ガリラヤでの福音宣教
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マルコによる福音書1章14-15節1-42節
旧約聖書 ヨブ記37章21-24節
ガリラヤに退く
 イエス様は、最初、ごく短い間ですが、エルサレムを拠点として伝道をされていました。これを初期ユダヤ伝道といいますが、しかし、まもなくガリラヤに拠点を移して伝道されることになります。そして、イエス様が伝道された期間はわずか3年間だったのですが、そのほとんどはガリラヤ伝道に当てられていたのでした。

 イエス様がエルサレムからガリラヤに拠点を移された理由ですが、それは先週、エルサレムでイエス様の評判が高まる一方で、ファリサイ派の人たちのねたみが起こったからだとお話ししました。今日お読みしましたところをみますと、預言者ヨハネの逮捕ということもその切っ掛けにあったようであります。預言者ヨハネというのは、イエス様に洗礼を授けた人物ですが、ヘロデ王の行状を批判したために逮捕され、投獄されたのです。

 しかし、イエス様がこういう不穏な動きを恐れて、ガリラヤに逃げたと考えるのは間違いです。大切なことは、その時、神様が何を望んでおられるかということを知り、それに従うということです。それが神様の御心に従うことであるならば、プライドや見栄などは棄てて、勇気ある譲歩をしたり、勇気ある撤退をすることを通して、人間が考えるよりももっと偉大な神様の御心が成就していくということがあるのです。

 たとえば、ガリラヤというのは、「周辺」という意味で、その名の通り辺境の地でありました。また国境を接する地域の宿命として外国からの文化もずいぶん入り込んでいて、ユダヤ人の国にありながら「異邦人のガリラヤ」なんて呼ばれていたり、「ガリラヤから立派な人物など出ない」と、蔑みの目でみられていたのです。

 しかし、イエス様はこのガリラヤ地方で熱心に伝道をされました。イエス様の伝道期間は3年間ですが、その大半をガリラヤ伝道に費やされたのです。そして、それによって人々から顧みられないような地が神に顧みられる地となり、神から遠い者が近い者になり、暗闇のある者が光を見るという、神様の救いの素晴らしさが明らかにされました。

 神様の深い御心というのは、しばしばこのような形で成就していくことを、私たちも覚えたいと思います。退くとか、譲歩するとか、我慢するとか、行き詰まるとか、そういう一見敗北とも思えるようなことであっても、神様の御心ならばと勇気をもって受けていく。その時に、人間の思いをはるかに越えた神様の御業が力強く行われていくのです。

 ヨーロッパにはじめてキリスト教がもたらされた時もそうです。パウロは、アジアでもっと伝道を続けたかった。しかし、あっちにいっても、こっちにいっても、うまくいかないという経験をしまいた。そんなある晩のことを、パウロは夢の中でに救いを求めるマケドニア人を見るのです。パウロはすぐに「神様の御心はここにあったんだ!」と悟りまして、アジア伝道を諦めてヨーロッパに渡ったのでした。

 私たちも何かに行き詰まることがあるかもしれませんが、それとて何も恐れることはないのです。行き詰まるということは、神様が私たちを他のところに導こうとしているわけですから、それなら神の御心はどこにあるのかということを祈り求めれば良いのです。こうして、私たちは神様に従うことを学び、神様の素晴らしい御業を讃えることになっていくわけです。
神の福音
 今日お読みしましたのは、イエス様の伝道の中核をなすガリラヤ伝道の始まりで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、イエス様が神の国の福音を宣べ伝えられたという話しです。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 これは、実際にイエス様がこういう言葉で人々に教えられたということも云っているのでしょうが、それだけではなくてイエス様が人々にお伝えになったことは、結局、この三つの言葉で言い表すことができるんだということだろうと思うのです。一つは、「時は満ち、神の国は近づいた」ということです。もう一つは、「悔い改めなさい」ということです。最後は、「福音を信じなさい」ということです。

 イエス様が、これらのことをお伝えになったのは、「教え」によってだけではありませんでした。病気を癒されたり、人々にパンを分け与えれたり、嵐をお鎮めになったり、そういうイエス様がなさったいろいろな業もすべて含めて、イエス様が「神の国は近づいた」、「悔い改めなさい」、そして「福音を信じなさい」、この三つのことを、人々にお伝えになったのです。イエス様の伝道とは何か、それを端的に言い表すのがこれらの言葉だったと言っても良いのです。

 これから私たちはもっと具体的にイエス様のガリラヤ伝道というものを読んで学んでいくことになるのですが、今日はまず、この三つの言葉についてご一緒に学び、イエス様の伝道ということを理解したいと思うのです。
神の国は近づいた
 まず、「時は満ち、神の国は近づいた」ということです。「神の国」というのは、「天の国」、「天国」、「御国」とか云われる事もあります。

 みなさんは天国についてお考えになることがあるでしょうか。普通、世の人が天国について考えたり、話したりするのは、死について考えている時だと思うのです。愛する人が死んだ時には、誰もが「きっと彼は(彼女は)、天国に行ったんだ」と信じようとします。あるいは自分の死について考える時もあります。「私は死んだらどうなるのだろうか。天国は本当にあるのだろうか。自分は天国に行けるのだろうか」

  私も、かつては「こんな罪深い自分は死んでも天国に行けないのではないか」と、真剣に悩み苦しんだこともあります。けれども、今はイエス様の救いを信じて、また天国というのは本当に素晴らしいところだと信じていますので、ときどき「ああ、はやく天国に行きたいな。イエス様にお会いしたいな」と憧れをもって、天国を思うこともあるのです。

 こういうことは決して悪いことではないと思います。イエス様の教え、み救いの中には「私が死んで天国に行く」ということがちゃんと語られていると思うのです。

 けれども、イエス様はもっと凄いことが、ここで語られています。私たちが天国に行くことよりも、もっと凄いこと、それは天国が私たちのもとに来るということです。「時は満ち、神の国は近づいた」と、イエス様は仰いました。天国というのは私たちが行くところだと思っていたら、「天国の方から私たちに近づき、私たちのもとに来んだ」と云われたのです。
 
 なぜ、これが凄いことかと申しますと、私は、方向音痴でデパートの中でも、地下鉄の駅でも、出口が分からなくなってしまうのです。ですから、どこか初めてのところへ行くとなると大変緊張します。同じように、天国への道におきましても、年がら年中、あっちじゃない、こっちじゃないと道に迷っているのです。これじゃあ、本当に天国にたどり着けるのかどうか、本当に心配でなりません。ところが、イエス様は「大丈夫、天国の方があなたのところに来てくれるのですよ」と言ってくださったわけです。これは本当に有り難いことではありませんか。

 天国の方から来てくださるということなると、もう迷う必要はありません。天国を捜す必要もなければ、「あれをしなければいけない」「これをしなければいけない」という険しい道を一生懸命に歩まなければならないということもないのです。天国の方が私を捜し出し、私を見つけ、私のところに来てくださるのです。ただ待っていれば良いんですね。これが福音である、神様からの素晴らしい便りであると、イエス様は仰ってくださったのでした。
悔い改めなさい
 しかし、一つだけ私たちがしなければならないことがあると、イエス様は仰います。それは、悔い改めなさいということなのです。

 悔い改めというのは、今までの自分の生き方を反省することはもちろんなのですが、それだけではありません。新しい人間にならなくてはなりません。ところが、この新しい人間になるということは、決して立派な人間になるという意味ではないんですね。人間というのは、反省したぐらいで立派な人間に生まれ変わるなんてことはできないということを、みなさんも身をもってよくご存じだろうと思うのです。聖書が云う新しい人間というのは、神様の愛を知った人間になるということなのです。

 神様の愛を知っているかどうか、これが大切なのです。自分は悪い人間だ。赦されない人間だ。生きている値打ちもない人間だ。そのくらい自分の罪深さを深刻に反省することも大切です。でも、それだけでは悔い改めにならないのです。こんな人間であるにも関わらず、神様は私を愛し、救おうとしてくださっているのだということを知ること、それが悔い改めです。自分を責めるばかりではなく、神様の愛に救いを求める人間になること、それが新しい人間になることなのです。

 良く知られたイエス様のたとえ話に、父の家を出て、放蕩の限りを尽くしたあげく、身代をつぶしてしまった男の話があります。

 彼は乞食と同然となり、いよいよ行く場所も、生きる術も、何かもなくなったときに、父の家を思い出すのです。「そうだ、父の家に帰ろう。俺はこんな親不孝をしたのだから、今更、『あなたの息子です』なんて言えない。でも、自分にとって行くところはそこしかないんだ。帰って、お父さんに『わたしは天に対しても、あなたに対しても、罪を犯しました』と云おう。そして、使用人として雇ってくれるように頼もう」 彼はこのように思いを、かつて飛び出した父の家に向かって歩き出すのです。

 父の家が近くなった時、父親は遠くから変わり果てた息子の姿を見て、駆け寄ってきます。そして、彼を抱きしめ、何度も何度も接吻します。その父の愛の中で、彼は「わたしは天に対して、あなたに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と告白するのです。しかし、父親は「うん、うん」とうなずきながら、息子に新しい服を着せ、指輪をつけてやり、履き物をはかせ、「わたしの子よ、よく帰ってきた」と云って、大いなる祝宴を開いたというのです。

 悔い改めというのは、立派な人間になることではなく、このように私たちを愛して、私たちを待ち続けてくださっている神様のもとに、私たちが立ち帰ることなのです。そして、もう一度、神様に抱きしめていただくことです。神様が私たちを抱きしめてくださるのは、私たちが立派な人間だからではありません。私たちが、神様の子どもたちだからなのです。そして、私たちがもう一度神様の愛のもとに帰ってきたからなのです。

 悔い改めというのは、立派な人間になることではなく、ボロをまとい、裸足であっても、神様の愛のもとに立ち帰り、神様の愛の中に生きる人間に戻ることなのです。

 イエス様は、そういう意味で悔い改めなさいと云われました。すると、天国が私たちに近くに来ているという意味がもっとはっきりしてきます。それは、「あなたを抱きしめてくださる神様の愛は、もうあなたのすぐそばにあるのですよ」という意味なのです。あなたが、「天のお父さん、わたしはここにいます。こんなボロをまとい、裸足でさまい、とても神様の子なんて言えない姿ですが、私はここにいます」と、目を神様に向けるならば、神様は「わたしの子よ」と駆け寄り、すぐにでもあなたを抱きしめてくださる。それほど、神様の愛はあなたのそばにあるのですよという意味なのです。
生まれ変わる
 最後に、「福音を信じなさい」ということです。

 私たちは、神様も、神様の愛も、見ることはできません。しかし見えないから、それがないとは言えません。しかし、それは信じれば見えてきますよと、イエス様は仰ったんですね。

 先日の月曜日、支区の集いが行われました。私が責任を与えられていましてので、みなさんにもお祈りをしていただいたのですが、生憎の雨となってしまいました。本当ならば、輝く日と、青空のもと、葛西臨海公園の海を望む広場で野外礼拝をして、お弁当を食べて、レクレーションをする計画だったのですが、雨天のプログラムとなりまして、小松川教会で礼拝を守ることになったのです。

 ちょっとがっかりしたのですが、富士見町教会の倉橋先生がたいへん良い説教をしてくださいまして、私は大きな慰めを得ました。先生はこんな風に仰ってくださったんですね。「今日の支区の集いの主題は、『青き空よ、輝く日よ、主の民よ、造り主のみ栄えをほめよ』ということですが、きっと快晴の青空のもとでの野外礼拝を想定して、こういう主題をおつけになったのでしょう。生憎、今日は青き空も、輝く日も雨雲に隠れて見えませんが、見えなくてもそれはあります。今日はそれが見えなくても、私たちが、神様がお造りになった青き空、輝く日の照る世界のもとに置かれている主の民であるということには何の変わりもないのです」。

 本当にそうだと思いました。神の国は近づいた。神様の愛は私たちのすぐそばにある。こう云われても、私の人生にはさっぱりそれが見えないという方がいらっしゃるかもしれません。けれども、見えなくても、確かに神様は私たちの近くにおられ、私たちを愛してくださっていて、あの放蕩息子のように神様の愛の中に立ち帰ってくることを待っていてくださるのです。

 今日、お読みしましたヨブ記にはこのように記されていました。

 「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている」

 イエス様はそれを信じなさいと云われるのです。見えなくても確かに存在し、見えなくても大切なものはたくさんあります。神の愛に限らず、人間の愛だって見ることはできません。しかし、愛は信じることによって受け取るものなのです。福音を、神の愛を信じるということも、それが不確かだから信じるしかないというのではなく、まったく確かなものなのです。けれども肉の目ではみえないから、心の目でみなさいということなのです。

 どうか、私たちも信じる者になって、神様の愛をしっかりとこの胸に戴く者になりたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp