漁師達を弟子にする
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書 5章1-11節
旧約聖書 ハバクク書 3章17-19節
真の弟子になるための転機
 今日は、ゲネサレト湖で漁師をしていたペトロとアンデレ(アンデレの名前はここにはありませんが、別の福音書にはその名が書かれています)、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネを、イエス様がご自分の弟子として召し出されたというお話しであります。「ゲネサレト湖畔」というのは、ガリラヤ湖の別名です。

 実をもうしますと、この漁師たちは、この時はじめてイエス様に出会ったというわけではありませんでした。すでに、この人たちはイエス様の弟子になっていたのです。

 その最初の出会いのお話は、『ヨハネによる福音書』1章に書かれていまして、ここでもだいぶ前にお話しをさせていただきました。今日は、そのお話しを繰り返しませんけれども、彼らはイエス様を知っており、イエス様がエルサレム神殿で商人たちを追い払ったときも、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えられたときも、イエス様と行動を一緒にしてきたということなのです。

 けれども、彼らは、それまでの自分の生活を、完全にイエス様にお捧げしていたわけではありませんでした。イエス様のお側にいる時もあれば、自分の古巣に戻ってガリラヤ湖の漁師としても生活をしていたのです。

 ところが、そのような彼らの生活に一つの転機が訪れます。漁師の生活とイエス様に従う生活を行きつ戻りつしていた彼らの生活でありましたが、これからはいつもイエス様に従う生活をする者へと変えられていった、そういう転機であります。

 そのお話しが、今日のところに書かれていたのでありました。
自分を回復する時間
 さて、イエス様は故郷のナザレでは拒絶されたのものの、他のガリラヤの町々では多くの人々に受け入れられ、イエス様がおられるところにはどこにでも、尊いお言葉を戴こうとする者や、御力で助けていただこうとする者たちが大勢集まって来ました。その日も、イエス様がガリラヤ湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとしてたくさんの人たちが押し寄せてきていたのだと書かれています。

 一方、そのそばでは、ペトロたちが漁を終え、舟からあがって網を洗ったり、繕ったしていました。こんな風に、ペトロたちはイエス様の弟子となりながらも、漁師の生活をも続けていたのであります。

 イエス様は、網を洗っているペトロに、舟を出してくれるように頼みました。「おやすいご用です」と言ったかどうかは分かりませんが、ペトロはすぐに作業を止め、イエス様を乗せて舟を出します。こうしてイエス様は、岸から少し離れたところから、浜辺に集まった群衆に向かって教え始められたというのです。

 ちょっと細かい話ですが、イエス様は「腰をおろして舟から群衆に教え始められた」とあります。先週のお話しで、ナザレの会堂で説教をなさるときも、イエス様は席に座ってお話しになったとありました。このように、大切なお話しをなさるときにはお座りになってお話しをするというのが、当時の習慣だったようです。そうすると、当然、聞く人たちも座って聞いたのだと考えて良いのではないでしょうか。

 「貧乏暇無し」なんて言葉がありますが、当時の人々の生活は、きっと貧しい生活の中を一生懸命働いて支えているぎりぎりの生活だったに違いありません。そういう生活の中で、イエス様のお話しを聞くときだけは座ったのです。イエス様と共に座り、イエス様の恵みに満ちたお話しをゆっくりと聞く時間は、彼らにとって本当に憩いの時、癒しの時であっただろうなと、そんなことを想像するのです。

 マルタとマリアの話を思い出したりもします。ある時、イエス様がマルタとマリアの姉妹の家をお訪ねになるのです。マルタはイエス様をもてなそうと一生懸命に働くのですが、マリアはイエス様のそばに座ってじっとお話しを聞いている。それを見てだんだんいらいらしてきたマルタはついに、「イエス様! 私ばっかりが働いているのをご覧になって何ともお思いになりませんか。マリアにも手伝うようにちょっと言ってやってくださいまし」と言ったというのです。

 すると、イエス様は、「マルタ、あなたは多くのことを思い煩って心を乱していますが、大切なものはそんなにたくさんありません。いや、ただ一つです。マリアは良い方を選びました。それを取り上げてはいけません」と言われたという話です。

 みなさんの中にもお忙しい方がおられて、なかなか座る暇もないという方がおられるのではありませんでしょうか。そして、マリアのようになりたいと願いながらも、ついマルタになってしまうと反省している人も多いのではないかと思うのです。

 現代人というのは物質的には決して貧しくなくとも、心配や、悩みや、思い煩いで、心休まることのない気ぜわしい生活を送っているのです。そういう生活の中で、私たちの心を癒し、元気づけるのは、聖書の前に座って、ゆっくりとした気持ちで神と語りながら御言葉に触れるときであろうと思います。

 時間がないんだという話をよく聞きますけれども、忙しいからこそ、日曜日の朝だけは教会で静かに座り、御言葉に耳を傾ける時間を作る。朝の5分、寝る前の5分、聖書を読み、祈る時間を持つ。そういう時間をつとめて作るということが、自分を失うことなく、忙しさを乗り切るために大切なのではありませんでしょうか。

 ノートルダム清心女子大学の学長を長く務められた渡辺和子さんという方が、ある本の中でこんな話をしておりました。誰でもそうだと思いますが、渡辺さんもエレベータに乗りますと、そんなに急いでいなくても、必ず扉を閉めるためのボタンを押すのだそうです。ところが、エレベーターというのはボタンを押さなくても自然に扉が閉まるようになっております。ある時、どの位の時間で扉が閉まるかとはかってみたら4秒だったそうです。どんなに忙しい人だって4秒を惜しまなければならないほど実際に忙しいわけではありません。ただ気持ちにゆとりがなくなってしまっているんですね。

 渡辺さんは、自分はたった4秒も待っていられないほど心にゆとりのない生活をしているのかと思ったら、急に嫌になってしまった。それ以来、決してエレーベターの閉じるボタンを押さないように心がけているというのです。そして、それは忙しい生活の中で自分を取り戻す貴重な4秒なんだという話なのです。

 エレベーターはともかくとしまして、私たちは聖書の前に座ることによって、自分を取り戻すのであります。そういう時間がとれないほど心にゆとりがないというのは、忙しさの中で本当に自分にとって良いものを選ぶことができないほど、自分を失いかけているということなのかもしれません。
疲れた体に鞭打つイエス様
 さて、今日のお話しの主題は、ガリラヤ湖の漁師達がまことの弟子になっていく人生の転機の話だということをもうしました。それはイエス様のお話が終わり、群衆達が解散した後に起こります。

 「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」

 イエス様は、ペトロに「沖に漕ぎだして網をおろし、漁をしなさい」と言われました。漁師に向かって、漁をしてごらんと言っているわけですから、別に何の不思議もない言葉です。いつものペトロであったならば、たとえ、たった今漁から帰ってきたところだとしても、ようやく網を洗い終わったところであっても、きっとこう答えたと思います。「おやすいご用です、イエス様」 

 ところが、この時のペトロにとっては、このイエス様の言葉はたいへん心に負担のかかる重たい言葉でした。というのは、ペトロはこの日、特別に疲れ切っていたのです。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と、ペトロはつい愚痴をこぼしてしまいます。

 この一週間、ノーベル賞の話題で持ちきりでした。金曜日の朝日新聞の天声人語には、やはりノーベル経済学賞をとったアメリカのダニエル・カーネマン教授の話がありました。私は経済の話は苦手なのですが、そんな私もなるほどと思うような面白いことが書いてあったのです。

 経済学というのは、「人間は基本的には誰もがお金が好きだ。損をするより得をしたいものだ」という前提にたった学問だというのです。ところが、人間というのは複雑なもので、実際にはなかなか経済学者が合理的に計算した通りに行動してくれないときがあるといいます。たとえば同じ10万円でも、得をした場合と損をした場合では、感じ方がまったく違うというのです。

 カーネマン教授の理論によれば、損をしたときはざっと二倍の多さに感じるという計算になるそうです。つまり損をした10万円は心理的には20万円に相当するということです。そういう人間の心が経済の動きに大きな影響を与えるものですから、カーネマン教授は、合理的な計算だけではなく、そういう人間の感じ方をも要素に取り入れた経済心理学という分野を切り開いた人だということです。

 ペトロの場合も、この経済心理学が当てはまるのでありまして、同じ漁をしても大漁のときと不漁の時では、同じ労働であっても疲れ方は全然ちがうということでありましょう。カーネマンの理論によれば、ペトロはこのとき、仕事量は同じでも疲れはいつもの二倍であったということなのです。

 誰にでもそういう時がありましょう。時間がないという人、お金がないという人、力がないという人、いろいろありますが、本当に何もないのかというと実際はそうでもない。ところが、気持ちとしてはもう何もない、もう何もできない、もう駄目だという気持ちになってしまうのです。

 「それは気持ちの問題だ。甘えだ」と言えばそうかもしれませんが、聖書の箴言には「人の霊は病にも耐える力があるが、沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」(箴言18:14)という言葉もあります。そういう時に、時間を作れ、献金をしろ、奉仕をしろということは、本当に酷なことだと思うのです。

 ところが、イエス様はペトロのそういう状況を知っているにも関わらず、敢えて「沖に出て、もう一度漁をしてみなさい」と言われたのでした。ペトロはの疲れ切った体に鞭を打つような酷なことを言われて、イエス様が一瞬、鬼に見えたかもしれません。

 それでも、ペトロは他ならぬイエス様のお言葉ですから、やっとこさの思い出「お言葉ですから、やってみましょう」と答えたのだと思います。それは決して信仰に満ちた力強い返事ではなかったと思います。仕方がない、やるだけやってみるか・・・それが正直なところだったのではないでしょうか。
イエス様の栄光を見る
 イエス様のように優しいお方が、どうしてそんな酷なことを仰ったのか。もちろん、それは理由のないことではありませんでした。イエス様は、ペトロにイエス様と共に生きるということはどういうことなのか、そのことを身をもって教えようとなさったのです。

 ペトロたちをはじめとするガリラヤ湖の漁師達は、御言葉に従って、洗い終わったばかりの網をもう一度舟に積み込んで、沖にこぎ出しました。そして、網をおろしてみますと、まったく信じられないようなことが起こったのです。多くの魚が網にかかり、二艘の舟はとれた魚でいっぱになって沈みそうになるほどだったというのわけです。

 この話の中に、私は、イエス様と共に生きるというのはどいうことなのかということがはっきりと示されていると思うのです。それは、自分の力ではなく、イエス様の大能の御力で生きるということです。

 私たちは、分かっているようでいて、なかなかそのことが分かりません。行き詰まってしまったり、大切なものを失ったりすると、私はもう駄目だと思ってしまうのです。

 しかし、駄目なのは力のない私であって、神様の大能に満ちておられるイエス様ではありません。ですから、もし私たちがイエス様の力で生きるというのなら、どんなときでも「もう駄目だ」ということは決してないのです。

 ペトロとその仲間の漁師達は、私たちと共におられるイエス様がどんなに素晴らしい御力に満ちた御方であるかということを、この時改めて思い知ったことでありましょう。

 しかし、もう一つ、乗り越えなくてはならない問題がありました。それは「資格」の問題です。ペトロは、イエス様の足下にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言ったとあります。私は、こんなに素晴らしい御方が共と一緒にいるんだと喜んだのではなく、「主よ、わたしから離れてください。わたしはあなたのそばにいる資格はありません」と、かえってイエス様が自分から遠く離れた御方で、とても自分はそのお側にいることなどできないと感じられてしまったということなのです。これはシモンだけではなく、他の仲間達も皆同じでありました。

 これは本当に苦しい祈りではなかったでしょうか。ペトロは、自分がまったく無力な人間であることを知り、それに比べてイエス様がどんなに偉大なお方であるかということを知りました。ペトロは、この時、心からイエス様を必要としていましたし、この時ほどイエス様と一緒にいたいと願っていたことはなかったでありましょう。その一方で、自分の罪深さを知るあまり、自分はその資格を持たない人間だという強い気持ちに支配されて、「主よ、私から離れてください」というのが、精一杯だったのです。

 ところが、イエス様はペトロから離れませんでした。「恐れることはない。わたしはあなたを離れたりはしない。今から後、あなたは私と一緒にいて、人間をとる漁師になりなさい」と言われたのでした。

 ペトロは、この時、改めてイエス様の素晴らしさを見、改めてイエス様との驚くべき出会いをはたしたのでした。

 そして、ペトロとその仲間の漁師達、つまりペトロの兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネですが、彼らは舟を陸にあげ、すべてを捨ててイエス様に従う者になったというのです。

 自分に力があるからではありません。自分に資格があるからではありません。彼らはどんなに自分でそうなりたいと願ったところで、力も資格もないことを知ったのでした。しかし、そういうことを一切承知の上に、「私に従ってきなさい」とイエス様が言ってくださった、そのことによって、彼らはイエス様に従う者となれたのです。
人生の転機
 さて、最後に、彼らがすべてを捨ててイエス様に従う者となった人生の転機というものをまとめてみましょう。

 第1に、それは、彼らが「夜通し働いても何も取れなかった」という、失望の中にある時に起こりました。

 第2に、それは、彼らがイエス様の言葉に従い、その結果、イエス様との新たな出会いを果たすことによって起こりました。

 第3に、それは、イエス様が彼らのすべての罪を赦しつつ、「私に従いなさい」という招いてくださることによって起こりました。

 これらのことを私たちに当てはめて考えてみますと、私たちが困難に直面したり、力を落としていたり、行き詰まっているとき、それはイエス様との新たな出会いを果たす時であるかもしないということが言えるのではありませんでしょうか。そのような時にこそ、イエス様の素晴らしさを見る者とされ、またイエス様の招きの声を聞き、イエス様の弟子として大きく成長させられる時なのだ言えるのではありませんでしょうか。

 イエス様に従う私たちの人生には失望はないのです。どんなに行き詰まったときにも、それはイエス様の栄光を見るときであり、どんなに力を失った時でも、それは私たちがイエス様の弟子として成長させられる時なのです。そのような希望を持って、これからもイエス様に従い続ける者でありたいと願います。
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