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イエス様はお育ちになったガリラヤ地方からユダヤ地方に出てこられると、そこで預言者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で断食をし、それから数名のお弟子さんたちをお召しになりました。ちょうどその頃、ガリラヤのカナで結婚式がありましたので(これはイエス様の従兄弟の結婚式ではないかと言われていますけれども)、イエス様はお弟子さんたちを連れてガリラヤにお帰りになり、カナでの結婚式にお出になりました。2章1節に「三日目に」とありますのは、三日ほどの道のりがあったということでありましょう。今日のお話しは、このカナの婚礼で、イエス様が最初のしるしを行われたというお話しです。
まず「しるし」ということでありますけれども、聖書には「最初の奇跡」と言わないで「最初のしるし」とわれています。「奇跡」と「しるし」は違うのです。ここでは、イエス様が水をぶどう酒に変えられたということが書かれているのですが、確かにそれは奇跡です。人間業ではなく神業です。そういう意味では奇跡です。
けれども、それはただ人を驚かすだけのものではありませんでした。あるいは単にぶどう酒の不足を補う目的だけのために行われたことでもありませんでした。11節を見ますと、「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」とあるのです。これは弟子たちに信仰が与える出来事だったのです。弟子達の心の中で、イエス様というお方が確実に「わが主、わが神、わが救い主」に見えてきた、これが信仰が与えられたということです。大切なことは、カナの婚礼での出来事の中に奇跡を見ることではなく、イエス様が救い主であるというしるしを見ることにあるのです。
実は、今年最初の日曜日にも、このカナの婚礼のお話しをしました。その時、イエス様の奇跡はミラクルではなく、ワンダーであるというお話しをしました。どちらも奇跡という意味があるのですが、ミラクルというのは、神懸かりで不思議な現象が起こることをいいます。ミラクルボーイといったら神童のことでありますし、ミラクルドラッグといったら特効薬のことです。しかし、イエス様はミラクルボーイではないし、イエス様の奇跡はミラクルドラッグでもありません。そうではなく、ワンダーであるというのです。ワンダーとは、不思議で、素晴らしいということです。それが私たちの心に満ちてくると、私たちの人生はワンダフルになる、それがワンダーです。
ミラクルを見た人は驚き、上等なぶどう酒を飲んで楽しんだことでありましょう。けれども、そのすべての人に信仰が与えられたわけではありません。信仰が与えられなければ、奇跡を見た感激も、上等のぶどう酒を味わった感激も、いつかは冷めてしまうに違いありません。そして、また感激のない不平不満に満ちた生活(救いのない生活)に戻ってしまうのです。
逆に、弟子たちや世のクリスチャンたちは、いつもミラクルを見ているわけではありません。いつも上等なぶどう酒を飲んでいるわけではありません。病む時もあれば、乏しい時もあるのです。しかし、信仰があるということは、いつも心にイエス様が一緒にいてくださるというワンダーな平安、喜び、慰めを持っているということです。「弟子たちはイエスを信じた」とありますが、それは奇跡に対する驚きではなく、イエス様に対する驚きや素晴らしさに満たされたということなのです。
今日は、私たちもそのようなイエス様に対する驚きや素晴らしさを求めて、この物語を読みたいと思うのです。
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最初に気がつくのは、イエス様が最初の栄光を現されたのは神殿でもなく、教会でもなく、聖なる山の頂でもなく、身内の結婚式という世俗的でプライベートな家庭の催しのうちであったということです。
それは、イエス様が私たちの家庭を祝福してくださるということ、男女の愛や夫婦の愛を祝福してくださるということ、私たちの新しい人生の門出を祝福してくださること、また人間の祝い事、喜び、楽しみを一緒に喜んでくださるということを意味しているのではありませんでしょうか。
このことは私自身の経験とも一致します。ちょっと恥ずかしい話なのですが、私が最初にイエス様を真剣に求めたのは、世のためでも、人のためでもありません。中学3年生の時、一目惚れの女の子と友達になりたいと思った。それで「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉を信じて、イエス様の一生懸命に祈ったというのが最初なのです。
そんな私の利己的で、神様のためには何のお役にも立たない祈りにも、イエス様は惜しみなく神の業を行ってくださいました。私の方から何のアプローチもしなかったのに、女の子の方からつきあってくれと言ってきたのです。こうしてイエス様のお陰で、私は好きな女の子とつきあい始めることができました。
実は、その女の子との関係はあまり長続きしませんでした。けれども、その時から私のイエス様に対する信頼は揺るぎないものとなり、イエス様とのおつきあいは今に至るまでずっと続いているのです。それこそ結婚や、人生の門出のたびごとに、私はイエス様のお世話になり、イエス様との関係はますます深く離れられないものとなっています。
それじゃあ御利益宗教と一緒じゃないかと思われるかもしれませんが、私はそんな風に考えたことは一度もありません。確かに、私はイエス様にあれこれと願い求めてばかりいましたけれども、結局、私の喜びがどこにあったかといいますと、それは御利益を得たことにではなく、それを与えてくださるほど私を愛してくださっているお方がいるということにあったと思うからなのです。
祈りを通して得た最大の御利益は、イエス様の愛を知ることだったのです。私は、イエス様はご自分にとっては何の益にもならないような、こんな小さな人間のこんな小さな願いをも大事にしてくださるお方だと知りました。その事を通して、自分がイエス様に愛されているということを本当に確かなこととして経験してきたのです。
信仰というのは御利益を求めることではなく、イエス様に従うことですし、イエス様に捧げることです。けれども、最初から「従え」「捧げよ」ではないと思うのです。私たちのために惜しみなく与えてくださるイエス様の愛を知ることによって、その確かな喜びから来るまったく自然な感情として、私もイエス様にお捧げすることができる人間になりたいと思えるようになっていくのが筋道ではないでしょうか。
無理をしたら必ずそれは偽善的になってしまいます。偽善ではなく心からそれができるようになるため、まずイエス様の方から私たちの大切にしているものを大切にしてくださり、個人的な生活を支え、祝福してくださるのです。このようにイエス様の方から私たちのレベルまで身を低くしてくださって、私たちに信仰や奉仕の心を与え、天国への道を一緒に歩んでくださる。それがこのカナの婚礼を祝福してくださったイエス様から知ることの出来る素晴らしさの一つではないでしょうか。
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カナの婚礼の話というのは、ある意味でたいへん愉快な話だと思うのです。祝宴の半ばにしてぶどう酒がなくなってしまった。すると、イエス様は水を上等なぶどう酒に変えて振る舞ってくださった。そのお陰で、この婚礼はただ危機を脱しただけではなく、飲めや歌えやといよいよ盛り上がっていったのです。
イエス様は私たちに喜びを与えてくださるお方です。信仰生活は喜びの生活です。しかし、私たちはよくこう考えてしまうのです。「それは決して食べたり、飲んだり、騒いだりする喜びではないはずだ。そういうのは空しい、はかない喜びだ。信仰生活の喜びは、もっと清く、永遠で、厳かな喜びであるはずだ」と。
それも確かなことでありましょうが、このカナの婚礼の話はちょっと違います。飲んだり食べたり騒いだりしてしている人々の喜びを白けさせないために、御力を発揮し、水をぶどう酒に変えて祝福してくださったというのです。
私は、かつて実に暗い顔をしたクリスチャンでした。真面目に、一生懸命に、良いクリスチャンになろうとすればするほど、思い詰めた暗い表情、歯を食いしばったしかめっ面になってしまったのです。顔に地獄の絵が描いてあるようなもので、そんな顔をみたら誰もクリスチャンになりたいなどとは思わないというような表情をして信仰生活をしていました。
その頃の私が陥っていた過ちというのは一つではなく色々あったと思っているのですが、その一つはこの世の楽しみや喜びを全部悪いものだと考えてしまったことにあったと思うのです。その間違いに気づくのに、私はだいぶ時間がかかってしまいました。
世の富、誉れ、飲み食い、健康な体、世の仕事、そういうものは、確かに永遠のものではなく、過ぎゆくものです。しかし、決して悪いものではなく、その過ぎゆくものでさえも、神様がお造りになり、人の喜びのために与えてくださったものなのです。今は、そう思っています。神様が与えてくださったこの世の富や楽しみを上手に楽しむということは、神様を喜ぶということと決して矛盾しない、むしろ大事なことなのです。
福音書の別のところを読みますと、イエス様の普段の生活を見て「あれは大食漢で大酒のみだ。あんなのに神様のことを教える資格があるのか」と、イエス様をいかがわしい人物と危ぶむ人々がいたということが書かれています。しかも、上品な人々とではなく、罪人や徴税人という蔑まされていた人々と一緒に飲んだり、食べたりしていたというのですから、イエス様という方はきっと気さくで陽気なお方で、そういう人々と一緒に酒を飲んだり、食べたりする生活を、結構ご自分でもエンジョイなさっていたのではないかとも思われるのです。
イエス様が天国を宴会にたとえてお話しになったということも書かれています。イエス様の生活を見ていると、イエス様の教えてくださる神様や天国って本当に温かく楽しそうだなと思えてくる。だからこそ、人々は安心して、喜んでイエス様についてきたのです。
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さて、この奇跡は、私たちに希望を与える奇跡であります。二つの意味で私たちに希望を与えてくれると思います。
一つは、イエス様がぶどう酒の欠乏を補ってくださったということです。ぶどう酒の欠乏というのは、今お話ししましたような愛や喜びというものが私たちの家庭や、心の中で底をついてしまうような絶望感だと思うのです。しかし、イエス様は水をぶどう酒に変える、つまりこれは無から有を生み出すようなお力をもって、私たちの心にぶどう酒を与えてくださるということなのです。神にはできないことはない。これがこの奇跡の与えてくれる一つの希望です。
もう一つ、もっと大きな希望があります。みなさんは、イエス様にそのような素晴らしいお力があると信じていても、自分にはそのようなイエス様の姿も見えないし、声も聞こえない。そのために、イエス様は自分のためには何もしてくれないのではないかと思ったことがありませんでしょうか。しかし、そうではない、ということをこの奇跡は教えてくれるのです。
一緒に婚礼に出ていた母マリアが、ぶどう酒が足りなくなってきたのに気がついて、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。すると、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えます。
このやりとりは、ちょっとわかりにくいところで、いろいろな解釈があります。普通に読めば母マリアがイエス様を頼みしているのに、イエス様がそれを冷たく突き放したのだと読めるのですが、逆に心配するマリアに対して「お母さんは心配しないでください。僕は働くべき時が来たら、言われなくてもちゃんとやりますから」という意味だという人もあります。すると、次にマリアが召使い達に「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言っているのもしっくりとつながってくるのです。いずれにしても、マリアは召使いにこういって、あとはイエス様の任せてしまいます。
すると、イエス様はさっそく召使いたちに、大きな石の水瓶に「水をいっぱい入れなさい」とおっしゃいます。召使い達がそのようにすると、それを宴会の世話役のところに持っていかせるのです。
世話役が召使い達がもってきた水を嘗めてみると、それは非常に上等なぶどう酒に変わっていました。しかし、世話役はこのぶどう酒がどこから来たのかは知らないわけですから、奇跡が起こったとは思っていません。ただ、普通は最初に良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃には二級酒でごまかそうとするのに、上等のぶどう酒を最後までとっておいたということに驚いて感心したというのです。
一方、水を汲んだ召使い達は、このぶどう酒がどこから来たのか知っていたとあります。しかし、彼らはいったい何をどのように知っていたというのでしょうか。イエス様が神様の子のお力で水をぶどう酒に変えられたのだということを知っていたということなのでしょうか。
私は、それはちょっと違うんじゃないかと思うのです。彼らがはっきりと知っていたのは、イエス様は、「ちちんぷいぷい、水よ、ぶどう酒になあれ」とも命じなかったし、水瓶にも、水にも触れもしなかったということです。自分たちが水瓶の中に入れたのは確かに真水であり、それをそのまま世話役のところに運んできただけであるということです。だから、本当にこれはイエス様がしたことなのかさえも、召使い達にははっきりとしなかったのではないでしょうか。ただ、彼らに言えることは、自分たちが汲んできたのは水であったけれども、それが上等のぶどう酒に化けていたということなのです。
ただし弟子達は違いました。弟子達は、確かにこれはイエス様の御業であると知っていたのです。イエス様は、何一つそれらしい振る舞いをなさったわけではなかったのですが、すべてのことはイエス様の御心のままに起こっているのだということを弟子達は知っていたのです。水瓶に水を汲ませることも、それを世話役のところに持っていかせることも、そんなことをして何になるのだ、何にもならないじゃないかというような事であります。けれども、何をしたとか、何をしなかったとか、そういうことで奇跡が起こるのではないのです。イエス様は水をぶどう酒にかえて、この婚礼を祝福しようとお考えになった。そのお心だけでけ水がぶどう酒に変わったのです。
みなさん、イエス様は今日も私たちの個人的な生活を祝福してくださいます。喜びのぶどう酒が底をつきそうな時に、天より上等のぶどう酒を振る舞ってくださいます。けれども、気をつけていただきたいのは、その時に如何にもそれらしい不思議なことが起こるとは限らないのです。イエス様の声も聞こえないかも知れません。イエス様の幻も見えないかも知れません。イエス様が私たちに天のぶどう酒を振る舞い、喜びを与えようとしてくださるとき、そういうことは必ずしも必要ではないのです。ただイエス様のお心があればよいのです。お心があれば、何があってもなくても、必ずそのようになるのです。
イエス様が婚礼を祝福するために水をぶどう酒に変えて与えてくださっても、世話役の人は上等なぶどう酒がここで出てきたことに驚くだけでありまして、それが花婿の粋な計らいだと思っただけだったというのであります。
私たちもまた、この世話役のように、イエス様の恵みを恵みと思わず、不思議とも思わず、ただ運が良かったとか、誰々さんのお陰であるとか、そういう感謝で終わってしまうということもあるのではないでしょうか。あるいはまた召使い達のように、今ここで本当にあり得ないことが起こっているということは分かっていても、不思議なことがあるもんだとただ首を傾げるだけで終わってしまうこともあるのではないでしょうか。けれども、それらすべてのことは、実はイエス様の恵み深い御心によって起こっており、私たちに与えられているのです。
それを知り、それを見るとき、私たちはイエス様の本当の素晴らしさを知り、愛を知り、イエス様に対する深い信仰が与えられるのではありませんでしょうか。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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