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今回も引き続いて「最初の弟子たち」というお話しです。このお話しでは、ヨハネ、アンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルという五人の人々が、イエス様の最初の弟子になったということが書かれています。
前回、お話しをしましたのは、五人それぞれの導かれ方があったということでありました。ヨハネとアンデレは、イエス様に招かれたわけでもなく自発的にイエス様の後についていきます。ペトロは弟のアンデレに誘われて弟子になります。フィリポは、「わたしに従いなさい」とイエス様に直接声をかけていただいて弟子になります。ナタナエルはそのフィリポに説得され、仕方なくイエス様のところに来たのですが、イエス様に捕らえられて弟子になります。
弟子になるには、こういう道筋を通らなければならないという決まりはないのです。人はみんな生きている場所が違いますし、持っている特性も違います。ですから、そこからイエス様のところに導かれていく道も、決して他人(ひと)と同じではありません。
言い換えれば、どんなに人にも、その人の人生や、その人の特性の中に、イエス様に出会う道が用意されているということなのです。こういう人でなければ弟子になれないということは一つもなくて、知恵ある者にも知恵なき者にも、力ある者にも力なき者にも、気の強い人にも気の弱い人にも、イエス様に従う道は(決して同じではありませんが)必ず備えられています。そういうことが、この「最初の弟子たち」というお話しから、まず教えられることなのです。
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今日はもう一つ新しいことを、ここで教えられたいと思います。それは、どのような道をたどって弟子になったとしても、イエス様が私たちを選んでくださったのだという事実は変わらないということです。
最後の晩餐の時、イエス様は弟子達に「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。だから、互いに愛し合いなさい」と、もう一度そのことを思い起こさせてくださいました。
本当に、私たちは皆それぞれに自分の導かれ方の中に、格別なるイエス様の導きというものがあったと思い起こすことができると思うのです。イエス様のところに来るまでにいろいろな経路があったとしても、結局はすべてがイエス様のお導きであり、イエス様の愛と優しさが私たちに惜しみなく注がれた結果だったのだということです。
その点に置いては、私たちはみな同じ、一つなのです。だから、同じイエス様の愛、同じイエス様の恵みを受けている者として、共に手を携えてイエス様に従っていくことができるのです。
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さて、最初はヨハネとアンデレに対するイエス様の招きを見てみましょう。38節に、「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた」とあります。ヨハネとアンデレは、イエス様に強い興味を持ちまして、誰にも言われないで自らイエス様についていこうとしました。しかしどう声をかけて良いか分からず、こそこそしたり、うろうろとしたりして、ただイエス様の背中を見つめただったようです。
こういう二人に対して、一つは、イエス様が「振り返ってくださった」ということが書かれています。イエス様というお方はいつも神様を見て歩んでおられたお方です。しかし、神様だけをみておられるお方ではなく、しばしばこのように振り返って私たちに御顔を向けてくださるをお方でもあったということが、この「振り返ってくださった」という言葉に表れているのです。
世の中には、イエス様の背中だけを見て、イエス様について行こうとする人も結構いるだろうと思うのです。自分なりに聖書を読んで、自分なりにイエス様を手本として、自分なりに正しい人生を生きていこうとする人たちです。こういう人はとても根が真面目で、頑張り屋さんで、人にあれこれと言われなくても自分できちんと考えたり、判断したりすることができる、たいへん立派な人なのだと思います。
わたしは、それは悪いとは決して思いません。ヨハネとアンデレも、自発的にイエス様について行ったということは、そういう種類の人間だったかもしれないのです。ちなみに、アンデレという名前には「男らしい」という意味があるそうです。
しかし、人間というのはどんなに強い人であっても、時々ものすごく弱くなる事があるのではないでしょうか。そういう時、こういう強い人たちの弱点は、なかなか人に「助けてくれ」って言えないことにあると思うのです。自分で頑張ってきた人ほど、「助けてくれ」って素直に言えないのです。そして、自分が頑張れなくなると、自分が悪いんだと、情けないんだと、自分を責め続け、苦しむことになってしまうことがあるのです。
「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた」という御言葉は、そういう人たちに対するイエス様の優しさと招きを示す御言葉ではないかと、私は思います。「イエス様、振り向いてください。導いてください。助けてください。」と素直に言えない頑張り屋さんに対して、イエス様の方から振り向いてくださる、そして「何をして欲しいのか」と尋ねてくださるのです。
その優しき御顔と御声に触れたとき、その人はイエス様に救われた者となり、自分の力ではなく、イエス様の恵みによって従う者に変えられるのです。こういう言い方もできます。イエス様が振り向いてくださることによって、イエス様の背中ではなく御顔を見て従う者にされると。
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次にペトロであります。ペトロは、先に救われたアンデレに「わたしはメシアに出会った」と言われて「へー、それは素晴らしじゃないか」と、実に単純に感心をしまして、誘われるままにイエス様のところに行き、そのまま弟子になった人でありました。前回は、このペトロの素直さということについてお話しをしましたが、今日は、イエス様が初対面のペトロに言われた言葉について考えてみたいと思います。それは42節です。
「そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ ー『岩』という意味ー と呼ぶことにする」と言われた。」
イエス様は、初対面のペトロに、「あなたのことを、『岩のようにしっかりした人間』と呼ぶ」と言われたと書いてあります。
私たちは、後にペトロが主の言葉の通り、本当に岩のようなしっかりしたクリスチャンとなり、初代教会の揺るがぬ土台となったということを知っています。けれども、同時にペトロは初めからそういうしっかした人間だったわけではないということもよく知っているのです。ペトロの良いところは、素直でまっすぐな人間であったということです。しかし、それ以外の点はどうかといいますと、弟子達の中で一番たくさん失敗をした人間でありました。
ペトロは、「あなたこそ生ける神の子キリストです」とたいへん立派な信仰告白をして、イエス様のお誉めの言葉を戴きます。しかし、その直後に見当違いなことをして、今度は「サタンよ、退け」と叱られてしまったのです。このような両面をもっているのがペトロであります。
他にもあります。ペトロは信仰をもって海を上を歩きました。しかし、すぐに恐くなって溺れてしまったのがペトロでした。また、ペトロは「たとえ死んであなたから離れません」とイエス様に誓っておきながら、イエス様が捕まってしまうと恐くなって、「わたしはあんな人は知らない」と言い切ってしまったということもあります。
他にいろいろありますが、おっちょこちょいで、早合点で、お調子者で、いつでもひっくり返っている、とてもお粗末な人間、それがペトロだったと言っても良いのではないでしょうか。
そういうペトロのお粗末さを誰よりもよく知っていたのは、弟のアンデレでありまして、彼はペトロに対するイエス様のお言葉を聞いたとき、「あの兄貴が『岩』だなんて!」と吹き出したくなるようなおかしさを感じたかもしれないと思うのです。
けれども、だからこそ、私たちはイエス様のペトロに対する言葉に、とても大切な意義を発見するのです。イエス様が私たちを招いてくださるのは、私たちが立派な人間だからではありません。私たちをしっかりとした新しい人間にするために、イエス様は私たちを招いてくださっているのです。たとえどんなにお粗末な人間であっても、イエス様は、私たちを新しい人間にかえてくださることができる。それをペトロをもって証することになるわけです。
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フィリポはどうでしょうか。フィリポについては一番簡単に書かれています。43節、
「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。」
これだけです。どうのようにしてイエス様とフィリポが出会ったのか、そういうことは何も分かりませんが、結局、その決め手となったのは、「わたしに従いなさい」というイエス様のお言葉であったということなのです。
ヨハネとアンデレは、自ら主を求めて、願いをもって、イエス様に近づき、救われました。ペトロはアンデレを通して導かれ、イエス様に出会い、救われました。しかし、フィリポの場合は、フィリポが求めたのでもなく、人に誘われたのでもなく、イエス様がフィリポを求められたというのであります。
みなさん、イエス様の選び、招きということを考えるときに、どうしても忘れてはいけないことは、イエス様が私たちを求めておられるという側面だと思うのです。
私たちがイエス様に招かれたのは、まず「イエス様」という神様の素晴らしい贈り物を受け取るためです。そして、イエス様の恵みによって生きるためです。しかし、それで終わりではなく、私たちがイエス様の救いのために自分を捧げ、神の国の、教会の建設者となるという新しい人生の目標が与えられるためでもあるのです。どちから一方ではなく、両方が切っても切れない関係にあって、両方を同時に受け取るということが重要なのです。
イエス様は、「自分の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのために自分を命を捨てる者はそれを得るであろう」と言われました。自分のためだけに生きようとする者は、イエス様の救いを失ってしまう。イエス様のために生きようとする者は、自分のための救いをも受け取ることができるということなのです。 |
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最後はナタナエルです。ナタナエルは、フィリポに誘われてイエス様に出会い救われました。ペトロの場合とは違って、しぶしぶイエス様に会いに行きました。ところが、イエス様はそのようなナタナエルを本当に喜んで迎えてくださったのです。47節、
「イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない』」
ナタナエルではなく、イエス様の方が「私はまことのイスラエル人にであった」と喜んでおられるのです。
イエス様は、どんなに強い人間であっても弱いということを知っておられました。またペトロのようなお粗末な人間であっても、神様に新しく生まれることができるということを知っておられました。そして、ナタナエルのように半信半疑でやってくる人間に対しても、本当に「あなたは素晴らしい人間だ」と喜んでくださるのです。イエス様は、私たちの弱さやお粗末さに対しては優しさと恵み深さをもって見てくださり、私たちのうちにある良きところを最大限に評価し、愛してくださる方なのです。
人間は、どんな人間も神様に心を込めて作られた存在です。一人一人違うのは当たり前ですが、一人一人みな神様からの特別さをいただいて存在しているのです。ただ、それが私たちの罪や弱さ、また愚かさによって覆われてしまっていることはあると思います。ですから、逆にいうと、イエス様だけが、そのような罪の中に覆われている私たちの惨めな姿の奥に隠されている神の子としての姿を認めてくださるお方だということができるのではないかと思うのです。 |
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みなさん、私たちは今こうしてイエス様を知り、教会で礼拝をしていること、御言葉を聞いていること、それは決して当たり前のことではなく、このようなイエス様の深い恵みが注がれているからこそのことであるということを今日、もう一度確認し、イエス様の「わたしがあなたがたを選んだ」というお言葉に感謝をしたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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