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今朝は「中風の人の癒し」と言われるイエス様の奇跡物語の続きです。四人の男たちが中風の友を、床ごとイエス様のもとに連れて行こうとしました。ところが、イエス様のおられる家まできてみると、もうたくさんの人々がそこにおりまして、とてもイエス様に近づくことができない状況だったのです。
四人の男たちはそれで諦めないで、なんとかイエス様に近づく方法を考えます。そして、屋根に上り、瓦をはがして、天上から友をイエス様の前に吊りおろしたというのです。イエス様は四人の男たちの信仰をみて、中風の人に向かい、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。そこまでを先週はお話ししたのでした。
このことから、四人の男の信仰ということを学びました。本当に彼らに信仰があったのかと言えば、私にはそうは思えないのです。彼らは確かに病める人の真の友になろうとしたわけですけれども、それはいわば身内だからです。それは何も偉いことではありません。
イエス様も「罪人であっても、自分の仲間を愛する」(マタイ5:46)、「偶像礼拝者だって自分の兄弟には挨拶をする」(マタイ5:47)、「悪い父親であっても自分の子供にはよい贈り物をする」(ルカ11:13)、それ以上のことができなければ神様の子となった意味がないんだ教えておられるのです。そういうことからしますと、四人の男が、どんなことをしてでも自分たちの友を助けようとしたのはそんなに偉い事じゃないということになります。
むしろ、自分の仲間を助けるために、他の人々を押しのけたり、人の家の屋根を壊したり、こういう「自分さえよければいい」という行動こそ問題なのです。これを隣人愛だ、信仰だと言えるのかと言えば、私は「いいや、それは違う」と言わざるを得ません。
しかし、「それではあなたはそれ以上の信仰を持っているのか」と言えば、やはり「いいや、それも違う」と答えざるを得ないのです。そんな信仰といえるかどうか分からないような彼らの信仰を、そして私たちの信仰を、イエス様は、それをちゃんと信仰と認めてくださった。そこに救いがあるのです。
信仰によって救われるとは言いますが、実はその信仰ですらもイエス様の大きなお心によって清められて、はじめて信仰と呼べるものになるわけです。先週は、そういうお話しをしました。 |
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今日は、その後の話です。イエス様が中風の人に向かって「人よ、あなたの罪は赦された」と言われると、そこにいた律法学者やファリサイ派の人たちは、「なんと酷い言葉だ。神様を冒涜している。罪を赦す御方は神様だけなのに、この男はまるで自分が神であるかのように振る舞っている」と考えたというのです。
この律法学者やファリサイ派の人たちというのは、実はイエス様が何者であるかを確かめようとして全国から集まってきた人々であったということが、1節で説明されています。はじめから、イエス様をやっつけようとしていたのかもしれません。
そのような彼らの考えを、イエス様は敏感に察しまして、こう言われました。22-24節をもう一度お読みしたいと思います。
「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。」
イエス様が言われると、中風の人はすぐさま起きあがり、床を担ぎ上げ、神様を讃美しながら家に帰っていったと言われているのです。 |
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お分かりのように、この中風の人の癒しは、たんなる病の癒しの話ではありません。最初、イエス様は「あなたの罪は赦された」と言われました。次に「罪の赦しと病の癒しとどちらが易しいことか」とお尋ねになりました。そして、「人の子が罪を赦す権威をもっていることを知らせるために」といい、中風の人の病を癒されたというのです。
こうしてみますと、イエス様は病の癒しよりも、罪の赦しを大切に考えておられるように思います。そして、罪が赦されたことを証明することとして病が癒された、そういう書き方をしてあるのです。
なぜ罪の赦しなのでしょうか。考えられる一つの答えは、この人が罪のせいで病気になっていたということです。しかし、それはあまりにも短絡的な考え方です。罪を犯したから病気になるとか、病気になったのは罪のせいだというのは、新興宗教ではよく言われることですが、聖書は罪と病気の関係をそんな風には考えていないのです。
それでは何故、罪の赦しなのでしょうか。それは罪の赦しこそが、人間を本当に絶望から救い出し、救いのある人間にするからなのです。これは、病気に限らず色々な重荷を背負って生きている人間にとって、何よりも大切なことです。
生きていく限り、誰だって色々な問題を背負って行かなくてはいけません。しかし、同じ苦労の多い人生でも、希望をもって生きていける人と、絶望して意気阻喪している人がいます。絶望している人というのは、その人の問題が他の人よりも深刻だから絶望しているのではないのです。絶望する人はどんな小さな問題でも絶望します。しかし、希望のある人間は、どんなに大きな重荷を背負っていても、決して絶望しません。
この違いは、自分に向けられた神様の愛、そして神の救いがあることを信じられるかどうかにかかっているのです。そして、その神様の愛、神様の救いを信じられなくしているものこそが、罪なのです。
「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と、イエス様はどんなに人にも神様の愛が注がれていると教えてくださいました。人間だけではありません。空の鳥にも、野の花にも、山の狐にも、神様の愛が注がれているとも言われました。世の中に、神様に愛されていない人間なんて一人もいないのです。けれども、自分に注がれているそのような神様の愛を信じられくしてしまっているものが自分の中にあります。それが罪なのです。
「問題はあなたの罪なのだ」、こう言いますと、誰でも「いったい私がどんな悪いことをしたのだ」と言いたくなります。しかし、聖書が言う罪というのは、何をしたかということが問題ではないのです。どういう状態にあるのか、ということこそ問題なのです。
人間は常に三つの関係の中に生きています。まず第1に、造り主なる神様と関係です。第二に、家族や社会で他の人々と一緒に生きていく人間同士の関係です。第三に、私たちの生きる環境である自然との関係です。この三つの関係が一つでも壊れていますと、人間というのは決してうまく生きていくことができないのです。これらすべてが壊れてしまっている。それが聖書の言う罪です。
そして、特に問題なのが、私たちが一番最初に関係を持たなくてはいけない造り主なる神様の関係です。ここが壊れてしまったから、人間同士もうまくつき合えませんし、自然と上手に調和することもできなくなってしまった、これが聖書の教えている人間の抱えている罪なのです。
神様との関係が壊れるとはどういうことでしょうか。神様を神様だと認めなくなってしまったということです。そして、神様に対する正しい姿勢、生き方を逸脱してしまったということです。神様のお言葉は何が何でも守らなければならないのに背いてしまう。神様を讃美し、神様に感謝すべきなのに、それをしない。神様を愛し、いつも神様の一緒に生きていなければいけないのに、それができない。ついには、神様がいないとか、自分で勝手に神様を作ったり、自分が神であるとまでいったりする始末です。
この罪が、私たちをまったく救いのない状態に陥れてしまっているのです。罪は、私たちを恥に陥れ、孤独に陥れます。恥は私たちの劣等感となり、孤独は恐れや不安となります。そんな時に、「神様、助けてください」と素直に叫ぶことができるならばいいのですが、神様との関係が壊れてしまっているために、それもできません。それならばと、人に頼ろうとしますが、人はみんな自分のことで精一杯です。結局、誰も助けてくれない、自分のことは自分でやれということになるわけです。
しかし、本当は助けが必要なのです。けれども自分を助けてくれるものがどこにあるのか分からない。神様が助けてくださると言っても、そんなものはないと思わざるを得なくなってしまう。それが罪ある人間の悲惨さなのです。
私たちが、助けを必要としている人間であるということ、それは罪のせいではありません。神様が人間を助け合って生きていくものとしてお造りになったのです。助けを求めることは何も恥ずかしいことではない。むしろ、そこに愛が芽生えてくる。神に祈り、人の助けを求め、助け合って生きるということは大切な人間の生き方なのです。
問題は、神の助け、人の助けが必要なのに助けを求められない、助けがあると信じられない、そういう救いのない状態に陥ってしまっていることにあるのです。 |
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そういう人間に近づいてきて、「あなたの罪は赦されたのだ」と仰ってくださったのが、イエス様なのです。罪の赦しが与えられるというのは、今までまったく救いのない人間であったものが、救いのある人間、救いを信じられる人間になるということなのです。
