ペトロの姑のいやし
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書 1章29-39節
旧約聖書 イザヤ書 33章24節
カファルナウム
 ある安息日のことです。イエス様は弟子たちとご一緒にガリラヤのカファルナウムという町にいらっしゃっいました。そのカファルナウムの会堂で安息日の礼拝を守り、人々を教え、また悪霊を追い出されたというところまでお話ししてあります。今日はその同じ日の話ですが、イエス様らが会堂をお出になると、シモン・ペトロとアンデレの家に行ったということから始まっております。

 ペトロとアンデレの家はカファルナウムにあったんだなということが分かります。実をもうしますと、イエス様の母マリアや兄弟たちも、ナザレからこのカファルナウムに居を移しておりました。それは、カナであった婚礼の後、イエス様が母マリアや兄弟たちと一緒にカファルナウムに下って、そこにしばらく滞在されたとかかれておりまして、そんなところから推察されることなんですね。

 さらに、マタイという弟子も、このカファルナウムの収税所に座っているところをイエス様に召し出されたとかいてあります。もしかしたら、ヤコブとヨハネも、ペトロ、アンデレの漁師仲間ですから、カファルナウムに住んでいたのかもしれません。

 そのような事から、カファルナウムはイエス様や弟子たちにとって故郷のようなところでありまして、ガリラヤ伝道の拠点となった町だと言われていることをちょっと覚えておいていただければと思います。


ペトロの姑の病
 さて、ペトロの家に参りますと、家ではちょうどペトロのしゅうとめ、つまりペトロの奥さんのお母さんが熱を出して寝ていたと書いてあります。

「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。」

 ここで、ちょっと変だなと思うのは、しゅうとめが熱を出して寝ているということをイエス様に言ったのは、ペトロではなく他の人々だったという部分です。ペトロは、そのことをイエス様に言わなかったのです。

 おもいますに、ペトロは自分や身内のことなので遠慮したんじゃないでしょうか。もちろん、しゅうとめの病気は単なる熱で、軽い病気だったということが前提です。熱というのは、決して馬鹿してはならないと言いますが、風邪をひけば誰だって熱ぐらい出るのです。安静にして養生していれば、やがて治るぐらいの小さい病気の場合が多いんですね。ですから、なおさら申し上げるまでもない、これはイエス様のお手を患わせるほどの事じゃないんだと思ったのかもしれません。

 これは私の考えでありまして、「いや、これはマラリアだったんだ。熱とはいっても、命に関わる重病だったんだ」と解釈なさる先生もいます。そうかもしれません。正直言って分からないことなのです。

 ただ、私はイエス様が癒された病気がいつもいつも命に関わるような重病ばかりであったと考えなくても良いのではないかと思うわけです。私が思うように、イエス様が癒されたペトロのしゅうとめの病気が単なる風邪や熱であったとしたら、これは福音書に書かれているイエス様の奇跡の中で、一番小さな、ささいな奇跡となります。風邪が治っただけなのです。

 しかし、イエス様は、月光仮面やスーパーマンのように、私たちが一大事に陥ったときだけ、助けを与えてくださる御方なのでしょうか。私たちが毎日抱えているたくさんの問題、それは命に関わるような重大事ではないかもしれません。重大事でないから、私たちは自分でやらなければいけないと思う。だから、祈らないで、自分の力で頑張ってしまう。けれども、それがつもりつもって私たちの負担となり、現代病とも言われるストレスや神経病の原因となっていることがあるのです。

 小さな事だから、イエス様の手を借りなくても自分で出来ると思うことが、実は落とし穴なのです。イエス様は、「私を離れては、あなたがたは何もできないのである」と言われました。「あなたがたは何もできない」と、イエス様は私たちにはっきりと言われるのです。私たちはそれほど貧しい、無力な人間なのです。

 だから、どんな小さな事だって、自分一人で頑張るのではなく、私に祈りなさい、私に願いなさいと、イエス様は仰ってくださっているんですね。ですから、ペトロのしゅうとめを何もマラリヤだと考える必要はない、ただの風邪だったと考えても良いのではないかと思うわけです。 
病の癒しの意味
 ペトロは黙っていたのですが、奥の部屋でしゅうとめが寝ているということを誰かがイエス様に伝えました。

 これも色々と解釈が出来ると思うのですが、折角イエス様という尊いお方がお客様としていらしてくださったのに、自分は風邪なんか引いてしまって、何のおもてなしができないということを、しゅうとめはとても心苦しく思っていたかもしれません。それで、誰か人をやって、失礼をお詫びをさせたのかもしないと、私は思うのです。

 これは、別の時にお話ししたことがあるのですが、病は「病む」と言いますが、これは雨が止むとか、騒ぎや止むとか、物事が止まってしまってしまうことを意味する「止む」に通じる言葉だと言われています。

 病気になると、学校に行けない、会社に行けない、イエス様という大切なお客様がいらしても何のおもてなしもできないというように、私たちの生活が止まってしまいます。心も、自分の辛いことばかりを考えて、思いやりがなくなってしまうこともあります。そのように、病気はその人の生活や心を止めてしまうのです。

 「気にやむ」なんていう言葉もあります。体は元気でも、心配や悩みの中にうずくまって、やはり生活が止まってしまうことがある。これも病なのです。そして、そのような止まってしまった生活のところにイエス様が来てくださり、手をとって起こしてくださる。これが癒しということだと、今日の聖書は教えてくれています。

  「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」

 ただ熱が下がったというだけではなく、彼女がいそいそとお客様のおもてなしのために働きだしたというのです。熱が下がるということも癒しでありますが、人のために働く喜びとか、イエス様にご奉仕する喜びとか、人間としての生活が再び動き始めること、それこそここで注目すべき事なのではないでしょうか。

 牧師として、私もいろいろな方の病の床で祈ってきましたが、癒さなかった病気というのがあるのです。しかし、改めて思い返してみますと、病気は治らなかったかもしれませんが、その人の人としての生活は止まっていなかったのではないかと思い返されることがたくさんあるのです。

 病に敗れたというよりも、病という十字架を負いながら、信仰と希望と愛をもって強く雄々しく生き、天国に凱旋されたという証しをたくさん見てきたのです。病を負いながらも、そのように力強く生きることができたということも、やはりイエス様の癒しの力であったと、私は信じております。
多くの病人を癒す
 このようなペトロのしゅうとめの癒しの後、大勢の病人がペトロの家の前に連れてこられたとあります。イエス様は、その一人一人を、ペトロのしゅうとめに対してなさったのと同じように、癒されるのです。

 「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。」

 この世に病める人は大勢います。それは病気だけではありません。トラウマに捕らわれ続けている人、失望の中に落ち込んでしまった人、憎しみを忘れることができない人、悲しみの中にうずくまっている人、お酒が止められない人、転落した人生からはい上がれない人、罪の中に留まり続ける人など、自分のあるべき本当の生活がどこかで止まってしまい、そこから前に進み出すことができない人たちも、病む人々なのです。

 人々は、こういう人たちをイエス様のもとに連れてきたと、聖書は書いています。そして、イエス様は、いろいろな病気にかかっている人をみな癒されたというのです。
イエス様の癒しとは・・・
 ところが、続けて読んでみますと、こういうことがかかれています。イエス様は朝早く起きて、人里離れたところで祈っておられると、そこに、ペトロと弟子たちが後から追ってきて、「イエス様、大勢の人たちがあなたを捜しています」と言うのです。

 つまり、まだまだカファルナウムの町には、癒しを必要としている人たちがたくさんいて、そういう人たちが朝っぱらからイエス様を捜して弟子たちのところにやってきたのでありましょう。ところがイエス様がどこかに祈りに行かれている。それでイエス様を連れ戻すために、ペトロたちがイエス様の所にやってきたというわけです。

 それを聞くと、イエス様はその人たちのところに行こうとはせずに、「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」とお答えになったというのです。これは、イエス様がまだ癒されていない人たちを置いて、他の町々に行こうと言われたということです。

 このイエス様のお言葉は分からないでもありません。すべての病める人を一人残らず癒すということは限りのないことでありまして、物理的にも無理であろうと思うのです。しかし、癒されずに残ってしまった人たちのことを考えますと、どうしてイエス様は他に行ってしまわれたのかと思わざるを得ないところでもあるのです。

 このことについて、私はこう思います。イエス様が他に行ってしまわれたと言うけれども、いったいイエス様はどこにいかれたのか。最終的にはエルサレムのゴルゴダの丘まで行かれるのです。そこで十字架にかかられる。イエス様がこの世にいらした目的というのは、この十字架にあったのです。

 では、十字架とは何でしょうか。イエス様のご生涯のお話しをしていく上で、このことは繰り返しお話ししなければならないとおもいます。十字架というのは、讃美歌でも「神の義と愛が会えるところ」と歌われています。神様には、罪を罪として裁く神様の義と、どんな罪人をも赦す神様の愛があるのです。裁きと赦しというこの二つの相対するものが、神自らが人間の罪を負って十字架におかかりになるということで止揚されるのです。つまり、神様の義を全うしつつ、神様の愛も全うされる。この十字架によって、わたしたちは赦されて、神様のもとに帰っていくことができるんですね。

 イエス様は癒し主です。病の癒しは、イエス様のみ救いの中で大きな部分をしめています。しかし、それは健康の回復という狭い意味ではありません。悪霊の追放、罪の赦しなどを含めた人間性の回復なのです。神なき望みなき人間が、神の子として神様の愛の中に生きる人間となるということ、これがイエス様の癒しだったのです。

 しかし、そのためには十字架にかかるということが必要でした。イエス様は、癒しを必要としている人々の苦しみを見れば見るほど、十字架への道を歩む決意を定められたのだ、ここのところを読むことができるのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp