|
|
|
今朝は、イエス様が収税所に座っていたレビに目を留められ、「わたしに従いなさい」と声をかえられて、ご自分の弟子にされたというお話です。27節をもう一度読んでみましょう。
「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」
私たちは道を歩いていますといろいろなものが目に留まります。逆に、毎日そこにあるのにまったく気づかなくて、「意外と何もみていないんだなあ」という経験もあるのです。
たとえば、クリスマスも近いこの時期になると、リースを飾っている家や、この教会のように豆電球で飾っている家などがあります。そういうものはわざわざ気をつけなくても自然と向こうから目に入ってきて、「ああ、ここにもある。あそこにもある」と、よく見えるものです。また、最近歩いていてよく気がつくのは、毎日歩いている道にいつのまにか新しい家が建っていたり、マンションが建っていたりしていることです。
ところが、いったい前はどんなだった家だったかなと思い出そうとしてもさっぱり思い出せないのです。思い出せないとなるととても気になって、どうでもいいことなのに一生懸命に記憶の糸をたどります。ところが、毎日その前を通っていたはずなのに、そこに何があったかさっぱり思い出せないという経験をするのです。
誰かと一緒に同じ道を歩いて、その人はちゃんと見ていたのに、自分はまったく見ていなかったということもあります。みなさんも、同じような経験がおありではないかと思うのですが、これは記憶力だけの問題ではなくて、人間というのは見えるものをすべて見ているのではなくて、自分にとって価値のあるもの、興味のあるものだけを見ているということだと思うのです。
逆にいうと、その人の目が何を見ているのか、どこに向かっているのかということを追っていきますと、その人の心の奥で大切にされているのが何かということが見えてくるということなのです。
我らが救い主であるイエス様は、収税所に座っている一人の徴税人に目を向けられました。そのイエス様のお心の奥にあるものは何であったのでしょうか。それは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」というお言葉によって表されていることである、これが今日のお話しの大切なポイントなのです。 |
|
|
|
|
「収税所」というのはローマ政府に納める税金を納めるところ、「徴税人」は人々から税金を集める人です。それだけのことであるなら、徴税人を罪人扱いするのは実に不当なことでしょう。
しかし、当時の徴税人というのは、今でいう税務署の職員とはぜんぜん違うのでありまして、人々の財布や手荷物を調べては、勝手に「これは税金だ」と言ってお金や物を巻き上げいたというのです。こういう乱暴なことをしてかなりの私服を肥やしていたのが徴税人なのです。これでは、徴税人というよりも政府公認の強盗だと言われても仕方ありません。
また徴税人は同じユダヤ人の仕事でした。しかし、もはや仲間とはいえません。支配者であるローマ政府の手先となって、自分たちの生活を脅かし、圧迫する敵なのです。
ローマ政府は、うまいことを考えたのでありまして、もしローマの役人がこんな風に乱暴な仕方で税金を集めれば、必ず民衆の不満が募り、暴動につながりかねません。そこでローマ政府は自らの手は汚さずに、税金を集める権利というのものを売って、同じユダヤ人に税金を集めさせたのです。
権利を手に入れた人は、その権利が及ぶ地域ではどんなお金の集め方をしてもいいということになっていました。それで、強盗みたいなことまでやっても大目に見られていたのです。しかし、その代償も決して小さくありませんでした。人々からは売国奴として冷たい視線を受けることなります。自分だけはない、家族や親族までそういう冷たい視線に耐えなければなりませんでした。
レビは、どうして徴税人になったのでしょうか。進んでなったのでしょうか。やむを得ずなったのでしょうか。聖書に書いてないことは結局どちらとも言えませんが、進んでだろうが、やむを得ずであろうが、そういう道に入るというのはやはりのその背後に、何かしら背負っている重たいものがあったのだと思います。