ご存じの方も多いかと思いますが、私はこの中風の人の身の上を思うとき、水野源三さんのことを思い起こしました。水野さんは、小学校四年生の時にかかった病気がもとで口も手足も動かず、寝たきりで四十年以上を過ごしました。
それまで学校の成績もよく、他の小学生たちと同じように野山を駆け回り、川に潜って魚をとるような腕白な少年だった水野さんは、じっと天上をみつめて一日中寝ているしかない、まったく救いのない自分の人生を嘆き悲しみ続けます。治る見込みのない病気です。このまま生きていてもしようがない。死んだ方がましだ。死にたい。そんなことを考え続けるのです。
そんな水野さんが、ある牧師さんとの出会いを通して聖書を読むようになり、やがてイエス様と出会い、十字架の福音、すなわちイエス様の恵みによる罪の赦しを受け入れることによって、神様の愛に心と目がひらけていくのです。
水野さんは話すことも、書くこともできない身でありましたが、アイウエオの書いた板をもったお母さんに、まばたきで合図を送りながら、自分の思いを表現することを覚えました。そして、この方法で神様を讃美するたくさんの詩を書くようになったのです。
その詩の中の「今日一日も」という詩をご紹介しましょう。
新聞のにおいに朝を感じ
冷たい水のうまさに夏を感じ
風鈴の音の涼しさに夕暮れを感じ
かえるの声はっきりして夜を感じ
今日も一日終わりぬ
一つの事一つの事に
神様の恵みと愛を感じて
水野さんは、イエス様を信じ、罪の赦しを受け入れても、寝たきりの生活から解放されたわけではありませんでした。けれども、神様の愛を信じられる人間になったのです。絶望する人間は、どんな小さなことにも絶望するともうしました。しかし、水野さんは当然絶望しても仕方がないような重い障害を持ちながら、どんな小さなことに神様の愛を感じ、喜べる人間になったのです。 |
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イエス様は、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われました。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と言われ、中風の人に「起きあがり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。すると、「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を讃美しながら家に帰っていった」とあります。
病の癒しが、この人の体を強くし、寝たりきりから起きあがらせたことは事実です。しかし、この人が神様を讃美する人間として家に帰っていったのは、病の癒しのせいではなく、罪の赦しのゆえであったのです。
どんな自分でもあっても神様の愛されていることを知り、いつでも愛の神様がいっしょにいてくださることを知り、どんな時にも神様から救いが来るということをまったく信じ切った人間になる、これが罪の赦しなのです。そして、イエス様は私たちにそのような罪の赦しを与え、私たちを絶望した人間から、救いのある人間として新しく生まれ変わらせてくださる御方なのです。
もう一つ、水野さんの詩を、クリスマスの近いこの時期にあった「救いの御子の降誕を」という詩をご紹介しましょう。
一度も高らかに
クリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがない
一度も声を出して
クリスマスを祝うあいさつをしたことがない
一度もカードに
メリークリスマスと書いたことがない
だけどだけど
雪と風がたたく部屋で
心の中で歌い
自分自身にあいさつをし
まぶたの裏に書き
救いの御子のご降誕を
御神に感謝しよろこび歌う
本当に、罪の赦しを受けて、神様との恵みに満ちた新しい関係にいきる人間となると、私たちを取り囲んでいる本当に大きな神様の愛が、このように見えてくるのだなと思うのです。そして、どんなに自分が貧しくても、救いの泉から限りなく救いをくみ取ることができる幸せを戴くことができるのだなと思うのです。
私たちもまたイエス様によって、このような罪を赦しを、新しい命を戴いている者なのです。感謝をしましょう。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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