人間の本当の病は罪にあります。この世においてどんなに健康であっても、成功を収めても、物質的に豊かになっても、神様の前に罪赦された人間とならなければ、本当の魂の平和を得ることができないのです。その魂の平和をこそ、イエス様は人々に与えようとされていたのです。そのために、イエス様はもっともっと真剣に、深いところでご自分を求めてくるようにと、敢えて彼らから一歩身を引かれたのではないかと思うのです。
私どももこういう経験をします。自分を足りない者と思い、イエス様に一生懸命に求めたのにそれが与えられなかったという経験です。しかし、「与えられない」という辛い経験を通して、より深く祈るようになり、今まで気づかなかった自分の本当に必要に目を向けるようになることがあるのではないでしょうか。そして、そこにこそイエス様の恵みが、神様の愛が豊かに与えられていたのだという経験です。
ニューヨークにあるリハビリテーション研究所の壁に、一人の患者が書いた「病者の祈り」という詩が書かれています。
大事をなそうとして
力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱が与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった
人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中のいい表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
さて、ここで安息ということを考えてみたいと思うのです。この詩を書いた人は、きっとこの世的には弱く、乏しく、悩みに満ちた人生を生きた人だったのでありましょう。一生懸命に求めて戦ってきたけれども、私は何も与えられなかったというのであります。
しかし、実は自分の幸せのために必要なものはすべて神様に与えられていたのだということに気づくことによって、心の平安と喜びが与えれているのであります。自分を支えてくれている神様の愛に気づくということ、それによってのみ私たちは真の安息を得ることができるのです。
今日、人々が飢え渇いているのは、このような真の安息を得ることに対してではないでしょうか。しかし、目に見えることしか見ようとしない人たちには、目に見えない神様の愛に気づくことができないのです。そして、何でも自分で背負い込んでしまって、疲れ切ってしまっているのではないでしょうか。
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聖書には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という神様の教えがあります。それは「六日の間働いて、七日目には一切の仕事を休みなさい」という、「休む」ということが規定されているちょっと変わった教えです。なぜ、休まなくてはいけないのかというと、神様が六日間でこの世界をお造りになり、七日目に休まれたから、人間もこの日を休まなければならないと、聖書は教えています。
これはどういうことなのでしょうか。この世界だけではなく、私たち一人一人も神様によって創られました。私たちの命は神様によって与えれているのです。ですから、生きるということは、必ず自分だけではどうにもならないことがあります。どんなに働いても、どんなに努力しても、どんなに願っても、それだけはどうにもならないことが私たちの人生の根底にあるのです。それはよく運命だとか、定めだとか言われますけれども、聖書の教えに従えば、私たちの造り主である神様が支配しておられる部分なのです。そこに神様が私たちに与えてくださっている生きる喜びや、生きる目的というものがあるのです。
つまり自分の人生は自分の手の中にないということです。それなのに、自分の手で生きようとします。あれもこれも自分の人生に願い、何でも自分の思い通りにしようとします。そうしますと、人間というのはただ生きようとすることだけに必死になってしまって、生きる喜び、生きる目的、生きていることへの祝福などさっぱり経験できなくなってしまう。だから、すべての業を休んで、神様の定めと憐れみの中に自分がいかされているのだという、大きな安息が必要なのです。
自分の人生が自分の小さな手の中にあるのではなく、大きな神様の御手の中にあって、神様に支えられているのだということを心に刻みつけなくてはいけないのです。それが「安息日を心に留めて、聖別せよ」ということです。この安息日を守らないと、生活がうまくいかないわけです。
「病者の祈り」はまさにそこに気がついた人の祈りなのです。
人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中のいい表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
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イエス様は決して安息日の律法を破られたわけではないと思います。むしろ本当の安息日の守り方という点において、ファリサイ派の人たちと対立したのだと考えるのが正しいのではないでしょうか。
ファリサイ派の人たちは、お腹を空かせた弟子たちが麦の穂を摘んで食べることも、病める人を癒すことも、安息日にしてはならない仕事にあたるから駄目だと言いました。それに対して、イエス様は、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と反論され、安息日の本当の守り方について教えられたのでした。
安息日は、私たちが神様の大きな愛によって支えれて生きているのだということを忘れないようにという神様のご配慮によって与えられた日であるということを、覚えて感謝をしたいと思います。そして、私たちがどんなに人生の大変な時を生きているとしても、むしろそういう時だからこそなおさら、教会に来て神様を礼拝し、私の命は神様の大きな御手によって支えられているのだということを思い起こさせていただき、真の安息に魂を生き返せる者になりたいと願うのです。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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