ニコデモとの対話
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書3章1-15節
旧約聖書 詩篇74篇12-17節
人間の弱さを知るイエス様
 今回はイエス様とニコデモとの対話についてご一緒に学びたいと思います。その前に少しだけ、前回からの話の流れというものについてお話しをしたいと思いまして、まず2章23節からを読ませていただきます。

 「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

 前回は、イエス様が過越の祭りでエルサレム神殿に行かれたというお話しでありました。ところが、イエス様は神殿が商売で賑わっているのをご覧になり、義憤で心が燃え上がります。そして、柔和で優しいお方であるはずのイエス様が、縄で鞭をこしらえ、それを振り回し、商人たちの台を蹴散らし、大暴れをしたというのです。

 当然、何事かと大勢の人たちが集まってきたことでしょうが、特にその中から血相を変えて飛び出してきたのは、こういう神殿の商売を容認していた祭司たちや律法学者たちでありました。彼らは、イエス様に猛烈に抗議をします。「何の権威でこんなことをするのか」しかし、イエス様は悠然と構え、「あなたがたは私の父の家を商売の家にしているではないか。この神殿を壊して見よ。私が三日で立て直してみる」と啖呵を切って、その場を立ち去っていかれたのでした。

 さて、商売をしている人々はもちろん、祭司や律法学者のように、このイエス様の大胆な行動に腸が煮えくりかえるような思いをした人々もたくさんいたでしょうが、意外にも胸のすくような思いで見守っていた人々も大勢いたようなのです。それでたちまちイエス様のお名前がエルサレム中に知れ渡るようになり、多くの人々がイエス様を信じたと、聖書に書かれています。

 このことから思いますに、当時のユダヤ社会というのは、ローマの支配とか、暴君のヘロデ王とか、傲慢で形式的な宗教者とか、息苦しいほどの閉塞感があったのではないでしょうか。そこにイエス様が現れて、伝統主義、形式主義、権威主義のほんの一角ですが、それを覆すようなことをしてくれた。このイエス様のラジカルさに、この人なら何か新しいものを生み出してくださるのではないか、彼こそニューヒーローではないか、という期待感が一気に高まったということだと思うのです。

 ところが、イエス様はこういう人々を信用しなかったと言われています。それは決していい気にならなかったということでありましょう。人間というのは、自分の名が高まってきますと、思い上がって大切なことを忘れてしまうことがあります。たとえば大きな舞台だけを大事にし、小さな舞台で働くことを軽んじてしまうようになるのです。

 しかし、イエス様にはそういうことがありませんでした。たくさんの人々の前で神様を伝えることも厭いませんでしたが、誰も人がいない場所での一対一の対話というものもイエス様は非常に大切にされた、そのことを今日はまずお話しをしたかったのです。

 たとえば、今日お読みしましたニコデモの話もそうですし、その後に続くサマリアの女性との対話もそうです。イエス様は神殿のような檜舞台においても、また夜のプライベートな時間にちん入してきたニコデモのような訪問者に対しても、あるいはニコデモというのは高名な議員でありましたが、名も知れぬ場末の女と言ってもよいサマリア人女性に対しても、まったく同じな神様の愛と熱意をもって、福音をお語りになったのです。

 それは、イエス様が決して群衆の評判に思い上がらなかったからだというのです。そのことについて聖書はたいへん興味深い言い方をしています。

「しかし、イエスご自身は彼らを信用なさらなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」

 いかがでしょうか。こう言われてしまうと、イエス様という方は人を信用なさらず、突き放して見ておられる孤独な、冷たいお方だったようにも聞こえますが、決してそう意味ではなく、これはイエス様が人々の心の弱さを知っておられたということなのです。だから、「人を信用なさらなかった」とありますが、それは言い方を変えれば、人間を過大な期待をして、無理な重荷を負わせようとはなさらなかったということではありませんでしょうか。人間を信じないで神様を信じる、それがイエス様の人間に対する優しさの源だったのだと思うのです。
一期一会
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 さて、ニコデモのお話しをしましょう。ある夜のことです。ニコデモはイエス様のもとを訪ね、教えを請いました。彼は、名誉あるファリサイ派の教師であり、権威あるユダヤ人最高議会の議員の一人であり、おそらく年齢もイエス様より上であったでしょうから、学校も出ていない年下のイエス様を訪ねて教えを請うというのは、本当に謙虚な心をもった人物だったのだろうと思います。

 イエス様の方もまた、先ほどの申しましたように、夜の突然の訪問だったにも関わらず、心を込めてニコデモとお会いし、真剣勝負のような緊張感のある対話をし、彼の魂をお導きくださったのでした。

 私はここで「一期一会」という言葉を思い起こします。一生にただ一度の機会として、心を込めて生きるという教えであります。これはイエス様が私たち一人一人をかけがいのない一人として愛してくださる精神に通じるものがあると思います。

 余談ですが、もともと「一期一会」は茶の湯の精神を表す言葉だそうで、千利休の弟子が始めに使った言葉だそうです。実は、千利休はキリスト教にたいへん深い関わりをもった人で、おりきという奥さんもクリスチャンですし、七人の高弟のうち五人までキリシタン大名で、高山右近ともたいへん親しい間柄でした。ですから、利休によって大成された茶の湯の精神には、その奥深くにキリスト教の精神があるということがよく言われるのです。たとえば一つのお椀でお茶を回し飲みするのは、イエス様の最後の晩餐から取られたものだとも言われますし、利休が考案した躙り口、茶室に入るための狭い入り口は、狭き門の教えを表したものであるとも言われます。

 そうしますと、一期一会というのも、イエス様がニコデモに対して、あるいはそのあとにあるサマリア人女性に対して、心を込め、愛を込め、真摯になって向き合われた、そのようなところから生まれた言葉だったかもしれないと思うのです。私たちもまた、一期一会の精神をもって、イエス様に愛され、導かれています。そのイエス様に対する私の礼拝、祈りも、一期一会の心を大切にしたいものだと思うのです。
夜の意味
 ニコデモの話でもう一つ心に留まりますことは、夜というシチュエーションです。地位も名誉もある立派な人物が夜の闇の中に身を隠して、こっそりとイエス様を訪ねてくる。それだけで何となくドラマチックな感じがしないでしょうか。ニコデモは、なぜ夜にイエス様を訪問してきたのでしょうか。

 わたしは自分の祈りの生活の中で、《夜》について色々と教えられてきました。夜というのは、病いとか、挫折とか、行き詰まりとか、愛する人の死とか、あるいは自分自身に迫ってきている死とか、人生の夜があるのです。あるいは、憎しみとか、悲しみとか、恐怖とか、絶望とか、罪深さとか、わたしたちの心の中にも夜があるのです。その中で、もっとも深い暗闇は何かと言いますと、「わたしを救ってくれる神様の御姿が見えない」ということです。

 数年前、わたしは、そういう夜の闇の中で意気阻喪し、祈りの言葉さえも見つからないような有様でした。神様は、わたしから御顔を背けてしまわれたのではないか。わたしは、「神様、助けてください」と祈る資格さえもない人間なのではないか。だからといって、神様に見捨てられた状態で、この先どうやって生きて行けば良いのだろうか。自分の知恵も、力も、知識も、経験も、今までの努力も、熱心も、功績も、妻がいて子供がいて日毎の糧が与えられているというささやかな喜びも、すべて深い暗闇の中に光を失ってしましました。

 しかし、わたしは、そのような真っ暗闇を経験する中で二つの言葉に出会いました。一つは詩編74編16節に記された聖書の御言葉です。

 「昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」

 この御言葉によって、わたしは、夜の闇さえ、神様が誉め称えられるために、神様御自身がお造りになったものであるということを悟りました。

 もう一つは、ある牧師が夕べの祈りとして捧げた祈りの言葉です。

 「とこしえにいます主よ、この世の光りの消えゆく今、
  わたしはあなたの臨在の輝きをこい求めます。」

 この祈りによって、わたしが今まで光だと思っていたものは、実は神の栄光の輝きを暗くするだけのものに過ぎなかったということが分かりました。

 神様は、夜の闇にさえ神様の栄光が輝いていることを教えるために、星をお造りになりました。しかし、東京にいると、その星空も、なかなか見ることができません。東京の夜空に星が見えないのは、空気が汚れているからではありません。都会が明るすぎるからなのです。人間が造った都会の光が、闇夜に神様の栄光を現す星の輝きを暗くしているのです。

 わたしも、同じ事をしていました。夜の闇をかき消そうと、人間の知恵、力、富、名誉、誇り、自信、そういう人間の光ばかりを求め、またそれが失われることを恐れていました。しかし、実際は、そういう人間の光が、神の光を暗くしている原因だったのです。

 神様の栄光の輝きを見るためには、人間の光が暗くされなければなりません。それで神様は、強い御手をもって、わたしが寄り頼んでいた人間の光を暗くされたのだということが分かったのです。人間の知恵が暗くされるとき神の知恵が輝き、人間の力が破れるとき神の力が働き、人間の誇りがうち砕かれるとき神の栄光が輝くのです。
イエス様に出会う夜
 そうだとすれば、みなさん、夜というのは、わたしたちがイエス様と出会うために、神様が深い御心をもって備えられた時なのではありませんでしょうか。

 イエス様がお生まれくださったのも夜でありました。羊飼いたちも、東方の博士たちも、夜の闇の中で救い主としてお生まれになったイエス様を礼拝したのです。また、イエス様が十字架上で息を引き取られるとき、昼間であるにも関わらず、全地が闇に覆われました。その闇の中で、イエス様の栄光は現され、百人隊長や見張りをしていた人たちは《本当に、この人は神の子だった》と告白したのです。

 人間の光が暗くされた夜の闇の中でこそ、神の知恵、神の力たるイエス様の栄光が輝かれたのです。もちろん、朝も、イエス様と出会うために備えられた時です。復活は朝の出来事でした。日曜日の喜ばしい礼拝は、朝に守られます。しかし、聖書は「夕べがあり、朝があった」と語っています。朝の前に、夜があるのです。そして、夜もまた神様のものなのです。

 ニコデモの話に戻りたいと思います。昼間のニコデモは、実に多くの光に照らされて輝いていました。地位もあり、名誉もあり、知恵もあり、才能もあり、富もあり、神様を恐れる信仰をも持っていました。

 しかし、夜のニコデモはどうであったかと想像してみるのです。一日の働きをすべて終え、人々も寝静まる夜、自分の部屋に入り、隠れたところで天の父なる神様に祈るとき、彼は議員でもなく、教師でもなく、富める者でもありません。神様の大いなる知恵、全能の御力、栄光の富を仰げば仰ぐほど、自分はまったく貧しい人間なのだ、無力な人間なのだ、そのような思いを深くしていたのではないでしょうか。

 そして、ついにニコデモはイエス様を訪ねる決心をします。昼のニコデモではなく、夜のニコデモがイエス様に会いに来たのであります。人間の光が消えゆく夜だからこそ、ニコデモの心にはっきりとイエス様の内に輝く神の光が見えてきてのではありませんでしょうか。

ニコデモは、イエス様にお会いするなり、こう言っています。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

「あなたこそ神様から遣わされた御方です」「神様はあなたと共におられます」と、ニコデモはイエス様に言ったのでした。これは「あなたこそ、わたしの光です」という信仰告白です。夜の闇の中に生きる求道者であったからこそ、ニコデモは、このようなイエス様の輝きを見ることができたのです。
生まれ変わる
 夜、イエス様に出会う。それは、言葉をかえて言えば、《イエス様によって新しく生かされる》という経験です。今まで自分自身の輝きで、人生を輝かせ、心を明るくしようと一生懸命に生きてきた人が、自分自身のすべての輝きを失うことによって、イエス様の輝きを知るのです。そして、イエス様の光のもとにきて、イエス様に照らされる人生を生き始めるのです。

 そうすると、今まで見えなかったものが、見えるようになってきます。それが神様の愛と恵みの支配するところ、神様の平和があるところ、神様の御国なのです。

 イエス様はこう言われました。

 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 自分自身の輝き、世の中が私たちに与え得る光、何であれイエス様でない光によっては、決して神様の御国の栄光を見ることはできないのです。そういう光しか持たない人生には、神様の御国に対する希望がもてないということです。

 イエス様はこうも仰いました。

 「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

 《水》というのは、私たちを罪から洗い清めるために、イエス様が十字架で流してくださった血のことです。《霊》というのは、私たちを神の子として造り上げるために、イエス様が遣わしてくださった聖霊様のことです。《水と霊》というのは、イエス様が私たちを神様のものとするために成し遂げてくださった救いの御業そのものなのです。そのようなイエス様の恵みと御救いだけが、私たちを新しく生まれさせ、生き生きとした御国の希望に生きることを得させてくださる力なのです。

 ニコデモは、暗闇の中を歩いて、イエス様のもとにきました。世間体を恐れてでありましょうか。そうではなく、暗闇の中に輝く光を見いだした喜びをもってではなかったかと、私は思います。闇に覆われたベツレヘムの中で、一生懸命にイエス様を捜した羊飼いたちの心を動かしたのも、恐れではなく、喜びでした。イエス様を拝むために、星を目当てに旅してきた東の国の博士らの心を動かしたのも、恐れではなく、喜びでした。夜の中に光を見いだしたら、誰でも喜んで光のもとに来るのです。

 みなさん、わたしたちは今、多くの光に照らされて人生を生きているかもしれません。しかし、イエス様が輝いておられなかったら、その人生は神様の救いの光を見いだせないまま恐れと不安に満ちたものになってしまいます。逆に、わたしたちは今、多くの光が光を失い、まったく暗闇の中に生きているかもしれません。しかし、その暗闇の中でイエス様の輝きがさんさんと輝いておられるのを見るならば、私たちの人生は大きな喜びを持つのです。

 イエス様こそ、私たちの光となってくださるように、イエス様こそわたしたちの喜び、希望となってくださるように祈りましょう。
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