王室役人の息子の癒し
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書4章46-54節
旧約聖書 詩編119編65-72節
試練は人間を裸にする
 今日のお話しは、「王室役人の息子の癒し」という、イエス様の奇跡のお話しであります。

 カファルナウムというガリラヤの町に、領主ヘロデ・アンティパスに仕える役人が住んでおりました。詳しいことはわかりませんが、51節には何人かの僕たちが彼に仕えていた様子が書かれていますから、経済的にも豊かで、かなり身分の高い役人であったと考えるのが普通でありましょう。

 しかし、どんなに身分の高い人でありましても、人間の中身が立派になるわけではありません。この世の秩序としてましては、人の上に立つ者もいれば、人に下に仕える者もいて、そういう関係を弁えて生きるといことが大切です。けれども、それは人間の偉さとは関係ありません。上に立つ者の中にも、下で仕える者の中にも、尊敬できる人もいれば、どうしようもない人間もいるのではないでしょうか。大切なことは人間の上にくっついてくる身分や財産ではなく、その人の人間性だと思うのです。

 その人間性というのは、試練に遭う時にあからさまに現れてきます。試練というのは、人間をまる裸にするからです。たとえば、今日登場してきますのは身分の高い役人でありますが、その息子が病気で死にかかったというのです。いくら身分が高くても、息子を助けることはできません。いくらお金があっても、息子を助けることはできません。いくらたくさんの僕たちが仕えていても、息子を助けることはできません。こういう試練にあったときに、あらかさまに現れてくるのが人間性なのです。この役人にしてみれば、役人として何ができるかではなく、一人の父親として何ができるか、ここに人間性が現れてくるわけです。

 先日、テレビで「江ノ電の秘話」というのをやっておりました。その中で、重い心臓病を患った16歳の少年とその父親の話が紹介されました。実は、少年のお母さんもおなじ病気で、彼が9歳の時に亡くなっていました。その少年は電車が好きで、特に江ノ電が好きだったというのです。それで病気が重くなって入院しているときに、「僕は江ノ電の運転士になりたいんだ」と、父親にうち明けました。父親は息子の病気が治らないことを知っているのですが、何とか息子の願いを叶えてやりたいと思い、ボランティア団体を通して江ノ電の鉄道会社に手紙を書き、交渉するのです。

 すると鉄道会社は快く協力を申し出てくださり、周到に準備した上で、少年が一番好きだったタンコロと呼ばれる古い車両の運転させてくれることになりました。その日が来ると、少年は目を輝かせ、これには父親も驚いたというのですが、誰の手も借りずに車いすから自分で起きあがって運転席に立ち、引き込み線100m、自分で運転しました。そして、その四日後に、少年は亡くなったというお話しでした。

 私は、このお父さんがこの世でどんな仕事をしている人かは知りませんが、本当に立派な父親だと思ったのです。息子の命を助けることはできなかったかもしれません。しかし、父親としてできる最も素晴らしいことをしてあげることができました。それは少年の夢を叶え、喜びを与えるということです。

 こういうことは、財産があるからできるとか、身分があるからできるとか、そういうことではありません。一人の人間として、一人の父親として、死んでいく息子に最善のことをしてあげようと懸命になる本当に強い愛をもっているかどうかということなのです。
試練の中の恵み
 ただ、ここで考えなければならないと思うのは、立派な父親だからそれができたのか。それとも、息子が死にかかっているという試練に直面して、この人が愛に生きる者となり、それができたのかということです。
 
 江ノ電の秘話では、そこまで詳しく知ることはできませんでした。しかし、聖書は何と云っているかというと、愛なる神様は人間に試練を与える。その試練によって人間を訓練され、鍛えれていくのだと、はっきりと教えているのです。

 今日、お読みしました詩編にも、このように書かれていました。71節、

 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。
 わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

 「卑しめられる」というのは、自分がまったく弱く、力ない者とされることでありましょう。王室の役人も、息子が病気で死にかかっているというときに、身分も、財産も、何の意味も持たないまる裸の人間にされるのです。それは、苦しんで、苦しんで、今まさに死んでいこうとする息子を前にしても、何もしてあげることができない弱く、まったく力無い人間なのです。

 けれども、だからこそ、彼は救い主であるイエス様のもとに行く人間なったのではないでしょうか。身分の高い役人として、財産のある人間として、何の問題もなく生きていたならば、きっとイエス様のもとに行く機会はなかったと思うのです。そして、詩編の言葉を借りるならば、偽りの薬を塗って自分を騙し、心は脂肪に閉ざされ、自分が弱く貧しい人間であることに気づかないまま、神様も、イエス様も知らずに生きていたのではないでしょうか。

 「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」という古の信仰者の告白は、この役人にとっても真実なものとなったのです。

 ヨハネ福音書にもどり、47節を読んでみましょう。

 「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下ってきて、息子を癒してくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」

 この人は、我が子を救っていただきたい一心で、カファルナウムからカナまで約30キロの道のりを急いでやってきて、「どうぞ、我が家に来て、息子を癒してください」と、必死の思いを込めてイエス様の御許にひざまずいたのでした。

 「苦しいときの神頼み」と思うかも知れません。それは何も悪いことではありません。それが信仰の始まりなのです。そこから信仰の道が始まり、完成に向かって成長していくのです。「苦しいときの神頼み」がなければ、信仰は一歩も始まらないと云ってもよいでしょう。もし「苦しいときの神頼み」が問題だとするならば、それが「苦しいときだけの神頼み」になってしまう場合、つまりそれが信仰のすべてになってしまう場合です。
真理を知ることの大切さ
 ところが、この役人の必死の願いに対して、イエス様は意外にも厳しいお言葉をもってお返事なさったのでした。

 「あなたがは、しるしや不思議な業をみなければ、決して信じない。」

 なぜ、イエス様はここでこんなことを仰るのでしょうか。確かに仰ることは真実かもしれませんが、この役人してみれば、我が子が生きるか死ぬかという非常に切迫した問題があるわけで、そんなお説教を聞くためにイエス様のところに来たわけではないのです。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください!」と、この役人は叫びます。

 私たちも、この役人と同じような叫び声をイエス様に向かって叫んだことはないでしょうか。私が求めているのは真理ではない、救いなんだという叫びであります。聖書を読んでも、教会でお話しを聞いても、確かにそれは良いお話しだと分かる。しかし、そんなことよりも何よりも、今ある現実的な問題から自分を救ってくださるのか、それが知りたいんだという叫びです。

 けれども、イエス様は「真理はあなたがたを自由にする」とお教えになったことがありました。真理を知るということと、自分が救われるということは切り離すことができない一つのことなのです。逆に言えば、真理を知らないで、間違ったことを信じ込んでいるから、悩みがあり、苦しみがあるわけです。

 イエス様が「あなたがは、しるしや不思議な業をみなければ、決して信じない。」と云われたのも、息子さんのことはさておき、まず私のお話を聞きなさいということではなかったと思うのです。息子さんの救い、そしてあなたの救い、あなたの家族の救いのために、「たとえ目に見えなくとも神様はいつもあなたと共にいる」ということを信じる信仰こそが、あなたをすべての問題から救う鍵なんだということをお教えくださっているわけです。

 イエス様のこの言葉があったから、この役人は信仰をもって家路につくことができましたし、子供が助かったことを知ったときに、ただ感謝をしただけではなく、イエス様を救い主として信じる信仰を得たのだということができると思うのです。

 概して私たちは今のことしか考えられません。それは限りある人間として仕方がないことです。けれども、イエス様は私たちの先の先までお考えくださっているということを忘れないようにしたいと思うのです。この役人は、イエス様を家に連れて帰ろうとしました。そうしなければ息子は救われないと思ったからです。しかし、イエス様はそれを拒否なさいました。でも、それはあなたの子を救わないという意味ではありませんでした。イエス様は、この役人が期待している事以上の救い、子供だけではなく家族全員の救いを与えようとされていたのです。

 さらには、今だけではなく将来に渡る救いを与えようとされているのです。そのためには、どうして信仰への目覚めが必要でした。その備えを、イエス様は与えようとされて、あなたは奇跡を見ることが救いだと思っているが、あなたを愛しておられる神様を信じることはそれに勝る救いなんだよということをお話しくださっているわけです。それは、今分からなくても良い。でも、まもなくそれが分かるときが来ることを見越して、イエス様はお話しくださるわけです。
執拗な願い
 しかし、私は、この役人が、イエス様の拒絶にあいながらも、なお退かず、諦めず、救いを求め続けたということも、大切なことだと思うのです。イエス様は、確かに先のことを、そしてももっと大きな救いを考えておられた。けれども、この役人がそのイエス様の御心を直ちに悟るということは無理な話でありまして、彼にできる最大限のことは、やはり諦めずに救いを求め続けることだったと思うからです。

 パウロの言葉に、「あなたがは達し得たところに従って進みなさい。そうすれば、間違いがあっても神様がただしてくださる」とあります。私たちの信仰はいつだって決して完全とはいえませんが、達し得たところに従って最善を尽くすということが大事なことなのです。
あなたの息子は生きる
 さて、イエス様は、その役人の必死なる願いに答えて、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と仰ってくださいました。このお言葉は簡単でありますけれども、イエス様の力のすべてが注ぎ込まれた一言でありました。その力に触れたからこそ、この役人は、奇跡が起こる前に、奇跡を信じて帰ることができたわけです。すると、その帰り道、僕達に会い、イエス様が「あなたの息子は生きる」と云われたその時刻に、息子の病が快方に向かいだしたということを知ったのでした。

 世の中にはたくさんの言葉があります。しかし、どんな言葉も愛がなければ喧しいだけです。愛のない言葉、それは無責任で、その場限りで、二枚舌で、私たちを惑わしたり、不愉快にしたりするだけの言葉です。そういう言葉も含む世の多くの言葉の中で、イエス様のお言葉というのは本当に力があるのです。そして真実なのです。イエス様は「友のために命を捨てることほど大きな愛はない」と仰って、実際に私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は命をかけて愛を語り、真実を語ってくださっているのです。

 この父親は、そのことを知りました。父親だけではなく、家族もこぞって信じたのです。信じられる言葉があるということ、これがこの家族にとって、これからも大きな救いとなったでありましょう。イエス様の言葉を信じるようになる。これが救いなのです。

 私たちは奇跡によって救われるのではないのです。たとえ病気が癒されても、それは再び病気にならないということではありません。そういう奇跡というのは、急場をしのぐだけのことなのです。

 しかし、聖書には、これは奇跡といよりも「しるし」であったと云われています。二回目とあるのは、カナの婚礼につづいて二回目という意味ですが、その時もお話ししましたが、奇跡の不思議さよりも、イエス様の素晴らしさ、イエス様に対する驚き、感激が与えられる出来事であったということ、それが「しるし」という意味なのです。奇跡によってではなく、イエス様に救われるという体験です。イエス様に救われるならば、私たちはどんなことに対しても、救いの道を歩くことができるのです。
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