荒れ野の誘惑(2)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書4章1-12節
旧約聖書 詩編1編1-6節
断食について
(聖画)
 前回に引き続いて「荒れ野の誘惑」のお話です。

 イエス様は、預言者ヨハネから洗礼をお受けになった後、そのまま荒れ野の中に入りまして、四十日四十夜の断食をなさいました。
 
 断食というのは、祈りというよりも苦行と言った方がよいと思います。実は、私も断食をしたことがあるのです。どうして断食をしたかと言いますと、聖書にこういう話があったからです。

 ある父親が悪霊に苦しめられている子供をお弟子さんの所につれてきました。ところが、お弟子さんたちが一生懸命にお祈りをしても、その息子はぜんぜんよくなりませんでした。それで、その子供はイエス様のもとに連れて行かれ、イエス様によって無事に癒されたのでした。ところが、お弟子さんたちはどうして自分たちの祈りが聞かれなかったのかと、納得がいきません。それで、人々がいなくなった後、こっそりとイエス様に尋ねたというのです。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」 するとイエス様は、「それはあなたがたの信仰が薄いからだ。この種のものは、祈りと断食によらなければ出ていかない」と教えてくださったと、聖書に書いてあったのです。

 祈りだけではなく、断食が必要である。この言葉に、私は動かされたのです。その時、私も自分の悪い心を清めたいという切なる願いをもって一生懸命に祈っていました。ところが、祈っても、祈っても、悪い心に勝つことができません。それでだいぶ落ち込んでいたのですが、そこに、「この種のものは断食が必要である」というイエス様のお言葉が与えられました。なるほど断食をして祈れば、今まで以上に神様に近づいもっと力強い祈りができるんじゃないかと、そういう希望のようなものがわいてくるのを覚えたのです。

 それで「よし、断食をして祈ってみよう」と思い立ちまして、約一週間ぐらい断食をしました。ところが実際に断食をしてみますと、お腹が空いてまったく祈れないんですね。祈っているうちに、「ああ、もう断食を止めて食べちゃおうか、それとももう少し辛抱しようか」と、食べ物事ばっかり考えるようになってしまったわけです。力強い祈りどころじゃない、本当に情けない断食になってしまったわけです。

 実は今日の聖書を見ますと、イエス様も断食をするとやはり「空腹を覚えられた」と書いてあるのです。そして、最初の誘惑はやっぱり、「そんなお腹が空いているなら食べたらいいじゃないか」という食べ物の誘惑だったのでした。一方、イエス様が「祈った」ということはどこに書いてありません。ただ悪魔の誘惑を受けたということだけが書いてあるのです。ですから、イエス様もこの断食では力強い祈りどころじゃなくて、昼も、夜も、空腹に悩みつつ、誘惑と戦い続けた四十日四十夜であった、そういう風にも読めるのではないでしょうか。

 ともかく、私は断食をしまして、断食をすれば神様に近づけるというのはどうも違うらしいということだけは分かったのです。繰り返しますが、断食というのは祈りではなくて苦行なんです。祈りというのは、天を仰ぎ、神様に近づこうとすることです。しかし、苦行は違います。低い地べたにへばりついて生きている自分の姿を徹底的に思い知ることです。また、祈りというのは神様の声を聞こうとすることですが、苦行というのは誘惑のただ中に身を置き、悪魔の声が拡声器を通して聞こえてくる、敢えてそういう悪魔の声に聞してくことなのです。

 そのように悪魔と真っ正面から向き合って、それに打ち勝った時に、やっと悪魔から自由になって、今まで以上に神様に近づいて祈れるようになる。それが苦行の意味でありましょう。

 今日の教会は、一部の人々を除いて、こういう断食や苦行を積極的に奨励するということはありません。私も、そんな苦行なんかしないで、ただお祈りだけしていればいいじゃないかと思います。しかし今申しましたように、イエス様は、「悪魔との戦いには断食が必要である」と教えておられるのも事実なのです。

