荒れ野の誘惑(3)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書4章1-12節
旧約聖書 申命記6章1-15節
あなたは神になる必要はない
 今回も「荒れ野の誘惑」のお話しです。イエス様は、世にお出になる前に荒れ野で四十日四十夜の断食をなさいました。すると悪魔がイエス様の前に現れまして、三つの誘惑をするのです。

 一つは、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」という誘惑です。これに対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とお答えになって、誘惑を退けられました。

 すると、悪魔はイエス様に一つの幻覚を見せます。イエス様は、聖なる都エルサレムの神殿の屋根の端っこに立たされていました。すると悪魔がこうささやくのです。「神の子なら、ここから飛び降りてご覧なさい。神があなたを愛しているなら、天使たちがあなたを受け止めてくれるはずじゃないか。」イエス様は、「主なる神を試してはならない」というお言葉をもって、この誘惑を退けました。

 この二つの誘惑には、一つの共通点があります。それは「神の子なら・・・」という悪魔のささやきです。たしかにイエス様は神の子でいらっしゃいます。しかし、それは悪魔の言う意味での神の子とは違うのです。悪魔は、イエス様は、「神の子なら、石をパンに変えたり、神殿から飛び降りたりして、人間と違うところを見せてみろ」と言いました。つまり、神と共に天の御座に座しておられる神の子はこうあるべきじゃないかと、悪魔は言うわけです。

 しかし、イエス様は、そうではない「子」のあり方をお示しになりました。それは神様を「父」と呼んで、その愛に全幅の信頼を寄せる「子」のあり方です。「わたしは神様に命じるのではなく、神の言葉を聞いて生きる」「わたしは神の愛を試みないで信頼をする」と、イエス様は仰ったのです。

 実は、イエス様がお示しになったのは、神様に愛され、祝福される「まことの人間」としてのあり方でもあります。このことについては前回も、また前々回もお話ししてきたことですから、今日は一つのことだけを確認するにとどめておきたいと思います。それは、私たちが神様の子供らになるためには、神のように立派な人間にならなくてはいけないということではないということなのです。

 むしろ、私たちは人間に過ぎない者として、神様の前に遜った人間になる必要があります。イエス様はそのことをお示しになるために、天の御座を降り、人間に過ぎない者となられたのでした。そして人間の友となり、自らまことの人間の道をお示しになりました。さらにまた、ご自分の命を生け贄とすることで、人々がそこに立ち帰るために必要な神の赦しを人々に与えようとされたわけです。

 それに対して悪魔は、そんな余計なことをしてくれるなと言って、イエス様を人間の座から天の御座に追い返そうとした。これが荒れ野の誘惑の真相なのです。
悪魔の祝福と神の祝福
 さて、今日は悪魔の三つの目の誘惑の話です。悪魔は最初の二つの誘惑に失敗しまして、イエス様がどうしても人間の友となって、人間を救おうとしているのだということは、いかんともしがたいことだと観念するのです。しかし、まだ諦めない悪魔は、今度はイエス様を高い山の上に連れて行きました。そこはこの世のすべての国々とその繁栄ぶりを余すことなく見渡すことができる場所です。すると、悪魔はイエス様にこう言ったのです。「そんなにあなたがこの世界を愛するというならば、仕方がない。もし、わたしを拝むなら、これをみんなあなたに与えよう。」

 これは非常に魅力的な誘惑です。先ほど私は、神様に祝福される神の子となるならめにはどうしたらいいかとお話しをしました。そのためには「神のようになる」という悪魔の誘惑を退けて、神様に遜った人間にならなくてはいけないと言ったのです。

 まさにその通りなのですが、実はここにも悪魔の付け入る隙があるのです。つまり悪魔は、このように誘惑するわけです。「そんなに祝福が欲しいのならば、神様の代わりに私がそれを与えよう。お金もあげよう。地位もあげよう。健康もあげよう。平和な生活も保障しよう。あなたの夢をかなえてあげよう。何でもあなたの欲しいものは、わたしが与えよう。それなら、もう神様なんて信じなくてもいいじゃないか」というわけです。

 みなさんだったら、この悪魔の誘惑になんと答えましょうか。悪魔に魂を売り渡すならば、お金も、地位も、権力も、健康も、この世にあるものは、みんな自分のものになるというのです。悪魔に魂を売り渡すというのは、確かに気が引けることです。しかし何かも自分のものになるとしたら、そんなことどうでもいいという考えも成り立つのではないでしょうか。だいたい一般的な印象として、神様というのはこんなに気前よくありません。悪魔の方がずっと気前がよさそうではありませんか。

 こんな話があります。ある婦人が夢をみました。繁華街を歩いていると、新着ブランド物が展示してある洒落たショーウィンドがあって、誘われるようにそのお店に入っていくのです。すると、驚いたことにカウンターの向こうに神様がいました。彼女は「ここで何を売っていらっしゃるのですか」と、神様に聞きました。「あなたがお望みのものなら、何でもございます」と、神様は婦人に答えました。

 婦人は、思い切って人間が望みうる最高のものを求めようと決めました。「それでは、心の平和、愛、幸せ、恐れにとらわれない心をくださいな」と言います。それから、ちょっと考えてこうも付け足しました。「私自身のためではなく、地上の万人のためにね」
 すると神様はほほえんでこう言われたというのです。「奥さん、思い違いをしていらっしゃいますね。ここではそうした実りは売っていません。あるのは"種"だけです」

 これは看板だけで何もしてくれない神様を皮肉った話ではありません。確かに神様は祝福の"実り"をポンと与えてくれるようなお方ではありません。しかし、その内に大きな希望を秘めた"種"を与えてくださるのです。私たちは土を耕し、種を蒔き、水をやり、雑草をとり、実りの時を忍耐強く待ち望む必要があります。しかし、「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩編126編5-6節)、これが神様の祝福なのです。

 しかし、その祝福を知る前に、神様にしびれをきらせてしまうこともあります。神様はお祈りを聞いてくださらないのではないか。教会に行っても何もいいことがないじゃないか。そう思っているときに、そこに悪魔が来て、「もし、ひれ伏して拝むなら、あなたの望むものはみんな与えよう」と言ったら、どうするでしょうか。自分を幸せにしてくれるなら、何も神様に固執しなくても、悪魔だっていいんじゃないかということになるのではないでしょうか。

 イエス様にしても同じです。イエス様がこれから歩もうとされる道は苦難の道、十字架の道でありました。しかし、悪魔は、そんなことをしなくても私を拝みさえすれば、国々も、人々も、すべてをあなたに与えようと言われるわけです。 
信仰は手段ではなく目的である
 しかし、イエス様は悪魔に膝をかがめることを断固として拒絶なさいました。「退け。サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、悪魔の誘惑をはねのけたのであります。「書いてある」というのは、今日お読みしました申命記6章13節に書いてあるということです。どういう風に書いてあったでしょうか。申命記6章10-14節をもう一度読んでみましょう。

「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」

 イスラエルの人々は、神様が自分たちを乳と蜜の流れる地に導いてくださると信じて、信仰をしてまいりました。それはそれで何の問題もないことなのですが、では神様がそれをくださったら、もう神様を信仰をしなくてもいいかといったら、決してそうではありません。「何かのために」ではなく、神様を信仰する自体が大事なことなのです。

 だから、モーセはこういうのです。「あなたがたが大きな美しい町々に住み、財産を持つようになり、ぶどう畑やオリーブ畑から収穫を得るようになり、食べて満腹するようになり、何もかも満ち足りたとしても、あなたの神、主を畏れ、主のみ仕えるということを忘れてはいけません」。

 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というのは、祝福をいただくための手段ではなく、それ自体が目的なのです。もし、手段であったならば、他の手段があるかもしれません。たとえば、悪魔は「もし、わたしを礼拝するならば、これらのものをすべて与えよう」と言ったのです。それが本当かどうかは別にしても、そういう誘惑にひっかかる可能性は十分にありえます。神を礼拝しようが、悪魔を礼拝しようが、ようするに目的のものが手に入ればよいと考えてしまうからです。しかし、イエス様にとって、神様を礼拝することは手段ではなく、目的だったのです。それ以外のことは考えられなかったのです。

 みなさんも、この点をよくお気をつけ戴きたいと思うのです。より良き人生とか、平和な生活とか、問題の解決とか、神様への信仰を人生の手段だと考えますと、神様が期待通りに動いてくれないことに失望したり、自分を愛されていないんじゃないかと疑い惑ったりするようになってしまいます。そして、最後には、まったく信仰生活を離れてしまうか、あるいは表面的には信仰生活を続けながらも、それにはまったく喜びが感じられないということになってしまうのです。

 しかし、そうではなく、神様ご自身を本当に喜ばしい方として信じ、何を得ようと何を得まいと神様ご自身を喜び、神様との交わりを目的とする信仰を持つ人は、どんなことがあってもその喜びを失うことはないのです。

 こんな話があります。アイルランドの高い山に一人の隠遁者が生活していました。その地方の領主は彼を尊敬しておりましたので、ある日、高価な器を贈り物として届けさせました。それを渡して帰ってきた家来に聞くと、「ひとこと『感謝』といっておりました」と答えました。領主は、あんな高価なものを贈ったのに「たったそれだけの挨拶とは無礼者!」と怒って、器を取り戻してくるように命じます。そして、器を取り返してきた家来に再び隠遁者の反応を聞くと、やはり「ひとこと『感謝』といっておりました」と答えたのです。領主はびっくりして、素晴らしい贈り物を受け取ったときも感謝、奪われた時も感謝、これぞまさに聖人であると言って、もう一度器を届けさせたという話です。

 もし、私たちが神様ご自身を喜びとして持つことができるならば、与えられても感謝、奪われても感謝、何が起こっても、いつでも感謝と言えるようになるのです。これが私たちの人生の目的であり、神様を信じる者の揺るぎない平安という祝福なのです。
真理はあなたを自由にする
(聖画)
 さて、イエス様が、三つの誘惑をすべて退けられると、悪魔はイエス様から離れ去っていきました。そして、天使たちが来てイエスに仕えたと言われています。ひとまず、イエス様は悪魔に勝利なさったということがいえましょう。しかし、実は、悪魔は完全に離れ去ったのではなく、このあとも執拗にイエス様を誘惑する機会を窺っているのです。そのことについては、別の機会にお話しをする時がくると思います。

 今日は、最後にこの荒れ野の誘惑のまとめとしまして、「見えない世界」との関わりということをお話ししておきたいと思います。悪魔は、イエス様を高い山に登らせて、この世の国々やその繁栄ぶりを見せたとあります。それは「見える世界」のことであります。しかし、その「見える世界」というのは、見える世界だけで成り立っているのではなく、その背後に「見えない世界」というものがあるのです。悪魔との戦いというのは「見えない世界」でのことです。神の愛も、天使たちの奉仕も、人の心も、見えない世界の話なのです。

 しかし、それは目に見えないから現実ではないということではありません。現実に、誰でもみなこの目に見えない世界との関わりをもって生活をしているのではないでしょうか。たとえば、誕生日に子どもたちが絵や手紙を書いてプレゼントしてくれることがあります。そのプレゼントの価値というのは、幾らと値段で言えるものではありません。しかし、私にとってはどんな高価な贈り物よりも価値あるものに思えたりするのです。それは子どもたちの愛や気持ちという目に見えない世界にあるものが、目に見える汚い字で、幼稚な絵と文章が書かれているだけの贈り物に大きな価値を与えているからだと言えるわけです。

 人間というのは目に見えない世界においてこそ豊かさや喜び、そして希望を持っている者にならなくてはならないと、私は思います。そうすることによって、目に見える世界の出来事にいろいろな意味や価値、感謝や喜びを見つけることができるようになるからなのです。この世には辛いことや、悲しいことがあります。しかし、見えない世界において私たちが神様の愛を信じ、揺るぎない希望をもっていれば、その苦しみにもまた希望に基づいた意味あることとして受け止められるようになるのです。

 悪魔の誘惑というのは、このような見えない世界における戦いのことです。悪魔は、私たちを騙し、見えない世界における神様の愛の現実を疑わせようとしているわけです。そうすることによって、私たちの見える世界が希望のない、はかないものに見えてきてしまうことになります。

 しかし、みなさん、イエス様は「人は神の御言葉によって生きる」と教えてくださいました。また「主なる神を試みてはならない」とも教えてくださいました。さらに「あなたの神である主を拝み、ただあなたの主に仕えよ」とも教えてくださったのです。神の御言葉によって、私たちは神様の愛を信じ、神様が私たちの世界の主であり、人生の主であるということを、揺るぎない心をもって信じる者になりたいと願います。

 そうするときに、私たちは、この見える世界で起こる様々な出来事、それは苦しみであろうと、悩みであろうと、悲しみであろうと、すべてのことが一転して意味のある、価値のあることに見えてきます。そして、どんなことに動かされることのないしっかりとした人間になるのです。みなさん、神を信じましょう。

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