サマリア人女性との対話
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書4章1-42節
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1-8節
身を引くイエス様
 今回は、イエス様とサマリア人女性との対話についてのお話しです。まず1-3節に書かれていることについてお話しをしたいと思います。

 ユダヤでのイエス様の評判が高まってきますと、ファリサイ派の人々はイエス様をねたむようになりました。ファリサイ派というのは律法を守ることに非常に熱心なユダヤ教の一派で、律法に対する学問的な研究にも大きく貢献しましたし、一般民衆への宗教教育という面でも貢献は大きかったのです。けれども一つ悪いところがありまして、それは自分たちこそ義しい人間であって、他の人々は罪人なんだと、人々を見下していたことだったのです。

 それに対して、イエス様はファリサイ派も含めてみんな罪人で、誰もが神様の赦しと愛による救いが必要なんだとお教えくださったわけです。この点で、ファリサイ派の人たちとイエス様とは真っ向から対立することになりました。その対立がだんだん表面化して、ついには「イエスを十字架にかけろ」ということになるのですが、この時点ではまだ、イエス様はそのようなあからさまな衝突が起こることをお望みになりませんで、ファリサイ派のねたみを避けてガリラヤに身を引かれたということが書かれているのです。

 以前に、イエス様が神殿で商売をしている人たちを見てたいへんお怒りになり、大暴れをして、彼らを追い出したというお話しをいたしました。イエス様にはこのように何事も恐れないで正しいことを貫かれるという一面がありますと同時に、時には衝突を避けて退かれるという柔軟な姿勢をとられるという一面があったと言えましょう。

 こういう変化が難なくおできになったのは、イエス様がいつもご自分の目的ではなく、神様の目的のために行動されていたからだと思います。私どもは、神様が「行け」という時に尻込みし、神様が「待て」という時に突き進んでしまう、たいへん愚かなことをして失敗することがよくあるのです。その結果、私なんかもしばしば自分には勇気がないのだ、忍耐がないのだ、落ち込んでしまいます。

 けれども、聖書の教えによりますと、勇気とか忍耐というのは、実は初めから自分に備わっているものではなく、神様からの賜物なのです。信仰をもって神様に従おうとする時に、神様が私たちに勇気を与え、忍耐を与えてくださいます。ですから、私たちに必要なのは勇気とか忍耐ではありません。どんな時にも神様のお心と一致して生きようとする信仰こそ大事であると言えましょう。いつも神様に祈り、道を尋ねつつ歩むならば、私たちは進む時を弁え、退く時を弁え、神様から勇気と忍耐をいただいて生きることができるようになるのではありませんでしょうか。

 聖書の『コヘレトの言葉』というところに、こういう教えがあります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 植える時、植えたものを抜く時
 殺す時、癒す時
 破壊する時、建てる時
 泣く時、笑う時
 嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時
 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
 求める時、失う時
 保つ時、放つ時
 裂く時、縫う時
 黙する時、語る時
 愛する時、憎む時
 戦いの時、平和の時。」

 「何事にも、神様の定められた時がある」という有名なお言葉ですが、進むことと退くこともそうでありまして、どちらが良いということではなく、神の時にかなっているかどうか、これこそが大切なのです。そして、その知恵を得るためには、祈りつつ、神に道を求めつつ歩むということが以外に道はないのです。
サマリア人女性との出会い
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 さて、イエス様はファリサイ派との衝突を避けてガリラヤに退かれることになったという話だったのですが、ユダヤとガリラヤの間は歩いて三日ほどの道のりがあります。途中、お疲れになったイエス様は、シカルというサマリアの町で足を止められ、そこにあった古い井戸の傍らに腰をおろし、一休みされることになりました。

 時は「正午ごろであった」と申しますから、一番日差しの強い時間でイエス様としては2-3時間そこでお休みになってから旅立たれるつもりだったのでありましょう。その間に弟子たちは食糧の調達に行くことになりまして、イエス様がひとりが井戸端で休んでおられたのでした。

 そこへ、ひとりのサマリア人女性が水を汲みにやってきます。普通、井戸汲みというのは朝と夕の二回、涼しい時間にするのが習わしだったようです。それなのにこんな真昼の最中、井戸汲みにやってきたというのは、彼女は人目を避けてやってきたのでろうと想像されます。

 実は、話の成り行きでだんだん分かっていくことなのですが、彼女はそうとう身持ちの悪い女性で、過去において五人も夫を替え、現在も正式に結婚していない男性と同棲している身でありました。彼女が世間からどんな目でみられていたか、言わずと知れています。白い目で見られるか、好色の目で見られるか、どっちかだったに違いありません。

 そんな人々の目を避けて彼女が井戸にやってきますと、見知らぬユダヤ人男性が井戸で休んでいます。彼女はいやだったに違いありません。引き返そうとも考えたかも知れません。けれども、せっかく来たのですから、旅の男なんか無視してさっさと水を汲んで帰ればいいと思いなおします。そして、愛想もなく井戸で水を汲もうとしますと、「水を飲ませてください」と男の方から彼女に声をかけてきました。

 「えっ?」 彼女は驚いて振り向いて、男に注目しました。突然、声をかけられて驚いたということもありましょうが、それだけではなくサマリア人とユダヤ人の間には民族的な確執がありました。どちらかというとユダヤ人がサマリア人を差別していたのです。

 サマリア人女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と聞き返しました。この言葉のニュアンスとしては、ユダヤ人から何の差別もなく声をかけられて感動したというよりも、「あんたなんかに水を飲ませてやる義理はないわよ!」というけんか腰の意地の悪い言葉だったんじゃないかと思います。

 ところが、これがサマリア人女性にとって運命の出会いといいますか、人生の転機となるイエス様との出会いだったのです。

 こういう話を読みますと、イエス様と人との出会いというのは、ほんとうに人によって様々あるんだなということを思わされるのです。先週は、ニコデモとイエス様の話をしましたが、二人は本当に対照的です。ニコデモは教養のあるユダヤ人で、指導者で、人々からも尊敬されていました。一方、サマリア人女性の場合は、暗い過去を持ち、まっとうな道から転落し、社会から疎外され、人目を避けて生きていました。またニコデモは自らイエス様を訪ねていき、「先生、どうぞ教えてください」と自ら教えを請いました。一方、サマリア人女性の場合は、イエス様の方から「水を飲ませてください」と請い願っているのに、「どうしてわたしがあんたに水を飲ませなきゃいけないの」と、水一杯を飲ませて上げようと言う親切心すら持ち合わせていないのです。

 しかし、イエス様はどちらに対しても同じように心を込めて、懇ろに語り、魂を導かれました。私はそこに神様の愛を見、深い感動を覚えるのです。人は皆、違うイエス様との出会い方をしますでしょうけれども、イエス様は出会う一人一人を愛し、大切にしてくださるのです。
サマリア人女性の現実に触れる
 今日はもう一点お話しをしたいと思います。イエス様は誰も同じように大切にしてくださるということと同時に、一人一人違うように取り扱ってくださるということをお話ししたいのです。

 私たちはみんな違う人格をもっていますし、生きている現実も違います。イエス様はそういうことをちゃんと見ていてくださり、ニコデモにはニコデモの現実に合わせて、サマリア人女性にはサマリア人女性の現実に合わせて取り扱い、そして命への道を導いてくださっていると思うのです。

 たとえばニコデモの場合は教養もあり、名誉もあり、社会的な地位もあって、「あれもある、これもある」というこの世的には何不足ない現実の中に生きていました。しかし、どんな人も「神様の救い」をもたなければ救われないのだということを教えるために、イエス様は敢えてそのプライドをうち砕き、「あなたは新しく生まれ変わらなければならない」と仰ったのでした。

 一方、このサマリア人女性の生活というのは、ニコデモとは反対に「あれもない、これもない」という幸せの薄い生活だったに違いありません。そのために今のような投げやりな生き方になってしまったのです。普通に考えれば、ニコデモなんかよりも彼女こそ「生まれ変わらなければ救われない」人間のひとりでありましょう。しかし、イエス様はサマリア人女性には一度も「あなたは生まれ変わらなければいけない」とは言われませんでした。

 どうしてでしょうか。このサマリア人女性は、聞き飽きるほど周りの人たちから「生まれ変われ」と言われてきたに違いないのです。そして、自分でも「できるなら、生まれ変わりたい」と何度も思ってきたのではありませんでしょうか。けれども駄目だった、だからこそ今のどうしようもない生活があるのです。

 彼女にとって「あなたは生まれ変わらなければ救われない」という言葉は何の新しさもないし、希望よりもむしろ絶望に落とし込むような言葉だったのです。そんな彼女に対しては、イエス様は「生まれ変われ」というのではなく、「わたしが与える水は、どんな渇いた魂にも生命の水を湧き上がらせることができるのですよ。これを飲めば、もうあなたは渇くことがなくなるのですよ」と言われたのでした。簡単に言えば、「わたしがいるから、あなたはもう大丈夫だ、希望を持ちなさい」ということです。

 イエス様は、こういう一人一人の現実の違いというものをちゃんと知っていてくださり、一人一人違った取り扱いをなさるのです。そして、その人の今ある現実に向かって、生きた神様の言葉を語りかけてくださるお方なのです。

 今日の聖書の中で、イエス様は彼女にいろいろな言葉を投げかけてくださっています。イエス様が与えてくださる生命の水の話。そして、エルサレムでもなく、サマリア人の聖なる山でもなく、まことの礼拝者が霊と真をもって礼拝する時が来る話。どれも大切な話ですが、こういう話が彼女の上っ面を通り抜けていくだけではなく、心にぐさりと食い込むきっかけとなったのが、彼女の夫の話でした。

 イエス様は、突然話を変えて、彼女が予期しないことをお話しになります。「あなたの夫をここに呼んできなさい」と仰るのです。サマリア人女性はあわてました。なんとかこの話題をそらしたいと思い、「そんなもの、わたしにはいません」と答えます。すると、イエス様は「なるほど、そのとおりだ。あなたにはかつて五人の夫があったが、今一緒に暮らしているのは夫ではありませんからね」と言われたのでした。

 イエス様は敢えてこの女性の心の暗部に触れられたのです。しかし、さっきも申しましたように、「それじゃあ駄目じゃないか。新しく生まれ変わりなさい」なんて野暮なことをいうためではありません。「私はあなたの心を、あなたの心の暗闇を知っているよ」とメッセージを送られたのです。

 イエス様は私の暗闇を知っておられる。これは本当に大切なメッセージです。それが分かってはじめて、人はイエス様の言葉が自分に対して語りかけられている言葉として身に染みてくるのです。このサマリア人女性も、イエス様が自分の夫の話をされたことを通して、「主よ、あなたを預言者としてお見受けします」と、イエス様に心を開いたのでした。

 そして、彼女は密かに抱いていた自分の希望について語りました。「わたしはキリストというメシアがこられることを知っています」。すると、イエス様は「それは、あなたと話している私である」と、非常にあからさまにご自分をお証しくださったのです。

 彼女はその言葉をすぐに信じます。そして、町に帰って「わたしはキリストに出会った。この人はわたしのことをすべて言い当てたのです」と言い触れたのでした。彼女がイエス様とお話しをして、一番深い体験となったのは、イエス様が自分の暗い過去を、そして暗い現実をすべて見通しておられたということだったということが、この彼女の言葉からも分かるのです。

 みなさん、私たちはみんな異なる人格、異なる生活をもって生きています。私たちが抱えている心の暗闇も誰一人同じではありません。しかし、イエス様は、私たち一人一人の問題を知っていてくださるお方なのです。そして、一人一人みな違うように、そして善いようにに扱ってくださり、私たちの現実的な渇きを通して命の道へ、今ある暗闇を通して光の道へと導いてくださる御方なのです。

 もう亡くなられましたが、富士見町教会の島村亀鶴先生がある本の中でこんなことを仰っておられます。

 「暗闇を書かなければ光が分からないのと同じように、人間の社会や人間性の中に悪がなければ、人間の中にある善というか、そういうものは分からない。光らない。そういう意味合いのものとして、悪なら悪というものは存在しているのかもしれない。あるいは神様の深い摂理というものから言えば、神様の世界では、そんなものはちっともいらんけれど、人間の世界ではそれが必要なんだと、そういうことは考えられます」

 島村先生は、悪というのは神様の世界にはいらないけれども、人間の世界には役に立つこともあるという非常に大胆なことを仰っておられるわけです。自分の中に悪い心があるから、善なるものの輝きが見えるようになるんだというわけです。悪をさえ必要としている人間というのは実に悲しい存在だと思うのですが、確かにそれが現実ではありませんでしょうか。そして、イエス様が、この女性の心の闇に触れられたのには、そうすることによって彼女を照らしている光というものをいっそう輝かせるためだったとも言えるのではありませんでしょうか。

 このようにイエス様は、私たち一人一人の暗い現実に触れて、その心の暗部をあからさまにされるような、痛みが伴うようなことを語りかけてこられるかもしれません。けれども、そういう時にこそ、心を開いてこのサマリア人女性のようにイエス様と対話をしていただきたいと思うのです。そうすれば、私たちもまたこのサマリア人女性のように、ついには「わたしがあなたのキリストである」というはっきりとしたイエス様のお言葉を聞くことが出来るようになると、わたしは信じています。
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