 その意味は、断食をすると悪魔が見えてくる。そして自分を必死に神様から遠ざけようとしている悪魔の誘惑、悪巧みに気づき、その本質が何であるかということがはっきりと見えてくるのです。今までは、そういう悪魔に自分が捕らわれているということに気づかなかった人が、断食とか苦行をすることによっt、それがはっきりと分かってくるのです。こうして悪魔の力や罠を知ってこそ、悪魔に打ち勝つ道、神様に近づく勝利する道が見えてくるのだと、それがイエス様の仰りたいことだったのではないでしょうか。
御霊が!
 4章1節を読みますと、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。わざわざ悪魔の誘惑を受けるために荒れ野に行かれたというわけです。しかも、「"霊"に導かれて」とあります。これは聖霊に導かれてということでありまして、神様の意志がイエス様を悪魔のところに赴かせたのだということなのです。

 「霊の導き」などと言いますと、どんな良いところに連れて行ってくれるのだろうかと期待してしまうのですが、それは悪魔が住むような荒れ野だったというわけです。『マルコによる福音書』では「霊はイエスを荒れ野に送り出した」と表現しています。『ルカによる福音書』ではもっと乱暴な言い方になっていまして、「荒れ野の中を霊によって引き回され」と書いてあります。どうしても、イエス様は悪魔の誘惑を受ける必要があったわけです。

 こうしてみますと、悪魔の誘惑は、イエス様が受けなければならないもう一つの洗礼だったのかもしれません。この洗礼を受けて、悪魔の誘惑に打ち勝つことによって、イエス様は神様の愛される人間、神様の御心にかなう人間、まことの人間になられるのであります。
悪魔との戦い
 さて、悪魔はイエス様に三つの誘惑をいたしました。その悪魔の目的については、実は前回お話しをしました。

 イエス様は「まことの神」であられたのですが、その尊いお立場を棄てて、「まことの人間」となろうとされました。それは私たち罪人らの隣人となり、友となって、私たちと一緒に歩みつつ、神様のもとに導かれるためでした。

 しかし、これが悪魔にとってはたいへん都合の悪いことだったのです。悪魔は、これまで一生懸命に人間をだまして、人間の友になろうとしてきました。悪魔にしてみれば、神様は神様らしく人間から遠く離れた天の高みに鎮座してくださっていた方が都合がいいのです。ところが、神様が人間のところに来て、人間の友となろうとされているのですから、悪魔は「余計なことをしてくれるな」という思うのです。

 それで悪魔は、「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、神殿から飛び降りて、天使に受け止めてもらえるところを見せてくれ」と、イエス様に語りかけてきます。「あなたは神の子なんだろう。神の子らしい立派なところを見せてくれ」というわけです。

 その悪魔の言葉の真意がどこにあるかというと、神様は神様らしくしていて欲しい、人間の友になんかなろうとしないでほしい、ということです。乱暴な言い方をすれば、「お前なんか引っ込んでいろ」ということです。そのために、悪魔もここで必死になって、イエス様を誘惑しているのです。

 それに対して、イエス様は、「いや、私は石に命じたりはしない」「神殿から飛び降りもしない」と悪魔の誘惑を拒絶されたのでした。それは、イエス様が神様としてではなく、神様の前に遜ったまことの人間として、そして人間の友として生きようとされる決意のお言葉だったのです。
まことの人間
 しかし、この誘惑物語は、ただ単に悪魔とイエス様だけの問題でしょうか。さきほど、悪魔は人間を一生懸命に欺いて、人間の友になりすましてきたと申しました。逆に言うと、人間の方も悪魔をずっと友達だと思い続けてしまっているのです。

 もちろん、人間だって悪魔の恐い姿を見たら、逃げ出すに決まっています。しかし、悪魔というのは時に天使の姿をして、時に親しい友のように懇ろに語りかけてくれるものです。ですから、私たちは、悪魔を悪魔だと思わず、親しい友だと思いこんでしまうということが起こってくるわけです。

 みなさんは、どちらでしょうか。それが分かるのが、今日の誘惑物語であるとも思います。たとえば、悪魔は「石がパンになったら、あるいはお金になったら、あなたは救われるじゃないか」と言います。それに対して、イエス様は「人は、パンだけでいきるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ」と反論されました。

 しかし、世の中には、イエス様の言葉に共感するようりも、悪魔の言葉に共感する人たちがいっぱいるのです。「そうだ、悪魔の言うとおりだ。神の言葉が聞いても、何の腹の足しにもならない。断食や祈りも結構だが、現実問題が解決しないければ意味がないじゃないか」という人たちです。こういう人たちは、すでに悪魔にだまされて、悪魔の友達になってしまっていると言ってよいと思います。

 しかし、そこのところを、「そうじゃないんだ。イエス様こそ、私たちの友なのだ。今まで自分は悪魔に騙されていたのだ」と、心の目を覚まさなくてはなりません。そういう意味で、この誘惑物語は、イエス様が私たちの先陣を切って、悪魔と戦い、悪魔の正体を暴露し、私たちが、神の友となる本当の人間の生き方というものを指し示してくださっている物語だとも言えるのではないでしょうか。

 この誘惑物語を読んで、イエス様の言葉に、心からアーメンと言える人間になる。その時、私たちは悪魔の友ではなく、神の友となるのです。
錬金術の誘惑
 今日は、そういう視点で第1の誘惑と第2の誘惑についてお話しをしたいと思います。第3の誘惑については、次改めてお話しをしたいと思います。

 先ほども申しましたように、断食をして先ず最初に来る誘惑は、食べ物の誘惑なのです。ここでもそうです。悪魔は、空腹になられたイエス様に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑するのでした。

 この誘惑について、ある人が、悪魔は絶対にこんな誘惑を人間にしたりはしないと言っていました。というのは、石をパンに変えるなんていうのは人間には絶対にできないことだから、こんなのは誘惑にならないというのです。

 けれども、そうでしょうか。人間は錬金術に夢中になったり、不老不死の霊薬を追い求めたりしてきました。現代もまったく同じです。先日、クローン人間の研究を禁止する法律を作るかどうか、ということでアメリカ議会がもめているというニュースをやっていました。ブッシュ大統領は、「人間は創造物であって、人間が生産する商品ではない」と演説をしていましたが、まことにその通りだと、私も思います。人間は、科学の力、技術の力をもってすれば、どんな人間の願いだって叶えられると信じ、平気で神の領域を侵そうとするのです。やがて、「石をパンにかえよう」と研究をはじめる人がでてきても、ちっとも不思議ではありません。

 「石がパンになるように命じてみなさい」という悪魔の誘惑の本質は、「人間の願いというのは、どんな手段をとっても叶える価値があるものなのだ」ということにあるのです。そして、人間はすでにその誘惑にのって、錬金術に夢中になり、不老不死の霊薬を追い求めているのではないでしょうか。しかも、そこに人類の明るい未来があるとさえ思っているのです。

 たしかに、なにもかもすべてが悪いわけではありません。お陰でずいぶん便利な世の中になりましたし、多くの病気が克服されました。しかし、その一方で、人間は悪魔の思うつぼにはまっています。神様を信じなくなり、神様を恐れなくなったのです。

 イエス様は、このような悪魔の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と反論なさったのでした。パンというのは食べ物だけのことを言っているのだと考える必要はありません。人間には食欲だけではなく、肉欲もあれば、富に対する欲もあり、自己実現の願望、出世の願望、死にたくないという願望もあります。そして、このような欲望や願望に決して終わりがないのです。パンというのは、このようにあれが欲しい、これが欲しいと、飽く事なき欲望や願望の虜になっている人間が追い求めているものの象徴だと考えるのがいいのではないでしょうか。

 それに対して、イエス様は、人は自分の願いを満たせば、それで幸せな人間になれるわけではない。神様の口からでる一つ一つの言葉・・・それは時には戒めの言葉であり、時には慰めの言葉でありましょう・・・そういう神様の人間に対する愛と祝福の言葉を聞きながら生きるところに、人間の満ち足りた幸せが訪れるのだと反論されたのです。
神様をテストする誘惑
  次に悪魔は、イエス様を神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。天使があなたが石に打ち付けられる前に受け止めてくれると、聖書にも書いてあるじゃないか」と誘惑をしました。荒れ野から、急に神殿の屋根の上に場所が変わるのですが、これは悪魔が引き起こした幻覚の中での出来事であったかもしれません。

 この第2の誘惑の本質はどこにあるのでしょうか。先ほどのパンが人間の願いということを象徴しているとすれば、神殿というのは宗教を象徴しているのだと思います。悪魔のパンの誘惑を退けて、「人間はパンだけ生きるのではないのだ」ということが分かった人間は、神様の愛と救いを求めるようになります。しかし、そこにも悪魔の誘惑があるというわけです。

 どんな誘惑かといいますと、本当に神様がわたしを愛してくださっているのか、本当に神様をわたしを救い得るのかと、神様に疑いをかけるという誘惑です。

 この誘惑は悪魔にとって非常にたやすいことでありまして、人間が怖がるところに連れて行けば良いのです。たとえば、神殿の屋根の上です。しかし、それだけではありませんでしょう。詳しいことを話す時間はありませんが、旧約聖書のヨブという人物は、悪魔の誘惑によって、財産を失い、子供らを失い、全身が出来物で覆われ、妻に愛想をつかされ、見舞いに来た友人たちからも理解されないというまったく酷い目に遭いました。

 このぐらい酷い目に遭うと、どんなに神様を信じようとする人間だって、「黙って神様の愛を信じます」とは言えないでありましょう。ヨブも、だんだん神様に激しい口調で訴えるようになります。神様は間違っているんじゃないかと言わんばかりになります。しかし、ヨブは最後に神様の愛を受け取りました。それはヨブが、最後に神様の愛を信じたからなのです。たとえ理解しがたくても、計りがたくても、神様は愛であり、正しいお方であるということを信じたからなのです。

 愛というのは、信じなければ絶対に受け取ることはできないものです。みなさんも、自分がどんなに人を愛しても、その人が自分のことを疑っているために愛が通じないという経験をしたことがありませんでしょうか。愛が通じなければ、自分の善意も、助けも、受け取ってもらえないのです。

 『ヤコブの手紙』にはこのように言われています。「いささかも、疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」悪魔は、これを逆手にとって誘惑するわけです。悪魔は、私たちの心に絶えず恐れや不安を送り込みます。そして、神様への信頼を揺るがせ、神様から何も受け取れない人間にしてしまおうとしているのです。

 イエス様は、この悪魔に対して、「あなたの神、主を試してはならない」とお答えになりました。自分を愛してくれるか、助けてくれるか、と神様をテストするようなことはしないということです。神様をテストして、それに合格したら神様を信じるということでは、永遠に信じることができない人間になってしまうことでしょう。なぜなら、神様の愛を受け取る方法は、神様の愛を信じる以外に方法はないからです。しかし、テストするということは疑うからであって、それは神様を愛を求めているようで、実は神様の愛を遠ざけていることになるからです。

 このように、悪魔の言葉とイエス様の言葉はまったく違います。私たちは知らず知らずのうちに悪魔の言葉にだまされていないでしょうか。どうか、悪魔の誘惑を知り、悪魔の罠に目覚める人間となり、イエス様の示したもう道こそ、神の友となるまことの道であることを知る者になりたいと願います。
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