イエスの受洗
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書3章13-17節
旧約聖書 イザヤ書42章1-4節
ヨハネから洗礼を受ける
(聖画)
 イエス様は30歳になられると、若き日をお過ごしになったガリラヤのナザレをお発ちになりまして、ユダヤの荒れ野にいかれました。その荒れ野には、預言者ヨハネがいて、人々に神の教えを説いていました。

 ヨハネは、らくだの毛衣を身にまとい、革の帯をしめ、(イナゴと野蜜だけを食べて絶食に近い生活をしていたというのですから)きっとやせ細った体で、髪も髭も伸び放題に伸びて、ただ鋭い目だけがぎろりとしている、そんな姿だったのではないかと想像します。また、彼の説教は火のように熱く、激しく燃えていて、そんな彼の説教を聞いた人々は、みな心の中の思い上がりや、罪や、いろいろなものを焼かれる思いがしたことでありましょう。

 この旧約聖書時代の預言者の再来を思わせるヨハネのうわさは、たちまちユダヤ地方全体にひろがり、大勢の人たちが荒れ野に集まってきたと言います。ヨハネは、その人々に「蝮の子らよ、悔い改めよ!」と激しい口調で呼びかけ、救い主の到来を心を清めて待ち望むことを教えたのです。

 また、ヨハネは悔い改めの証しとして洗礼を受けなさいということを教えました。すると、罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けたいと希望する人たちがぞくぞくと現れたというのです。

 そこにイエス様がやってこられました。そして、ヨルダン川のヨハネのもとに行き、群衆の中に混じって一緒に洗礼を受けようとされたというのが今回のお話しです。
心を新しくする洗礼
 洗礼というのは、今日もクリスチャンになるときに授けられる大事な儀式でありまして、洗礼を受けたかどうかは、その人がクリスチャンであるかどうかという判断にもなるわけです。それは、イエス様が「すべての国民をわたしの弟子とし、洗礼を授けなさい」とお命じになったということに基づいています。

 ところが、洗礼の起源は、イエス様よりも古いのです。聖書には、イエス様が洗礼ということを仰る前に、ヨハネが洗礼を授けていたと書かれていました。では、ヨハネが洗礼を始めたのかと言いますと、それも違いまして、ヨハネよりもずっと前から、ユダヤ教の中に洗礼という儀式があったようなのです。

 ユダヤ教の洗礼というのは、異邦人がユダヤ教に改宗する時に授けられたそうです。普通は、ユダヤ人として生まれたら、割礼の儀式を受けて、必然的にユダヤ教徒となるわけです。ところが、異教徒の中にも聖書を読んで、聖書を神様を信じようという人々がいました。たとえば、使徒言行録などみましても、エチオピアの役人が、イザヤ書を読んでいたという話が出てきます。その頃、ギリシャ語に訳された聖書がありまして、いろいろな国の人が聖書を読めるようになっていたようなのです。そういう人たちが、割礼を受けてユダヤ教に改宗するときには、まず沐浴の儀式、つまり洗礼が行われていたそうであります。

 洗礼というのは、川の中に沈められることによって古い自分に死に、そこから引き上げられることによって新しい人として生まれるということを意味しています。異教徒がユダヤ教に改宗するということは、まさに洗礼によって今までの生き方を棄てて、新しい信仰、新しい価値観をもって新しく生まれ変わるということでありました。

 ところが、預言者ヨハネは、異教徒に向かってではなくユダヤ人たちに向かって、洗礼を受けよと言いました。「自分はユダヤ人だと思って安心するな。ユダヤ人だからといって救われるのではない。悔い改めて、心を新たにし、神の憐れみを求めよ。」と、ユダヤ人こそ心を新たにして洗礼を受けることが必要だと訴えたのです。ここにヨハネの洗礼の新しさと意味があります。
真の洗礼者を待ち望め
 それともう一つ、ヨハネの洗礼に大切な意味がありました。それは、まことの洗礼、つまりまことに人を新しくする洗礼が他にあることを示したということです。

 洗礼というのは、新しく生まれ変わるためにあるのです。人は誰でも、人生の過ちがあり、心に古傷があります。そういうものを全部洗い流して、新しい人間としてやり直せるとしたら、本当に素晴らしいことです。それこそまことの救いではないでしょうか。

 ヨハネは、そのように人の罪も、過去も洗い流して、人を新しい人間として生まれさせるまことの洗礼があるというのです。しかし、ヨハネはたいへん自分をわきまえた人でありまして、それは私が授けている水による洗礼ではないと申します。人間の過去とか、罪というのは、決して水で洗い流せるようなものではないということをよく知っているのであります。

 水による洗礼では、人間は決して新しく生まれ変わることができません。それなら、なぜヨハネは水で洗礼を授けるのか。ヨハネは洗礼を受ける人々に、このように教えました。「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしより後に来る方は、わたしよりも優れておられる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになるだろう」と。

 この中で、ヨハネは、「わたしの洗礼は導きの洗礼である」と言っています。人の罪を洗い、過去を清め、新しい命を与える洗礼は、わたしではなく、わたしの後に来る方があなただたに授けてくださる。だからこそ今、好き勝手な生き方をしながらもなお「自分は大丈夫だ」と、まったく根拠のない安心感のうえに安んじている心を棄てて、心から神様の憐れみを求める者になりなさい、そして、その方を待ち望みなさい。この洗礼は、そのための洗礼であるというのです。
聖霊と火で洗礼を授ける
 ヨハネが「聖霊と火で洗礼を授けてくださる」と言ったのは、わたしたちの主、イエス・キリストのことです。イエス様は、私たちのすべての罪を赦し、すべての過去を清め、新しい命を与え、新しい人間として生まれ変わらせてくださる、本当に素晴らしい救いを私たちに与えてくださるお方なのです。

 皆さんがお受けになった洗礼は、このイエス・キリストの洗礼なのです。そこでは水が象徴的に用いられていますが、決して単なる水の洗礼ではありません。聖霊と火によって、イエス・キリストの洗礼を受けたのです。

 聖霊も、火も、ここではほとんど同じ意味で使われていると言っても良いでしょう。聖霊は私たちを愛し、私たちを新しく生まれさせる神様の愛の霊です。そして火もまた、私たちを罪を焼き、過去を清める、やはり神様の愛の炎なのです。私たちが洗礼式において注がれたのは水ではなく、神様の愛であり、私たちを清めたのも水ではなく神様の燃えるように熱い愛なのです。

 では、それをどのように知ることができるのでしょうか。私の愛読書に、高校生の頃から今にいたるまで何度も読み返した『愛はいずこに』という信仰について書かれた本があります。この本のタイトルが示しているように、私たちが信仰生活をしていくうえには、幾度となく、神様の愛はいったいどこに隠れているのだろうかと思われるような苦い経験や真っ暗闇を経験をするのです。『愛はいずこに』というこの本は、著者自身のそのような様々な経験を通して、どんなに神様の愛が隠れていると思えるような中にあっても、聖書の言葉の通り、神様の愛は私たちの注がれているのだということを、私に教えてくれる本なのです。

 私たちに注がれている素晴らしい神様の愛をどのようにしたら知ることができるのか。どうか、みなさん、神様が愛をもって私たちに教え、導き、約束してくださっているお言葉をすべてあますことなく信じてください。どんな素晴らしい愛も、受け取る側でそれを信頼しなければ受け取ることができません。しかし、信じるならば、私たちはどんなに大きな神様の愛の中に生きているかがきっと分かることでしょう。私たちはイエス・キリストの洗礼によって、どっぷりと沈められました。そして、新しい人間として、神様の愛の中に生まれたのです。
奇妙な逆転現象
 さて、「洗礼をお受けになったイエス様」というお話しです。今のお話は、イエス様こそ、私たちに本当の洗礼を授けてくださるお方であるというお話しでした。しかし、今日の聖書には、イエス様がヨハネから洗礼をお受けになったということが書かれていたのでした。

