ベトザタの池の癒し
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書5章1-9節
旧約聖書 エレミヤ書23章5-6節
新年の挨拶
 新年の最初の日曜日を、こうして皆さんと共に礼拝を守れます喜びを、心から神様に感謝をいたします。今日は、新年のご挨拶に代えて、最初に個人的な証しをさせていただきたいと思います。

 振り返りまして、先週の日曜日、つまり一年最後の日曜日に、「疲れた者、重荷を負っている者は誰でもわたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」というイエス様のお言葉を読みまして、ご一緒に礼拝をいたしました。そして、本当の休みをイエス様に戴くことによって、私たちは命をリフレッシュして、新しい歩みをすることができるのだということをお話しさせていただいたのでした。

 この御言葉について、ちょっとした証しがあるのです。牧師の年末年始というのは、大晦日や元日が日曜日だったりしますとちょっと大変なのですが、今年は元日が水曜日でありまして、祝日は聖書の学びと祈り会も休みということになってておりましたので、年末年始をゆっくりと休める年でありました。その分、クリスマスの一週間というのは毎日寝るのが2時、3時と、本当に休みのない一週間でありましたので、私は年末年始のゆっくりした時間を過ごせることを楽しみにしていたのです。

 ところが「休み」というのは、先週のお説教を通り、本当にイエス様によらなければ与えられないのだなということを、つくづくと勉強させられた一週間を過ごすことになりました。

 まず書斎の椅子が壊れましまったのです。長時間座って仕事をすることも多い私にとりまして、椅子というのは仕事にも、体調にも影響する大事な道具でありまして、これまでとても満足している椅子でした。それが、突然リクライニングのスプリングが折れて一瞬にして粗大ゴミと化してしまった時には、ひどくがっかりいたしました。

 それからもう一つ、これは目に見えないことなのですが、心にプレッシャーを感じる新しい祈りの課題が与えられまして、平安を得るためには恐れや不安と格闘しながら時間をかけて祈らなければなりませんでした。

 さらにもう一つトラブルがありまして、実は元日の東支区新年礼拝の帰りに財布を落としてしまったのです。お金だけではなく、運転免許証やクレジットカードなどすべて財布に入れていましたので、これまた精神的なショックが大きかったんですね。

 こういうわけで、この年末年始というのは本当に心かき乱されることの多い一週間となりました。「何でこうなっちゃうんだろう」「こんな事がなければ」と、がっかりして気持ちが沈んだり、不安や恐れにプレッシャーを感じたり、いくら暇があっても心に平和がなければどうにもならないという経験をしたのです。そして、その度に御言葉に寄りすがって祈り、自分でした説教を何度も思い起こしながら祈り、その度にイエス様から心の平和を戴いてきました。

 お陰で、私は一年の初めにたいへんいい勉強をさせていただいたと思っております。椅子が壊れたとか、財布を落としたとか、そういうことは、人生においてはまことに些細なことです。しかし、そんなことでも人間というのはたいへん不幸な気持ち、暗い気持ちになってしまうものなのです。それは何故でしょうか。私は神様に祈りながら、一つの答えを戴きました。それは「願望と希望は違う。大切なのは、願望ではなく希望である」ということです。

 人はだれでも幸せを願っています。「ああであって欲しい、こうであって欲しい」と自分の心に幸せを描きます。特にお正月はそうですね。しかし、そういう願望を強く持てば持つほど、逆に不幸せをたくさん感じることになるのです。人生というのは、自分の願望に基づいて築かれるのではありません。人生には、願わなくても、向こうから勝手にやってきてしまうことというのがたくさんあります。きっと、私も、みなさんも、この一年もそういうことを幾つも経験するでしょう。願望にこだわりつづければ、その度にがっかりさせられ、自分は不幸せだと気持ちばかりを大きくしてしまうのです。

 だからこそ希望を持つことが大事なのです。願望は希望ではありません。願望は誰にでもあります。たとえ失望した人にも願望はあるのです。しかし、失望した人には願望はあっても希望がありません。願望は希望ではないのです。

 では、希望とは何でしょうか。それは信じる力です。将来を信じるだけではありません。今をも信じる力です。私は祈りの中で、聖霊に導かれて、一つの思いに至りました。たとえ椅子が壊れても、財布をなくしても、心にプレッシャーを感じることが起こっても、この今をも神様が支配してくださっているのだ。すべては神様が私を導く神様の愛であり、将来の働きのため、将来の祝福のため、最後に天国でイエス様の御顔を仰ぐためなのだ。そのことに信じたとき、心に平和が与えられ、すべてをこれも神様の御心であると受容した上で、「今年も主と共に歩み続けよう」という希望に満ちた新しい命が与えられたのです。
ベトザタの池
 さて、今日は、新年早々でありますが、昨年からの続きでありますイエス様のご生涯のお話しを始めたいと思います。まず1-3節をもう一度お読みしましょう。

 「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」

 イエス様は、辺境の地であるガリラヤ地方で伝道活動をなさっていたのですが、ある祭りの日にユダヤの都エルサレムに上ってこられました。エルサレムは城壁に守られた都で、所々に門がありました。その一つ「羊の門」の傍らに、ベトザタと呼ばれる池があったそうであります。

 これは自然の池ではなく、人工的に作られた四角いプールのような沐浴場でした。現在、この池は発掘されていまして、東西は100メートル、南北は50メートルもあるたいへん大きなものだったと分かっています。

 また、聖書にはこの池には五つの回廊があったとあるものですから、私はてっきり五角形をした池かと思っていたのですが、そうではなく長方形を取り巻くように四つの回廊があり、さらに中央に池を二つに仕切る回廊があったということのようです。そして、その五つの回廊には目の見えない人、体の麻痺した人など、病人や体の不自由な人々であふれていたというのです。
38年間横たわっている男
 その中に38年も病の苦しみから救われることを待ち続けている男がいました。おそらくベトザタの池で一番長く横たわっていた人ではないでしょうか。そこにイエス様がいらしてくださって、この男に声をかけてくださったという話なのです。

 今日はこのことから二つのことをお話ししたいと思います。一つは、救いのない場所に何年も、何十年も横たわっていた人がいるという現実であります。もう一つは、そういう救いのない場所に、イエス様がいらしてくださって、新しい命へと招いてくださっているのだということであります。

 ベトザタの池は救いのない場所でした。古い資料によりますと、この池の水は赤かったと言われています。そうだとしたら、鉄分を含んだ水が地下からわき上がる温泉か冷泉であったのかもしれません。温泉なら体によいこともありましょう。この池の周りにたくさんの病人や体の不自由な人が集まっていたというのは、そういう事情があったようなのです。

 ただ、当時の人たちはちょっと違うように考えていました。天使がこの池に舞い降りて、病人を癒してくれると信じていたというのです。実は、この池は間欠泉でありまして、一定の時間ごとに水がわき上がり、池の水が揺れました。それを当時の人は「天使がこの池に舞い降りた徴」だと考えまして、その時に真っ先に池に飛び込んで沐浴した人は、天使によって病気を治していただけると信じていました。

 こうして、ベトザタの池の回廊には、目の見えない人や体の麻痺した人など、たくさんの病人たちがその瞬間を待って横たわっていたというわけなのです。

 しかし、ベテスダの池には温泉としての効用はあったかもしれませんが、奇跡の力があったわけではないのです。病気を癒す池、奇跡の水・・・こういう迷信は世界中のいたるところに存在します。そして、多くの人が望みをかけてそこに集まってきます。しかし、そこに救いがあろうはずがないのです。救いのないところに、いくら救いを求めてもそれを得ることはできません。

 聖書にはこう書いてあります。5節

 「さて、そこに38年間も病気で苦しんでいる人がいた。」

 彼は、ベテスダの池のほとりに38年間も横たわっていて、癒されることがありませんでした。そこに救いがなかった証拠です。しかし、それでもなお、彼はそこに居続けようとしました。救いのない場所を立ち去ろうとしませんでした。

