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今朝は、「中風の人の癒し」と言われるお話です。これはとても印象的な出来事でありまして、四人の男たちが、中風の友を板にのせてイエス様のおられる家に運んできました。中風というのは中気ともいいますが、脳卒中などで体が麻痺してしまった人の事です。ところが中にも、外にも、たくさんの人々があふれていまして、とても中まで連れて行くことができません。そこで彼らは一計を案じ、屋根に上ると瓦をはがし、天井から戸板に寝ている友を吊りおろして、イエス様の真ん前に運んだというのです。
何とも大胆不敵な行動であります。イエス様もさぞかし驚かれたでありましょう。天井を見上げると、ぽっかりと空いた穴から心配そうにのぞき込んでいる男たちがいます。イエス様は彼らをみて、その奥底にある信仰をご覧になったと言います。そして、中風の人に目をおろされると、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのでした。
話はこれで終わらず、この一部始終を見ていた人々の中に、これは酷いと憤慨する人々がいます。確かに、人の家なのに屋根を壊して入ってくるなんて酷い話だと思います。でも、憤慨した人々は、そのことを問題にしたのではありませんでした。「人よ、あなたの罪は赦された」というイエス様のお言葉、これに対して「これは酷い言葉だ」と問題にしたというのです。
問題にしたのは、全国から集まってきたユダヤ教のお偉い先生方でした。彼らは、近頃評判のイエスという男はいったい何者なのかということを確かめに来ていたのです。
似たような話があります。今年ノーベル化学賞をとった田中さんという方は、大学を出ただけのサラリーマンで、学会でもまったく名が知られていない人でありました。ですから、受賞のニュースが流れたとき、その道の人たちは皆、いったい誰だろうと驚いたと言います。
イエス様もそうでありまして、イエス様は神学校に行ったわけでもなく、高名な先生の弟子として学んだというわけでもありません。ですから、その評判がユダヤ全土に広まっているにもかかわらず、その道の人たちは誰もイエス様のことを知らなかったのです。「いったい、誰の弟子だ? どこの神学校を出たんだ? 父親は誰だ?」と思っても、誰も知らないわけです。それで「人々を惑わすインチキ伝道者ではないか」と、このような疑念をもってイエスという男を吟味するために集まっていたというのです。
ところが、その教えを聞いてもなかなか立派であるし、目の前で次々と奇跡が起これば、何も言えなかったのでした。かといって、どこの馬の骨とも分からない男が、自分たちよりも偉大な教師であるということを認めるのも悔しい。面目がつぶれて、まったく面白くない気持ちで見守っているときに、この事件が起きたのでした。
「あなたの罪は赦された」と、イエス様は言いました。それを聞いたお偉い先生方は、したり顔で考えはじめました。「聞いたぞ。これは神学的にたいへんな間違いである。いや、神を冒涜する言葉ですらある。ただ神のほかに罪を赦すことなどできないのだ。これで、この男のしっぽを掴んだぞ。何も知らぬ人々はだませても、我々はだませない。いつか化けの皮をはがしてやるぞ」
彼らの考えていることを敏感に感じ取られたイエス様は、偉い先生方に向かって、少し怒ったようにこう言います。22-23節、
「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
そして、彼らの目の前で、中風の人に向かってこう言われたのでした。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」
すると、中風の人に奇跡が起こり、彼は自分の力で立ち上がり、寝ていた台を取り上げて、神様を讃美しながら家に帰っていたのでした。
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以上が、今日の聖書に書かれていただいたいお話ですが、今日は四人の男たち(マルコ福音書には男たちが「四人」であったと記されています)の信仰ということに的をしぼって、残りの部分については来週にお話しさせていただきたいと思っています。
まず思いますのは、彼らがどのように病人を運んだかということです。四人の男たちは、中風の友をイエス様のもとに運ぶために、たいへんな苦労をいたしました。そのために凄まじい努力をしました。群衆に阻まれてイエス様に近づくことができないと分かっても、決して諦めなかったのです。屋根に穴を空けて、そこから吊りおろすというまったく非常識極まりないことまでやってのけて、病める友をイエス様のもとに運んだのでありました。
ここにありますように、病人を運ぶということはたいへんなことです。物を運ぶとのはわけが違う。病める人を運ぶというのは、病める人の真の友となって、病める人を救いたいという一心ですることでありまして、愛の業でなのです。
病人を運ぶ話と言えば、「よきサマリア人」というイエス様のたとえ話があります。山道で強盗に襲われ、瀕死の状態で倒れているユダヤ人の旅人がおりました。そこに祭司やレビ人が次々に通りかかりますが、いずれもこの人と関わりを持つことを恐れて、見て見ぬ振りをして通り過ぎてしまいました。そこに、サマリア人が通りかかります。彼は、倒れているユダヤ人を見るやいなや駆け寄り、傷に油とぶどう酒を塗り、包帯を巻き、手厚く介抱し、自分のロバにのせて宿屋に連れて行き、彼と一緒に一晩泊まったというのです。
イエス様は、このお話しのあと、「誰が倒れている旅人の隣人になったか」とお聞きになりました。「その人を助けた人です」と答えると、イエス様は満足され、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたという話です。病める人を運ぶということは、その人の真の隣人、真の友となることだというお話しがここにもあるわけです。
先日の祈祷会でも、ある婦人の方がこのような証しをしてくださいました。その方は、体調が悪くて悩んでおられた。ちょうど休日なので、明日になったら医者にいってみようと考えておられましたが、病の不安はぬぐえなかった。ちょうどそこにお姉さまが訪ねていらしたというのです。
実はお姉さまも病を患っておられまして大きな手術を控えているところでした。病気のために体も痩せ、しわも深くなったお姉さまは、本当はご自分が心細くて姉妹を訪ねていらしたそうです。ところが、来てみると姉妹の体調が悪いことが分かった。お姉さまはご自分の病気のことを忘れて、しぶる姉妹を説得し、病める体を押して救急病院までつれていってくださったというのです。
お陰で姉妹はお医者さんにちゃんと見てもらって、説明を受け、不安はすっかり消えたそうですが、お姉さまが、ご自分の体もたいへんなのに、姉妹のことをこんなにも心配して病院につれていってくれたことが本当に有り難かったというお話しでありました。
何度も繰り返しますが、病人を運ぶというのは愛の業なのです。そこには、何が何でも、絶対に運んでいかなければならないという強い愛の使命があります。
愛する家族を、愛する友を医者に連れて行こうとする人は、遠いから行けないとか、忙しいから駄目だとか、今日は病院が休みだから駄目だ、今は夜だから駄目だということは言いません。「鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス」じゃありませんけれども、一つの道がふさがれてたら別の道を捜し、それが駄目だったらまた別の道を捜し、扉が閉まっていたら空けてくれるまでたたき続ける。
場合によっては、非常識の誹りを受けるのを覚悟しなければならないときもあるかもしれません。スピード違反などの法令違反も承知で急がなければならないこともあるかもしれません。大切な仕事をすっぽかし大きな損害を受けることがあるかもしれません。しかし、それよりも何よりも大切なこととして、またどんな壁に阻まれても諦めようとしないで、どんなことをしてでもその人を運ぼうとするのです。
たとえ壁や屋根を破ってでも、病人を、彼を救ってくれる人のところに連れて行く。それが病める人の友となり、その人を救わんとする愛の業なのです。それが病人を運ぶと言うことです。 |
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四人の男たちは、そのような気持ちで屋根瓦をはがし、そこから中風の友をイエス様の前に吊りおろしたわけですが、イエス様は、それをどのように受け止めてくださったのでしょうか。聖書には、こうあります。20節
「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」
最初にもうしましたように、「あなたの罪は赦された」というお言葉によって、このお話しの新たな方向に展開していくのですが、それは来週のお話とさせていただきたいと思います。今日は、イエス様が「その人たちの信仰を見た」ということを考えたいのです。
「その人たちの信仰」とは何でしょうか。これは先週、「重い皮膚の人の癒し」をお話ししたときにもうしましたことですが、もう一度もうしますと、信仰とは、イエス様に近づくことです。重い皮膚病の人がイエス様に近づくということにも、決死の思いが必要でした。それは「死に瀕した人の反作用である」という話もしました。それに相通じる思いをもって、この人たちは中風の友をイエス様の前に連れて行こうとしました。他人の家の屋根に上り、屋根瓦をはがしてまでも、病める友をイエス様の前に連れて行こうとしました。この行いの中に、イエス様は信仰をご覧になったというのです。
しかし、それだけではなく、私は今日のところでさらに思うことがあるのです。それは、本当にこの人たちには信仰があったのだろうかということです。
たとえば、みなさんの信仰をもって考えてみてください。人々を押しのけて教会の中に入ってくる人を、素晴らしい信仰者だと思われるでしょうか。まして、教会の窓や屋根を破って侵入してくるとしたらどうでしょうか。「そんなのは信仰ではない。自分のことしか考えないエゴイストだ」と、考えるのが普通だと思うのです。少なくともみなさんはそんなことをなさらないのではないでしょうか。
では、仮にそういう人がいたとして、この四人の男とどこが違うのかということであります。同じなのです。この人たちのしていることは、人を押しのけてまで救いを勝ち取ろうとすることです。「真の友」とか、「中風の友のため」とか、「愛の業」とか、きれいな事を言いましたが、実は一皮むけば、他の人たちの迷惑など何も顧みようとしないエゴイストと変わらないのです。私は、それを敢えて「いや、この人たちは違うんだ」と、美化して語ることはできないのです。この人たちのしていることは、とても信仰とは呼べない代物だというのが、私の結論です。
しかし、この人たちの愚かな知恵、恥知らずな実力行使、身勝手な行動、他人の迷惑を顧みない非常識、それにもかかわらず、イエス様がそれを信仰と見てくださったということ、これが一番大事なことだと思うのです。
考えてみますと、私たちがいくら「イエス様、救い主イエス様」と一生懸命に信じて祈っても、それは結局、自分の救いのことであることがほとんどなのです。愛や思いやりをもって祈るときも、せいぜい自分の周り半径1メートルか2メートルの中に生きている人たちのためばかりです。その外にいる人たちのために祈るときがあっても、急にそこには真剣味がなくなってしまうのです。
こんなのを本当に信仰と言えるのでしょうか。愛と言えるのでしょうか。ところが、イエス様はそれを私たちの信仰と見てくださるのです。信仰として受け止めてくださるのです。そして、「人よ、あなたの罪は赦された」と、優しく語りかけてくださるのです。ここに、私たちの救いがあります。
そうしますと、信仰とは何でしょうか。立派な行い、正しい考えをもってイエス様に近づくことではありません。それだったら、私たちはとても信仰者ではいられないのです。立派な行いがなくても、正しい考えがなくても、欠けに満ちたものであっても、罪深き者であっても、イエス様の自分に向けられる愛と救いを信じて、イエス様に近づくこと、これが信仰なのです。
それを「あなたの信仰」と、イエス様が言ってくださるのです。私たちは、確かに信仰者でありますが、そこには何も誇るものはありません。しかし、信仰者であるということは本当に素晴らしいことだと思います。それは驚くべきイエス様の恵みによるものであり、感謝に満ちた喜びなのです。そのことを喜びましょう。そして、その喜びのうちにアドベントを過ごし、共にクリスマスを迎えましょう。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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