今の世の中にも、人々が蔑む仕事を生業としている人がいます。ヤクザとか、売春婦とか、風俗業界とか、他にも色々とヤバイ仕事というものが世の中にはあるようです。そういう人たちも、中には自分は進んでこの道に入ったんだという人もいるかもしれませんが、もともと心も物質的にも恵まれた幸せな生活から、こういう誇りのない生き方へ自ら転落していく人というのは、まずいないだろうと思うのです。何かしらその人に不幸な背景がありまして、その不幸を背負って生きる過程の中で道を誤ってしまったとか、考え方が歪んでしまったとか、そのように思うのです。
不幸な人がみんなそうなると言っているのではありません。また、そういう生い立ちだから、どんな生き方をしてようと仕方がないことだというのでもありません。ただ、こういう人たちは悪い人間といよりも、不幸な人間なのではないかということなのです。
私は、「レビが収税所に座っていた」ということにも、注目しなくてはいけないだろうと思います。何気ない表現ですけれど、私はここにレビの人生を読み取ることができるのではないかと思うのです。レビは、今申しましたように、自分でなりたくて徴税人になったわけではないかもしれません。悪いことをしているという気持ちもあったかもしれません。しかしだからといって、徴税人をやめて新しい生き方を歩み出す力もないまま、収税所の椅子に座っているのです。そこに座ったまま、他のところに行くことができないのです。
私どもにも似たようなところがないでしょうか。心の奥底から「これではいけない」という声が響いてきても、「これ以上どうしようもない」「おれだけではない。みんなもやっている」「食べていくためには仕方がないんだ」「俺だけ頑張ってもどうにもならない」「世の中が悪いんだ」「私だって可哀想な人間のひとりなんだ」、こんな風に自分の人生に言い訳をし、開き直って、今の人生に座り込んでしまっているということがないのでしょうか。 |
|
|
|
|
もう一度、27節を読んでみましょう。
「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。」
最初にもうしましたように、自分が関心のあるものに目が留まるのです。イエス様は、レビに目を留められました。レビは、情けない自分の中に座り込んでしまって、そこから立ち上がる力もない人間でした。しかも、人々から嫌われ、蔑まされ、誰も彼を助けようとする人はいない。レビは、どこにも救いがない人間だったのです。
しかし、レビがそのような人間だからこそ、イエス様は目は彼の上に注がれたのです。彼を見過ごすことができなかったのです。イエス様は、このような人を神様のもとにお返しするために、世にいらしたお方なのです。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
文字通り、これがイエス様のお心なのです |
|
|
|
|
イエス様は収税所に座り込んでいるレビに注目し、彼に近寄ります。そして声をかけられました。
「わたしについてきなさい」
すると不思議なことが起こります。レビは、イエス様の声を聞くやいなや、何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従ったのでした。
今まで自分の中に座り込んで決して立ち上がることができなかったレビが、どうしてイエス様のお言葉を聞いた途端に、まったく新しい人生に向かって歩み出すことができたのでしょうか。
それは、彼が本当は立ち上がることができなかったのではなく、立ち上がろうとしなかっただけだったのだ、と考える人もいるかもしれません。そういうことなら、誰かが少し彼の手助けをするだけで、彼が自分の足で新しい人生を歩き始めるようになったとしても、あまり不思議ではありません。
けれども、イエス様のお言葉には、まったく動けない人を動かすような本当に素晴らしい力があるということも事実なのです。
明治時代のキリスト者で、好地由太郎という人がいます。彼は貧しい家庭に生まれ、18才の時に日本橋に奉公に出されました。しかし奉公先で悪いことを重ね、ついには女主人を殺害、金を奪い、証拠を消すために放火し、無期懲役の刑を受けるのでした。彼はの獄中でも脱走を繰り返し、その度に逮捕され、少しも反省の色もなく、看守からもひどく嫌われていました。ところが、ある日、見知らぬ牧師が刑務所を訪問し、彼にも一冊の聖書が差し入れられました。これは好地由太郎の母親からの差し入れだったようです。ところが、彼は教育を受けていないものですから字が読めないです。もっとも、たとえ字が読めたとしても聖書など読むような考えはなかったでありましょう。