 先ほど、私の小さな証しでももうしましたが、私は、この人は自分の願いに固執するあまり希望を失ってしまっていたのだと思います。自分の願いが叶わないかぎり歩み出せないと思っている。しかし、そうではありません。自分の願いが叶わなくても、希望をもって新しい人生を歩み出す人がいるのです。希望があれば、たとえ病んでいても、体が動かなくても、自分の願いが叶わなくても、きっと後で幸せを感じることができる人生を生きることができるのです。
イエス様が来た!
 しかしながら、この失望の池にイエス様がいらして、この38年間病に苦しんでいた男に声をかけてくださったということが、今日の聖書に書かれていました。6-9節をもう一度読んでみましょう。

「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」

 わたしは、ここにとても深い慰めを得ます。一つは、これがユダ人の祭りの日であったことを考えてみてください。みんなが喜々として神殿に向かっていくとき、イエス様はベテスダの池に向かわれました。そこは、救いのない場所です。そして、そこに祭りから取り残された人々が大勢横たわっていました。イエス様は、祭りの日の賑わいの陰にそんな場所があることを忘れないで、そこをお訪ねくださるのです。

 さらに、イエス様は、そこで38年間も病に苦しみ、横たわっている人を見つけました。イエス様は、深い憐れみをもってこの人に声をかけられます。

 「よくなりたいのか」

 しかし、男は、「よくなりたい」とまっすぐに答えることができません。その代わり、自分が癒されないままどうしてここにいるのか、奇妙な言い訳をするのです。それは人のせいだ、誰も助けてくれる人がいないからだと言っています。

 今の世にも自分の人生の言い訳ばかりをしたり、うまくいかないことを人のせいにばかりしている人がいます。そういう人は願いはあっても、失望しているのです。希望がないのです。そして、そういう人は今ある不幸に留まり続けるばかりで、決して新しい人生へと脱出することができないのです。

 しかし、イエス様は、この希望のない人に対して、決して「あなたは駄目だ」とは仰いませんでした。深い憐れみをもって失望した心に御言葉を与え、希望を沸き立たせてくださるのです。希望がなければ駄目ではなく、希望を持ちなさいと心に御力をもって働きかけてくださるわけです。

 失望した心に希望を与えるということが、どんなに難しいことか。わたしはしばしばそれを経験します。失望した心には、何を言っても無駄な気がします。本当にこの人にように、人のせいや環境のせいにするような言い訳ばかりが返ってきます。自分の中に希望という力をもって、歩み出さなくては何も始まらないのだとどんなに説明しても、「のれんに腕押し」「糠にくぎ」・・・何の手応えも感じられない時がよくあります。

 ところが、そういう人が急に気がつくときがあります。それは、その人が私の言葉ではなく、聖書の言葉がその人の心に届いたときなのです。

 御言葉には力があります。御言葉がその人の心に届きさえすれば、御言葉そのものがその人のうちに力となり、新しい命を造り出すのです。イエス様の「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」というお言葉一つで、彼は良くなって、床を担いで歩き出したとあります。不思議な話でありますけれども、イエス様のお言葉にはそういう力があるのです。

 私は、ここで慰めを得ると言いました。私たちは自分に対しても、人に対しても、しばしば失望させられます。がっかりさせられます。力を失います。希望をもて、信仰をもてと言われても、どうにもならない時があります。しかし、そこにもイエス様が来てくださる。その場所にも、その状況にも、イエス様の慈しみに満ちた目が注がれ、神様の愛と力で包んでくださるのです。

 最後にローマの信徒への手紙8章3節の御言葉をお読みしましょう。

 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。

 「神様がしてくださる」これこそが私たちの希望ではありませんか。願いは叶わないこともありましょう。願わないことが勝手にやってくることもありましょう。しかし、私たちの人生は神様に愛されているのです。神様は、私たちが肉の弱さのためになしえないことを、イエス様によってしてくださろうとしているのです。 
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp