悪霊につかれた男をいやす
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書 1章21-28節
旧約聖書 ネヘミヤ記 8章1-12節
カファルナウムの会堂
 ある安息日のことです。イエス様はカファルナウムの会堂に入って人々を教えになりました。安息日というのはユダヤ教の礼拝日のことです。

 カファルナウムという町は、イエス様が「ご自分の町」とも呼ばれたガリラヤ宣教の中心となった地です。今は廃墟となっておりまして遺跡だけが残っているそうです。ただその中にひときわ立派な建物の遺跡があります。残っているのは石でできた土台と円柱型の立派な柱だけですが、高さも、広さもある。それだけみても随分立派な建物だったんだろうなというのが分かる、それがカファルナウムの会堂跡だということなのです。

 ユダヤ人にとって、「会堂」は、生活のあらゆる面での中心でありました。単に安息日の礼拝だけではなかったのです。子どもたちへの教育も会堂を中心に行われていました。人々の生活指導も会堂を中心に行われていました。また町の唯一の公の施設として、地方政治も会堂が中心に行われていたのです。

 このように人々が会堂を中心として生活をしていたという事は、とりもなおさず神様の御言葉が人々の生活の中心であったということです。

 私も、渋谷にある現代のユダヤ人会堂に行ったことがあります。会堂の正面の彩り鮮やかにたいへん美しく装飾された祭壇のような場所に、聖書の巻物が大切にしまわれていました。そして、その前には巻物を広げて読むことができるような広い講壇があります。そこで安息日ごとに聖書が読まれ、説教がなされるのです。

 そして、それを囲むように会衆の席がありました。イエス様の時代の会堂も基本的には同じような作りなのだそうですが、ただし、当時は紙も印刷もない時代ですから、聖書というのはたいへん貴重なもので会堂にしかないものであったと思ってもよいでありましょう。

 逆に言うと、会堂というのは聖書がある場所、人々が聖書によって神様の教えや、慰めや、希望を戴くことができる唯一の場所だったのです。その会堂で聞く神様のお言葉が、人々の生活のあらゆる面で最も大切なこととして、もっとも中心的なこととして尊ばれていたわけです。
神なき時代
 それに比べて、今日の世の中というものを振り返ってみますと、神様を信じるということが何か特別なことのように思われてしまう時代なのです。

 特に日本では、日曜日に教会に行くというと、何か珍しいものを見るような目をされてしまう。お祈りをしたりしていると、迷信的な人間だと思われてしまう。聖書の教えを守って生きようとすると、堅苦しい偏屈な人間だと思われてしまう。「神様なんかいない」という人の方が普通で、神様を信じるなんていうのは変なことだといわれてしまうのです。

 ただこういう時代になって非常にはっきりしてきたことがあると思います。それは、人間が神様なしに生きようとすることは、まことに荒涼とした人生と世界を生きることなのだということです。

 おいしいものを食べるとか、ファッションを楽しむとか、ゴルフをする、カラオケに行く、テレビを見る、映画を見る、そういう楽しみは本当に豊かになっています。そういう楽しみは、目先の気を紛らわすためには何も悪いものではありませんが、けれども極端な話、現代人の豊かさというのはそれだけのことなのです。

 だから、何か辛いことがあって、おいしいものが食べられなくなったり、欲しいものが買えなくなったり、娯楽を楽しむことができなくなると、すぐに「もう駄目だ。私は不幸せだ。生きている意味がない。何の楽しみもない。死んだ方がましだ」と、いとも簡単に絶望してしまうということがあります。

 それは、「人は何のために生きるのか」「何のために働くのか」とか、「歴史はどこに向かっているのか」とか、そういった人生観、歴史観というものがすっかり欠落してしまっているからではないでしょうか。そのために善悪の区別がつかないような人間になってしまったり、命の尊さを感じない人間になってしまったり、希望や志のない人間になってしまっているのです。自分の親さえ大切にできない人がいるのです。自分の子供すら育てられない人がいるのです。

 このような時代、本当に神様の言葉が家々で、町々で尊ばれるようになることを祈らざるを得ません。教会が神様の言葉を伝えていくことの大切さを思わざるを得ません。神の言葉こそが、私たちに生きる意味を教え、働く意味を教え、苦しみにさえ意味があることを教え、しっかりとした人生観、世界観をあたえてくれるのです。そして、私たちを、娯楽とは別の、深いところにある生きる喜びをもった人間、どんな苦しみにも負けないしっかりした希望をもった人間にしてくれるのです。
驚きに満ちた世界
 それにしても、なぜ現代人は神様を信じない人間になってしまったのでしょうか。それは、「驚き」をなくしてしまったからではないかとも言えます。聖書を読んでいると、人々がイエス様の言葉や御業に驚いたということが繰り返し語られています。その驚きを通して、イエス様への畏敬の念が生まれ、信仰へと成長していくのです。

 今日お読みしました箇所もそうです。イエス様は、安息日にカファルナウムの会堂に入り、人々に神様の御言葉を語り、説き教えられました。すると、人々はその教えに非常に驚いたとあります。22節、

 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」

 イエス様が何をお話しになったのかということは書かれておりません。しかし、イエス様のお話は、今まで聞いたどんなに偉い律法学者のお話からも感じたことがないような力あったというのです。その力に人々は圧倒され、会堂は驚きで包まれたのでした。

 「驚き」というのは意外性から生まれます。ここでは「律法学者のようにではなく」ということにその意外性が語られています。27節にも、イエス様への驚きが書かれていますが、そこで「権威ある新しい教え」ということが言われています。「新しい教え」、ここに意外性が語られているのです。

 びっくり箱を開けて驚くのも、この意外性があるからです。でも二回目、三回目になるとどうでしょうか。もう誰も驚かなくなります。それは学習をして意外性がなくなってしまったからです。同じように現代人も知識が増えて、ブッラクボックスだった世界の色々な仕組みが透き通って見えてきました。ですから、ちょっとやそっとのことで驚いたり、感動しなくなってしまったように思うのです。

 逆に聖書を読んでいますと、野の花が咲いていることにも神様の愛があり、空の鳥が飛んでいることにも神様の愛があると言います。太陽が昇るのを見ても、雨が降るのをみても、神様の恵みだと感謝します。そよぐ風にも聖霊の働きを感じ、一羽のすずめが死んで地に落ちることの中にも、神様の御心があると言います。実に、私たちの生きている世界の何かもが神様の驚くべき御業に満ちていて、それを人々が生活の中で生き生きと感じていたのでした。

 もちろん、今でも、この世界がすばらしい神様のお働きに満ちていることに変わりありません。しかし、そのことを昔のように素直に驚かなくなってしまったわけです。びっくり箱の仕組みが分かって驚かなくなるのと同じです。なんだこういうことだったのか。何も不思議じゃないじゃないか。神様なんかいないじゃないかというわけです。

 けれども、みなさん、本当にこの世界に不思議はないのでしょうか。私はそうは思いません。たとえ、この世界の仕組みが透けて見えたとしても、いったい誰がこんな精巧な仕組みを考え、作ったのだろうかと、ますます不思議になるぐらいなのです。

 特に命はそうです。命というのは、目に見える仕組みだけでは説明できません。仕組みというのは命の表面的な説明ができるに過ぎません。一つの命が誕生した瞬間、その命にはかけがいのない尊さが生まれます。すべての命がその尊さをもっていて、愛されるものとなります。私には、神様が命を創造し、神様がその命を愛し、生きよと呼びかけてくださっているとしか思えないのです。

 いずれにせよ、驚きが感じられなければ神様は分からないのです。神様は驚くべき御方です。驚きを通して、私たちは神様に出会うのです。

 もし、皆さんの中に神様が生き生きと感じられなくなってしまったという人がいるならば、もう一度、ご自分の人生について、あるいは当たり前に過ごしている一日一日について、本当にそれが当たり前のことなのかどうか、祈りつつお考えになってみると良いと思うのです。

 そこに人知を超えた導きがありませんでしょうか。神様の恵み深いご配慮がありませんでしょうか。今日、こうして私たちがご一緒に神様を礼拝していること自体、決して当たり前のことではないのです。
汚れた霊の叫び
 さて、イエス様がお話に人々が驚きに包まれていると、突然、一人の男が狂ったように叫び出しました。24節

 「ナザレのイエス! かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」

 彼は、汚れた霊につかれていたと言われています。そこで、イエス様は、この男の汚れた霊に向かって「黙れ、出ていけ」とお叱りになりますと、汚れた霊は男に痙攣を起こさせ、大声をあげて出ていったというのです。イエス様の教えに驚いた人々は、この出来事に対して再びイエス様に驚くことになります。そして、ガリラヤ中にイエス様の評判が広まったというのです。

 汚れた霊というのは一体なんでしょうか。汚れた霊は、イエス様に向かって「正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んでいます。これはまったく正解であります。イエス様は神の聖者です。汚れた霊は、イエス様を知らないのではありません。イエス様が誰であるか、ちゃんと分かっているのです。

 さらにまた、汚れた霊は、「我々を滅ぼしに来たのか」とも言っています。イエス様は私たちを滅ぼす方ではなく、私たちを救い、生かす御方です。神なく、望みなく、荒涼とした人生を生きている私たちのところに来てくださり、神を示し、私たちの人生に意味をあたえ、目的を与えてくださる方です。意気阻喪する私たちに「わたしが共にいる。元気を出しなさい」と語りかけながら、一緒に歩んでくださる御方なのです。 

 しかし、私たちをそのように生かしてくださるイエス様は、私たちのうちにある汚れた霊を追放し、新たに神様の御霊で満たして、私たちを生まれ変わらせてくださる御方なのです。つまり、私たちは一度、イエス様によって滅ぼされなければならないのです。自分中心の生き方、人を裁き、人を呪い、自分が神になろうとする生き方、神様に感謝なく、讃美なく、祈りのない生き方、こういう自分がイエス様によって滅ぼされて、はじめて神中心の、神様と共に生きる人間とされるのです。
力ある御言葉
 それはどのように起こるのでしょうか。イエス様のお言葉を聞くことによってなのです。イエス様のお言葉には、私たちを清め、私たちに新しい命を与える力があるのです。

 イエス様のお言葉が語られたとき、それを聞いた人々はそのうちにある力に触れて驚きました。その力を全身全霊ではね除けようとした汚れた霊ですら、イエス様の御言葉の前に屈服させられたのでした。

 パウロはこう言っています。

 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」

 信仰とは、私たちの信じる力ではありません。私たちが御言葉を聞き、その御言葉が私たちのうちに働いて、御言葉が私たちのうちにある不信仰を屈服させ、御言葉が信仰を与えてくれるのです。

 イエス様の言葉には、そのように私たちを新しくする力があるのです。だから御言葉を聞くことが大切なのです。そして、それだけではなく、神なく望みなく生きているこの世の人々に、イエス様の御言葉を力強く伝えていくことが大切なのです。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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