宮清め
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書2章13-22節
旧約聖書 詩編84編1-13節
怒るイエス様
(画像)
 これまでイエス様の生涯を勉強をしてまいりまして、まだほんの初めの部分でありますけれども、いろいろなイエス様のお姿というものを拝見してまいりました。母の胸に抱かれている小さきイエス様、野原をかけまわってたくましくお育ちになったイエス様、大人を相手に堂々と議論をなさる賢きイエス様、ご両親のお仕事をお手伝いする従順なイエス様、断食をして祈るイエス様、悪魔と戦うイエス様、お弟子さんを一人一人呼び集めるイエス様、そして先週はぶどう酒が底をついてしまったカナの婚宴で天来のぶどう酒を振る舞われるイエス様ということをお話ししました。

 今日、私たちはどのようなイエス様のお姿を見るかと申しますと、烈火のごとくお怒りになったイエス様のお姿を見るのであります。

 「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」

 柔和で心優しいイエス様が、縄の鞭をつくり、それを振り回したり、商人たちの台を蹴散らしたりして、商人たちを追い出されたというのですから、聖書を読む人にはたいへんな驚きです。弟子たちもはじめてイエス様の激しく怒る様子を見て、さぞかし恐れおののいたことでありましょう。

 けれども、さすがにお弟子さんたちはただ驚いているばかりではありませんでした。こんなに恐いお顔をして怒られるイエス様の怒りというものをしっかりと受け止めて、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という御言葉を思い起こし、イエス様の激しい怒りの中に神殿に対する熱い思いがあるのを見たというのです。
人を生まれ変わらせる怒り
 怒りというのは、人間の小さな狭い心から来る怒りもあると思いますが、逆に愛の大きさや正義感の強さというものからくる怒りというものもあるのです。愛しているからこそ怒りがこみ上げてくる。正義を求めているからこそ怒りがこみ上げてくる。みなさんにもそういうご経験があるのではないでしょうか。

 まして、イエス様の怒りというのは、単に腹立たしいという心の狭い考えに基づくのではなく、人にまことの愛を与え、人を造りかえようとする怒りであったと言ってもいいのではありませんでしょうか。ですから、このようなイエス様の怒りに触れるということは、人間にとってとても大切なこと、そして恵みに満ちたことだと思うのです。

 私の子供の頃の話を一つさせていただきたいと思うのですが、私はどうしようもない悪ガキでありまして、勉強はしないし、ケンカはするしで、親からも、学校の先生からも、近所のおばさんや親戚のおばさんからも、年中、怒られてばかりいました。けれども、どんなに叱られても一向に懲りないで、こんなところで公にいえないような悪いこともずいぶんしてきたのです。

 ある日、学校の先生が私の母を呼びまして、「息子さんにもっと勉強させてください」と言いました。そんなことはこれまでに何度もあったようなのですが、母もさすがに面倒になって、「あの子はわたしも諦めていますから、先生もほっといてください」と答えたそうです。次の日、先生は学校が終わった後、「国府田君、ちょっと来なさい」と私を呼びました。本当によく叱る先生だったので、私も「またか」と思って先生のお説教を聞きにいったのです。すると、先生は、わたしに「国府田君、あなたは教会に行っているだってね。そんなことじゃ、神様が泣くよ」と仰ったのでした。

 私はその言葉に非常に大きな衝撃を受けました。確かに、私は両親に連れられてずっと教会に通っていました。教会は好きでしたし、イエス様も好きでした。だからといって教会でよい子だったわけではなく、教会でもケンカをしましたし、ずいぶん大人の人たちを困らせる問題児だったと思います。それでいて、イエス様を悲しませているとか、イエス様が私の悪い行いをみて怒ったり、悲しんでおられるなんていうことは、今まで一度も考えたことはなかったのです。

 ところが、学校の先生に厳しく叱られ、「イエス様が泣くよ」と言われたとき、私はイエス様の怒っているような、泣いているような、なんとも言えないまなざしが自分に注がれているのをはっきりと感じたのです。そうしたら、とたんに「ああ、これじゃあいけない。イエス様を悲しませない人間にならなくては」という思いがこみ上げてきたのでした。そして、その時からわたしの心や生活が変わり始めたのです。

 こんな経験がありますから、私はイエス様の慈しみに満ちた御顔だけではなく、怒った御顔や悲しまれている御顔にも深い愛情を感じるのです。こんな取るに足らぬ私のなす些細な悪事にも、イエス様は真剣に悲しみ、怒ってくださる。このイエス様の怒り給う姿というものを知らなかったら、私は決して生まれ変わることはできなかったと思います。
イエス様の怒りに愛を感じる
 実はこの宮清めの話に限らず、イエス様はしばしば真剣になってお怒りになりました。偽善者たちを辛辣にご批判なさることもありましたし、弟子のペトロに「サタンよ、退け」と怒鳴られたこともあります。

 その中で、私が一番印象深く思い起こしますのは、実は宮清めではなく、マルコ3章に書かれている場面なのです。イエス様が会堂に入られると、そこに片手の不自由な人がおりました。人々は、イエス様がその人をどう扱われるか興味津々と見守っています。というのは、安息日に病気を癒すことは律法違反であり、もしそんなことがあればすぐにでもイエス様を訴えようと思っていたからです。

 すぐにその雰囲気をお察しになったイエス様は、片手の不自由な弱い人を平気でダシにしてしようとしている人々の心に深い悲しみを催されます。そして、怒りに満ちた顔で人々をぐるりと見回し、「安息日にゆるされているのは善を行うことか、悪を行うことか」と、人々に問いつめるのです。人々は蛇ににらまれた蛙のように黙りこくってしまい、イエス様はその人を癒されたという話です。

 もしこの時、自分たちの目的のために、片手の不自由な人を平気でダシに使う人々に対して、イエス様が激しく怒ってくださらなかったら、私はイエス様の愛というものに失望してしまうことでありましょう。しかし、イエス様は深く悲しみ、怒りをあらわにされました。そこにイエス様の憐れみ深さ、愛の深さというものがあるのです。
宮清め
 宮清めの話も同じことです。神殿というのは、ユダヤ人にとって魂の拠り所ともいってもよい、愛着のある場所でした。それは、今日ご一緒にお読みしました詩篇84篇がとてもよく表していると思います。

「万軍の主よ、あなたのいますところ(神殿)は
 どれほど愛されていることでしょう。
 主の庭(神殿)を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。 
 命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
 つばめは巣をかけて、雛を置いています。
 万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
 いかに幸いなことでしょう
 あなたの家に住むことができるなら
 ましてあなたを讃美することができるなら」

 この人は神殿の祭壇に巣をつくっているツバメまでうらやましく思うほどに、神殿を慕っているというのです。11節ではこんな風に言われています。

「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです
 主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
 わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」

 神殿で過ごす一日は千日にまさる一日、たとえどんなに平和で安楽な生活であっても、主に逆らう者と一緒に暮らすよりも、どんなに足腰が辛くても一日中、神殿で立ち続ける方が喜ばしいと言われています。

 もちろん、ユダヤ人は神殿に神様が住んでいると考えていたわけではありません。しかし、この詩篇でも「あなたの庭」、「主の庭」、「神の家の門口」と言われていますように、神殿というのはこの世の土地、建物というよりも、天国の神様のお住まいの端っこが、ここに垂れ下がっているものとして考えられていたのではないでしょうか。そして、たとえそれは端っこでありましても、この世のものならぬ神様のお住まいの一部であるということで、人々は神様を愛するのと変わらない思いをもってこの神殿に愛し、深い思いを寄せていたのです。

 しかし、イエス様の神殿にごらんになると、このような純粋な思いをもって祈りに来る人たちの信仰心を利用して金儲けをしようとする人たちが門前市を繰り広げていた。イエス様は、神殿や人々の祈り心が、あるいは神様と人間との清らかな交わりが、そういう商人たちによっていたく汚されているとお感じになるのです。

 「わたしの父の家を商売の家とするな」とイエス様は厳しいお声で訴えられました。他の福音書ではもっと厳しい言葉で「あなたたちは父の家を強盗の巣にしている」とお叱りになったと記録されています。そのことを深く悲しむからこそ、このようにイエス様がお怒りになるのです。

 イエス様の怒りもそうですが、聖書は神の怒りについて非常に多くを語っています。ただ愛についてだけ語り、ただ平和についてだけ語るのが聖書ではないのです。人間の罪に対して、心底悲しみ、怒っておられる神様について語るのです。

 聖書のいう平和というのは清い水も濁った水も併せのむことではありませんし、愛というのは単なる甘やかしではありません。愛を裏切られても怒らない神様が、本当に愛の神様だと言えるのでしょうか。正義が蹂躙されても怒らない神様が、はたして正義の神様とは言えるでしょうか。

 バプテスマのヨハネも、「差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか」と、神の怒りを知ることを求めています。しかし、彼は同時にイエス・キリストをも指し示したのです。イエス様は神様の愛の権化です。イエス様こそ神様の激しい怒りに勝る愛で人間を愛し、赦し、再び神の子とし、神と人の間に、人と人の間に、まことの正義と平和をお与えになろうとしてくださるお方なのです。
 
 どうぞ、今日はイエス様の慈しみに満ちたお顔と共に、イエス様の怒りに満ちたお顔もまた、私たちを清め、救う神様の愛の御顔であるといことを覚えて、感謝したいと思います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp