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これまでイエス様のお誕生の話、ガリラヤのナザレで過ごされたイエス様の幼年時代、少年時代の話、それから30歳になられていよいよ世に出て神様のお働きになろうとされるイエス様が、その準備として預言者ヨハネから洗礼を受け、ユダヤの荒れ野で四十日四十夜の断食をなさったというお話しをしてまいりました。
マタイ、マルコ、ルカという三人の弟子が書いた三つの福音書を読みますと、イエス様はこれらの後、ガリラヤに戻られて、そこで「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と、宣教を開始されたということになっています。しかし、今日お読みしましたヨハネ福音書は、このガリラヤ行きに先立ってユダヤ地方とガリラヤ地方の両方を股にかけてお働きになったことを明らかにしています。
これを「初期ユダヤ伝道」と言うのですが、その最初にあるのが、今日読まれましたイエス様と弟子達の出会いの話なのです。
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まずは、預言者ヨハネの二人の弟子たちの話です。一人は「ペトロの兄弟アンデレであった」(40節)と言われています。もう一人は名無しの権兵衛ですが、ゼベダイの子ヨハネ、つまりこの福音書を書いたヨハネだと考えられます。
つまり預言者ヨハネとアンデレとゼベダイの子ヨハネの三人が一緒にいたのです。そこにイエス様が通りかかります。預言者ヨハネはイエス様をじっと見つめて、(ああ、このお方が救い主なんだ)という深い感慨を持って、アンデレとゼベダイの子ヨハネに「見よ、神の小羊だ」と言ったのでした。
すると二人は命じられたわけでもなければ、呼ばれたわけでもないのに、イエス様の後をついていきました。非常に積極的にイエス様を求める行動に出たわけです。もっともこういう二人でありましても、イエス様に声をかけることまではできず、ただ黙って後ろをついていくだけだったようです。もしかしたら、こそこそと尾行するようについていったのかもしれません。
それにお気づきになったイエス様は立ち止まり、振り向いて二人をご覧になりました。そして、「何を求めているのか」とお聞きになったというのです。急に声をかけられた二人はさぞかしびっくりしたことでありましょう。声もかけずにこっそりついていった失礼を恥ずかしく思ったかもしれません。
ともかく、二人はどきまぎしながら「先生、どこにお泊まりですか」と質問しました。すると、イエス様は微笑まれて、「一緒に来なさい。そうすれば分かりますよ」と、二人をお誘いくださったのでした。二人は喜んでイエス様と行き、その日はおそらく徹夜でじっくりとイエス様のお話に聞きいったのでした。そうしているうちに、だんだんとイエス様のお心の中に引き込まれていき、(このお方は本当に救い主だ)という確信を得ていったのでした。
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(今、私はメシアに会っているんだ!)
こう思うと、アンデレは居ても立ってもいられなくなりました。ぜひともこのことを誰かに話したいと思うのです。アンデレは中座して、兄のシモンのところに走ってきました。そして、「お兄さん、はやく来てください。私たちは今メシアに会ったんですよ」と、シモンをイエス様のところに連れてきたのでした。
シモンが現れると、イエス様は彼をじっと見つめて、「あなたのことはケファと呼ぶことにしましょう」と仰いました。それは「岩」という意味で、岩のように動かされることのないしっかりした人間になるという意味です。別の箇所にも、イエス様が彼に「ペトロ」というあだ名をつけられるという話がありますが、「ケファ」というのはアラム語の呼び方で、ギリシャ風に訳せば「ペトロ」ということになります。どちらも「岩」という意味で、二つのあだ名があったというよりも、イエス様が与えてくださった「岩」というあだ名をアラム語で言うか、ギリシャ語で言うかという違いだと考えればよいと思います。
名前をつけられるということは、その人との固い絆で結ばれるということで、イエス様は彼がやがて弟子達の中心人物になることをはやくも見抜いておられたということではないかと、私は思います。
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その明くる日のことです。イエス様は、ゼベダイの子ヨハネと、アンデレと、ペトロをお連れになって、ガリラヤのカナに向かわれました。カナであった結婚式に出席なさるためです。
ところが、その途中で、イエス様は、もう一人の弟子となる人物フィリポに出会いました。どのようにしてイエス様がフィリポに目を留められたのかはわかりませんが、彼はアンデレとペトロと同じベトサイダの出身であったと言われています。
ベトサイダはガリラヤにある漁師の町でありまして、アンデレとペトロがガリラヤ湖の漁師であったことは有名な話です。しかし、彼らは、ただ漁師をしていただけではなく、預言者ヨハネの弟子でもあったわけです。それでユダヤに来ていて、最初のイエス様との出会いを果たしたのですね。
そこに、同じベトサイダ出身のフィリポが現れるというのは、偶然にしては出来すぎのような気がします。もしかしたらフィリポは、アンデレとペトロと知り合いで、イエス様についての情報を得ていた。それで、自分もイエス様に一目お会いしようとしてやってきたのかもしれません。あるいは、アンデレとペトロが、知り合いであるフィリポを紹介しようとして、イエス様を連れて行ったということも考えられるかもしれません。いずれにせよ、イエス様はフィリポに出会って、「私に従ってきなさい」とお招きになったのでした。
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さて、弟子となったフィリポは、アンデレと同じような喜びに溢れました。メシアに出会った喜びを、愛する友に伝えたいと思うのです。それでフィリポは、ナタナエルのもとに行きました。ここには書いてありませんが、ナタナエルもガリラヤ出身で、しかもイエス様の一行が目指しているカナの出身でありました(21:2)。
その時、ナタナエルは無花果の木の下に座っていたといいます。何をしていたのかはよく分かりませんけれども、祈ったり、黙想をしていたのかもしれません。そこに興奮気味のフィリポが来て、「おい、ナタナエル、私たちはモーセが律法にしるし、預言者たちも書いているメシアに出会ったぞ。それはナザレの人で、ヨセフの子イエス様だ」と話したのでした。
しかし、ナタナエルという人はなかなか気むずかしい人だったようです。フィリポのいうことをすぐには信じようとはせず、「ナザレからメシアが出るなんてきいたことはない」と、フィリポに反論します。確かに聖書にはそんなことは書いてないのですが、実はイエス様はユダヤのベツレヘムでお生まれになっています。それを知っていれば、ナタナエルも預言者の言っているとおりのお生まれであることがわかったでしょう。けれども、ナタナエルもそんなことは知らないし、おそらくフィリポも知りませんでした。
これもまた私の想像ですが、ナタナエルは無花果の木の下から一方も動かず、ああでもない、こうでもないともっといろいろ理屈をこねてフィリポに困らせたんじゃなかいでしょうか。これ以上議論なんかしていても仕方がないと思ったフィリポは、「とにかく来て、自分の目で見てごらん」と言って、半ば無理矢理にナタナエルをイエス様のところに連れて行ったのでした。ナタナエルの方は、「そんなに言うなら俺様がイエスという男の化けの皮をはがしてやる」というぐらいの気持ちで、疑いのまなざしを向けて、イエス様のところに行ったのではないでしょうか。
ところが、イエス様はそんな彼をみて弟子達に、「ごらん。あれこそまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言って、彼を喜んで迎えようとしたと書いてあります。そして、ナタナエルに会うと、「わたしはあなたが無花果の木の下にいるのを見ましたよ」と、話しかけられました。
見ているはずのないものをイエス様は「見た」と仰り、それが当たっていたのです。こういうのを世間では千里眼といのですが、ナタナエルはその不思議な力に驚いたばかりではなく、自分のことをとても恥ずかしく思ったのだと思います。というのは、イエス様が自分のことを何もかも見通しておられるのに、ナタナエルはイエス様について何も知らないで、イエス様について「ああでもない、こうでもない」とフィリポに理屈をこねていたからです。「イエスの化けの皮をはがしてやる」とさえ息巻いていたナタナエルは、イエス様の深いまなざしに神への畏れを抱きつつ、「あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白しました。
イエス様は、ナタナエルに満足されて、「あなたは今よりももっと偉大なものを見るようになるだろう」と言って、ナタナエルを弟子の仲間に加えたのでした。
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さて、こうしてヨハネ、アンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルという五人が、イエス様の弟子になったわけですが、今日は一つのことに注目したいと思います。それは五人それぞれの導かれ方ということです。
最初のアンデレとゼベダイの子ヨハネは、自発的にイエス様についていったのでした。預言者ヨハネは二人に「見よ、神の小羊」と言っただけで、「後をついていきなさい」と命令したわけでも、勧めたわけでもありません。イエス様も二人を招かれませんでした。
しかし、この二人は心の中に湧き上がってくるイエス様に対する期待感や好奇心、そして何よりも強い求道心に従って、イエス様のあとをついていったのです。こういうことは誰にでも出来ることではありません。自分の内なる促しに従うということは、ある意味でたいへん勇気のいることなのです。
今教会にいらっしゃる方々の中にも、この二人のように勇気をもって教会の門をくぐってきた方があることと思います。それは本当に素晴らしいことだと思います。
しかし、このような二人にしましても、実は自分の勇気だけではどうにもなりませんでした。イエス様が彼らに振り向き、「何が求めか」と聞いてくださったわけです。それでやっと二人は「先生、どこにお泊まりですか」と質問することができたのです。それに対して「では、一緒に来なさい」と、イエス様が主導権をとって二人を招いてくださったのでした。
イエス様はご自分の泊まっておられるところに二人を招待し、一晩じっくりと彼らの話を聞いたり、み教えを説いてくださいました。イエス様が、二人の求道心や勇気に対して、優しさと暖かさをもって答えてくださっている。そのことを見落とすことはできないのです。
次にペトロですけれども、ペトロはアンデレに誘われてイエス様のところに来ました。自分からイエス様を見いだして、ついていこうとしたのではありません。「ぜひ、会ってみないか」と誘われるままにイエス様のところに行き、そしてそこで素晴らしい出会いを果たしたのです。ペトロの場合、アンデレの招きに応じてイエス様のところにいった素直さということが、一つの特徴になっているのではないかと思います。
素直さというのは、たいへん素晴らしい賜物です。信じるというのは、言い方を変えれば素直な人間になるということなのです。神様に対して素直になる、イエス様に対して素直になる、約束や教えに対して素直になる、これが信仰なのです。
ですから、頑固な人間、疑り深い人間、不信感に満ちた人間というのは、この点においてたいへん苦労します。ナタナエルという人は、まさにそういう苦労をするタイプの人でした。しかし、彼については後でお話ししましょう。今はペトロの話です。ペトロはその点、はじめから素直さをもった人間でした。それがここでは幸いしていると言ってもよいでありましょう。
実は、私も両親がクリスチャンでありましたので、両親の手にひかれて幼い頃から教会に通っておりました。幼い頃は疑問もなく、まったく素直についていったのです。しかし、その経験から申しますと、素直さというのは、確かに最初はいいんです。ところが人の言うことを素直に聞いているだけでは、どうしても本当の確信にいたらないということがあります。
素直さというのは、別の言い方をすれば単純さです。ただ単純なだけでは深さが持てないんです。深さという点では、むしろ疑ったり、迷ったり、そういう紆余曲折を経た結果、素直に人間にされたという人の方がずっと深いんですね。
私も、こういう自分の浅さというものに、気がつかされる時がありました。今まで言われるままに信じていたけれども、本当にこれでいいのだろうかと自分に自信がなくなってしまう経験をしたのです。そういうところをイエス様の恵み深い、忍耐強い導きを戴きながら通りぬけて、やっと信仰の深みというものに到達することができるようになるのです。
ペトロも後で、そういう思いをすることになるのです。信仰を持ち続けられたのは、自分の素直さ、単純さによるものではなく、イエス様の忍耐強い愛によってだったんだということを痛いほど知るんですね。
さて、その次はフィリポですが、彼はまたこれらの人とは違う導かれ方をしました。つまり、イエス様が直接、フィリポに声をかけられて、「わたしについてきなさい」と招かれたというんですね。これはまた本当に素晴らしい導かれ方だと思います。
しかし、考えようによっては、ここにはフィリポ自身の意志とか考えということがないということになります。そういうものを超越して、イエス様がフィリポを強くお招きになったということであります。
たとえば全然違う話のようでありますが、聖書にキレネ人シモンという人が出てきます。この人は、イエス様が十字架をかついでゴルゴダの丘に歩いていくときにたまたま居合わせた人ですが、力つきたイエス様に代わって無理矢理十字架を担がされた人です。イエス様は「誰でも自分の十字架を背負って私について来なさい」と言われましたが、シモンはそんなことまったくしたくないのに、訳も分からぬまま無理矢理そうさせられてしまったのでした。
シモンは、自分にこんなことをさせるキリストを呪わしく思ったかもしれません。ところが、このシモンは後にクリスチャンになります。そして、アンティオキア教会で、バルナバやパウロと一緒に働くキリストの僕として、使徒言行録に名前が記されているのです(使徒13:1
「ニゲルと呼ばれるシメオン」)。
フィリポの場合はこれほど極端なことではなかったと思いますが、イエス様に「わたしについてきなさい」と言われるということは、自分の内なる求めによってではなく、自分の外からの力によって従わせられるということですから、本質的には同じなのです。
みなさんの中にも、そういう経験を通して教会にいらした方があると思うのです。自分の願わなかったような苦しみや悲しみや悩みというものを無理矢理背負わされて、イエス様に導かれる、教会の門をくぐるといことです。そういう招きを通して、最終的にイエス様に出会い、大きな喜びと慰めを得たという人がきっといらっしゃることと思います。
最後に、ナタナエルです。先ほどもちょっと申しましたが、彼はフィリポに誘われてイエス様に出会ったのですが、素直で単純なペトロと違いまして理屈っぽく、疑り深い性格の持ち主でありました。フィリポに「ともかく、自分の目で確かめてみたら」と説得されて、しぶしぶとイエス様のところに来たのです。決して信仰を求めてきたわけではないし、イエス様に何か期待していたわけでもありません。フィリポに対する義理でつきあっただけだったと言っても過言ではありません。しかし、そのようなナタナエルもス様に一度お会いすると、イエス様に良い意味でとらえられてしまったわけです。
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このように弟子になるにはいろいろな道があることが分かるのです。それはその人の持っている賜物や境遇によってみんな違ってくるのではないでしょうか。
しかし、どんな場合でも、一つ言えることは、最後にはイエス様が主導権を握っておられるということです。自発的についていった人であれ、誘われた人であれ、疑ってかかっていた人であれ、結局は、イエス様の選びと招きというものがあって、イエス様との出会いを果たすのです。
イエス様は、ある時弟子達にこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」と。イエス様と出会った人は、どんな道を通ってきた人であれ、このみことばに心からアーメンといえる経験をもっておられるのではないでしょうか。
イエス様に主導権があるということは、自分の持っているもの、もっていないものに関わらず、イエス様が出会おうとしてくださるならばどんなことをしてでも、私たちに出会いを与えてくださる、だからどんな人にもイエス様と出会うことができるということでもあります。
今日、改めて私たちを恵みのうちに招いてくださったイエス様の招きに感謝したいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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