ある日のこと、好地由太郎は不思議な夢をみました。天使のような輝いた顔の少年が現われて「この本を食べなさい。これは永遠の生命を与える神の道です。」と彼に告げたというのです。それから好地由太郎は、看守長から片仮名と平仮名を学び、聖書を一生懸命に読み始めました。」
次第に彼は「自分がなんと人生に値しないような生き方をしてきた」と痛感するようになり、彼は変わりました。酒もたばこもやめ、人がいやがる便所掃除を率先してやるようになり、病気の囚人を心をこめて介護し、自分の魂を救った福音を他の囚人たちに伝えました。イエス様の御言葉に触れ、彼は新しい人生を歩み始めたのです。
一転して模範囚となった好地由太郎は、明治天皇の特別な恩赦により釈放されました。天皇の特別な計らいにより戸籍から犯罪歴が抹消されたともいいます。23年の監獄生活でした。監獄を出た好地由太郎は、牧師になり、多くの魂をキリストに導いたということです。
本当にすごい話だと思いますが、これはイエス様の御言葉に触れて新しい人生を歩みだしたほんの一例にすぎないのです。先週、お話しした水野源三さんは、全身不随の失望の床で御言葉に触れ、讃美と感謝に満ちた新しい人生を始めました。アメージング・グレイスを書いたジョン・ニュートンは奴隷船の船長でしたが、嵐の中で御言葉に触れ、牧師になりました。
みなさん、イエス様のお言葉には、諦めや、言い訳や、開き直りや、自己憐憫の中にしゃがみ込んでいた私たちを立ち上がらせ、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人として生まれ変わせる力があるのです。 |
|
|
|
|
「わたしに従いなさい」というイエス様のお言葉を聞いたとき、レビの心の中で何か大きな良き力が働きだしたに違いありません。しかし、それは強制する力ではありません。イエス様の力は強制ではなく、いつも恵みなのです。
恵みという事は、贈り物であるということです。贈り物は受け取ったときに、はじめて自分のものになるわけです。レビは、「わたしに従いなさい」という恵みを受け取らないで、今までまったく同じように収税所に座り続けることも出来たのです。もし、そうなればイエス様は何度も、何度も、レビが立ち上がるまで呼びかけてくださったことと思います。が、大切なことは贈り物を受け取らなければ、何も始まらないということです。イエス様の招きを信じ、御言葉に自分を委ねながら第一歩を踏み出さない限り、新しい人生は始まらないのです。
レビの踏み出した一歩は、すぐに新しい現実となりました。イエス様が、レビの家でイエス様が友の一人として食事をしてくださったのです。レビの友達といえば、同じ徴税人仲間か、あるいは同類のあまり陽の当たらない仕事をしている人たちでありました。いくらレビが生まれ変わったといっても、急に新しい友達ができるわけではないのです。レビが家に招待したのは今までと同じ仲間たちであります。しかし、その中にイエス様がおられる、それがレビの新しい現実でありました。
好地由太郎もそうですね。回心してすぐに監獄を出たわけではありません。今までと同じところに生き続けているのです。しかし、イエス様が共にいてくださるという現実が、すべてを新しくしていたのです。彼は監獄の中で、新しい人として新しい人生をすでに生き始めていたのでした。
イエス様によって新しく生まれ変わるというのは、生活の状況が変わるのではなく、その中を生きる自分が変わるということなのです。同じ監獄でも、その中に生きている自分が今までとは違う。仲間は変わらなくても、自分が変わっている。イエス様が共にいてくださるということが、自分を今までとはまったく違う人間にするのです。
やがて、レビはイエス様の十二使徒の一人となります。そして、レビは、またの名前をマタイというのですが、福音書を書きあらわし、後世の人たちに福音を伝え続けるのです。
すべては、イエス様が収税所に座っているレビに目をとめてくださったというところから始まっているということを、思い起こして感謝をしたいと思います。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|