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イエス様はユダヤの荒れ野で預言者ヨハネに出会い、彼から洗礼をお受けになりました。前回はそのお話をしたのですが、今日のお話にもちょっと関係がありますので、復習をしておきたいと思います。
ヨハネが授けていた洗礼というのは、ヨルダン川の中にいっかい人を沈めて、そしてそこから引き上げるという沐浴の儀式です。これによって古い自分に死に、新しい人として生まれ変わるということを意味していたのです。
日本にも、あるいは世界中に、こうした水や川で禊ぎをするという宗教儀式がありますが、そんなことで本当に人間の過去が清められ、新しく生まれ変わることができるのかと言いますと、実はヨハネ自身がこんなことを言っています。「わたしは水で洗礼をさずけているが、これはあなたたちを新しく生まれ変わらせる洗礼ではない。この洗礼は準備のための洗礼なのだ」と。
では、準備ではなく、本当に私たちを新しく生まれ変わらせてくださる洗礼はどこにあるかと申しますと、ヨハネは、「私の後に来る方が、水ではなく、聖霊と火によってあなたたちに洗礼を授け、神の愛と力であなたたちを新しい人間にしてくださるだろう」と言っていたのでした。
こうしてヨハネが人々に洗礼を授けているところに、イエス様がいらっしゃいました。イエス様を見て、ヨハネは「ああ、この方こそまことの洗礼を私たちに与えてくださるお方だ」と直観します。しかし、イエス様は、ヨハネの期待するようにまことの洗礼を人々に授けるためにやってきたのではなく、自らヨハネの洗礼を受けようとしてやってこられたのでした。
ヨハネは驚いてイエス様に尋ねます。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところにこられたのですか。」 するとイエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことである」と、強いてヨハネに洗礼を授けてくれるようにお求めになりました。それで、ヨハネはお言葉通りにイエス様に洗礼を授けたというのです。
まことの洗礼を授ける方であるはずのイエス様が、どうして洗礼をお受けになったのか。このことについて前回お話しをしたのですが、一言で言うならば、イエス様は神様の側から、人間の側に来てくださったということなのです。神様の憐れみを求め、新しい人間に生まれ変わろうとする人々と同じ立場にたち、同じ方向を見つめ、その先頭に立って導いてくださるのが、イエス様なのです。 |
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さて今日はその後の話ですが、イエス様が洗礼を受けてヨルダン川からあがられると、天が開き、そこから鳩が舞い降りるように、聖霊がイエス様をめがけて降ってきました。同時に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえてきたのです。これは非常に大切なことをイエス様について語っています。天の神様が私たちにみんなに対して、イエス様を「これは私の愛する子だ」と紹介してくださったということなのです。
イエス様が神様の愛する御子であるということは、私たちのイエス様に対する信仰の最も大切なところにあることの一つです。しかし、なぜイエス様が神様の御子なのでしょうか。イエス様が神様に等しいお方、神様に近いお方だからでしょうか。もしそういうことだったら、イエス様がせっかく人間の立場に身を置かれて罪人と共に洗礼を受けてくださったのに、その直後に、神様が「これはわたしの愛する子だ」と、再び神様の側に引き寄せてしまわれたことになるんじゃないでしょうか。
たしかに、イエス様が神様である、神様と等しいお方であるという信仰も私たちのうちにあります。しかし、その場合は「神の御子」というよりも「子なる神」という呼び方がふさわしいのです。そして「神の御子」と「子なる神」とどちらが格が上かといったら、やはり「子なる神」ですね。
しかし、「子なる神」であるイエス様が、人間の、しかも神様から遠く離れてしまった人間たちを憐れんで、人間の世にきてくださいました。ヨセフとマリアの子として生まれ、罪人らと一緒に洗礼を受けてくださいました。イエス様は、神なき望みなき罪人たちに、もう一度神様の光を与えようとして、罪人たちの隣人となってくださったのです。その時に、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神様の祝福の声が聞かされたのです。
つまり、神の子というのは、神に等しい者だからではなく、逆に「子なる神」の立場をお捨てになって(これはイエス様が十字架におかかりになり、復活して天にお帰りになったときにもう一度与えられた立場でありますが、この時はそれを完全にお捨てになって)まことの人間になられた、だからイエス様は「子なる神」ではなく、「神の子」としての祝福をお受けになったのです。
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どうして、こんな理屈っぽい話をしなければいけないかと言いますと、これは私たちの救いに深い関係のあることだからちゃんと理解したいのです。
私たちもまた、神様に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われる神の子どもたちになることができます。そのように言いますと、「いいえ、わたしは駄目です」と言う方が本当に多いのです。けれども、それは決して無理なことではないのです。誰でもなれるのです。どんな罪人でもなれます。
ただし、その方法を間違えてはいけないのです。神様に愛され、御心に適う者となるためには、神様のような人間になるのではなく、自分はまったく神ではなく人間であるという遜った心をもったまことの人間にならなくてはらなくてはならないのです。
ところが、そこを勘違いなさっている方が実に多いのです。これは、たいへんな間違いです。私自身もそうですが、今はちゃんと解っている方でも、最初はやっぱりそういう勘違いをしていたという方がほとんどではないでしょうか。実は、それこそが悪魔の誘惑なんですね。
人間というのはもともと神様の子どもでした。聖書には、人間は、神様が御手をもって土をこね、ご自分に似せて形作り、鼻から息を吹き込んで、お造りになったと書いてあります。そして、神様がお造りになった動物も、植物も、すべてを人間の手にお委ねになったとも書いてあります。人間は、他のどんなものに勝る格別なる神様の愛をいただいて造られたのです。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という祝福のうちに、神様に造られたのです。
ところが、そこに蛇の姿をした悪魔が現れ、人間を誘惑し、神様が決して食べてはならないという禁断の木の実を食べさせてしまいました。悪魔はどうやって人間を誘惑をしたかというと、「これを食べると神様のようになれる」と言ったのです。最初はためらっていた最初の人間は、その言葉に心を動かされ、ついに禁断の木の実を食べてしまいました。そして、神様の祝福を失ったのです。
人間は「神様のようになれる」という言葉に弱いんですね。バベルの塔の話もそうじゃないでしょうか。人間は煉瓦やアスファルトを使う技術を取得しました。これは本当に大きな技術革新だったと思いますが、人間はこれで自分たちは神のように素晴らしい力を得たと思いこんでしまった。それで高い高い塔を建てようとしたので、神様はそれを阻止されたという話です。聖書にはこのような話をいくらでも見つけることができます。
しかし、今日の人間について見てみましょう。科学者や技術者が人間には何でもできると思い上がっているとしたら、それは悪魔の罠にかかっているのです。哲学者が、人間の頭の中にこそ最高の知恵があると思いこんでいるならば、やはり悪魔にだまされているのです。宗教家が、自分こそ神だと言いだしたら、それは悪魔にたぶらされているのです。権力者が自分は神だ言い出したら、それは悪魔の権力です。
私たちはどうでしょうか。もし、私たちが人を赦さず裁こうとするなら、それは自分が神の立場に立とうとしているからです。もし、私たちが自分に知恵がないこと、力がないことを嘆いているならば、その裏に何でも解っていなくてはいけない、何でもできなくては駄目な人間だと間違った考えに取り憑かれているからです。
こうして、考えてみますと、なんと多くの人たちが「神のようになれる」という悪魔の言葉にだまされ、取り憑かれて、傲慢になったり、卑下したりして、神様を悲しませていることでありましょうか。
神になろうとすること。神のように正しい人間になろうとすること、あるいは間違えない人間になること。神のようにすべてを知ろうとすること。神のように悪を裁こうとすること。神のように創造者なろうとすること。神のように救済者になろうとすること。そのような高慢を棄ててこそ、人間は人間になるのです。 |
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私たちは人間として造られたのであって、神様になるように造られたわけではありません。しかし、私たちは神様の愛によって生まれ、神様の子供としてつくられました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という祝福の中に造られたのです。決して何でもできる強い者として造られたのではなく、愛され、愛し合う者として造られました。
しかし、自分が神様になろうとすることによって、その祝福を失ったのです。では、その祝福に帰るためにはどうしたら良いのでしょうか。神様になるのではなく、愛される、そして愛することの出来るまことの人間になることが必要なのです。
たとえば、人間の赤ちゃんは、他のどんな動物の赤ちゃんよりも無防備で無力です。しかし、人間の親ほど手をかけ、心をかけて赤ちゃんを育てる親もいません。だから、赤ちゃんが生まれると、まるで赤ちゃん中心に家庭の中がまわったりします。
人間というのは、この赤ちゃんのような存在なのです。自分では何もできません。しかし、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と私たちを祝福し、私たちのために何でもしてくれる愛の神様のいらっしゃる。だから、どんな時でも心強い。安心できる。すやすやと眠れる。思い煩いがない。恐れがない。人間にとって大切なことは、神のように何でもできることなることではなく、神が共にいますということなのです。
それこそがまことの人間となり、神様の子となる知恵であり、唯一の道なのです。 |
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今回は、そのことを荒れ野の誘惑の中から学びたいと思うのです。イエス様は、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という祝福をお受けになった後、荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになりました。
その誘惑は三つありますが、その最初の二つにおいて、「神の子なら・・」と悪魔は語っています。「神の子なら、空腹に我慢なんからするより、石をパンに変えたらどうだ」「神の子なら、飛び降りて神様に受けとめてもらえ」 悪魔は「神の子なら・・・」という言葉を、「神に等しい者なら」という意味で遣っています。しかし、神の子であるという本当の意味はそうではないのです。
ですから、イエス様は、「人はパンだけ生きるのではない。神の言葉を聞いて生きていくのだ」とお答えになりました。また、「人が主なる神を試みてはいけない」ともお答えになりました。悪魔が、「神の子なら、人間とは違うところを見せて見ろ。奇跡を行って見ろ」といったのに対して、「私はまことの人間として、神様のお言葉を信頼し、神様に服従して生きる」とお答えになったのです。
「まことの人間になる」ということが、神様の祝福し賜う神の子になることなのです。イエス様の場合は、まことの神であられたのに神様の立場を棄てて、私たちの立場に立つ者となられました。人間の場合、神でも何でもないのに、まことの神様の前にへりくだることを潔しとせず、神を侮り、自分こそが神様のようなものになろうとしている。また、それが出来ると思いこんでいるわけです。それをやめて、自分は神様ではない。神様に造られた者に過ぎないという普通の人間になることなのです。そうすれば、私たちは神様の子という立場にもう一度立ち帰ることができるわけです。
今日はここまでにしまして、次週は荒れ野の誘惑の話から、まことの人間になるとはどういうことかということを、さらに丁寧に学ぶことにしたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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