 洗礼を授ける方が、洗礼をお受けになる。その時、ほとんどの人はその奇妙さに気づきませんでした。その時はまだイエス様について知る者は誰もいませんでしたし、イエス様は洗礼を受けようとする多くの人々の中に自然にとけ込んでおられたからです。

 ヨハネですら、イエス様を知りませんでした。しかし、さすがにヨハネは、イエス様を前にしたときにそのことに気づきます。そして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』と、イエス様が洗礼を受けようとなさるのを思い止まらせようとしたというのです。

 ところが、イエス様は『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』とお答えになって、ヨハネに洗礼を授けてくれるように求めました。そこで、ヨハネはイエス様の言われるとおりに洗礼を授けたというのです。

 なぜ、イエス様は洗礼をお受けになったのでしょうか。イエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになっています。これは、どういう意味なのでしょうか。

 私はこんな風に聞こえてくるのです。「ヨハネよ、私たちの目的は同じです。しかし、これが正しいことをするときの私のやり方なのです。今はあなたが私に洗礼を授けて欲しい」 そして、洗礼を授けるはずのイエス様が、洗礼をお受けになる。この奇妙な逆転こそ、実はイエス様のやり方なのだ、ということではないでしょうか。

 このような逆転現象は、イエス様の生涯のそこかしこに見ることができます。たとえば、東の国からイエス様の誕生をお祝いに来た博士たちは、当然、ヘロデの宮殿にお生まれになったものと思っていました。ところが、実際は、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのでした。「客間には彼らのいる場所がなかったからである」と、聖書は説明しています。

 それから、イエス様が救い主であると悟ったのは、当然真っ先に救われると思われていた聖書学者や祭司たち、そういうユダヤ教の指導者たちではなく、学問のない人、貧しい人、病める人、徴税人や売春婦という蔑まれていた人々、またもっとも救いから遠いとされていた異邦人であったのです。

 そして、もっとも重大な逆転現象は、十字架上で起こりました。罪のない神の子が、罪を裁くことのできる唯一のお方が、犯罪者として裁かれ、ののしられ、十字架にかけられて殺されたのです。これらすべてのことが、正しいことを成就するイエス様のやり方だったのです。

 そして、そのことは遠い昔の預言者イザヤの告げた神の言葉によっても、このように証しされています。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦をおることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものにする」

 イエス様が神様の愛する御子であるならば、大いに主張なさってもよいはずです。そして、信じない人々を御力をもって懲らしめることもおできになったはずなのです。しかし、イエス様は決して大声で「わたしこそは神の御子だ、私に聞き従え」と叫んだり、威張ったりすることはなさいませんでした。神の側におられるお方であるにもかかわらず、あくまでも人間の側に立って、弱い人々、貧しい人々、悲しむ人々と共にあることによって、救いへの道をお示しになったのです。

 それは本当に忍耐強さが必要なことだろうと思うのです。しかし、傷ついた葦をおることなく、ほの暗い灯心を消すことのない忍耐強さをもって、優しさをもって、神様の愛をどんな小さな人々にも伝えていく。これがイエス様のやり方だったのです。

 そのような神様の愛の宣教のはじめに、イエス様が私たちのような罪深く、弱く、貧しい人間の一人として洗礼をお受けになったのは、それがイエス様の愛の方法だったからなのです。
これは私の愛する子
 イエス様がこうして洗礼をお受けになったとき、「天がイエスに向かって開いた」と書いてあります。そして、天から聖霊が降り、「これは私の愛する子。わたしの心に適う者」という声が聞こえたというのです。

 みなさん、天の窓を開いたイエス様が、そして神様から、「わたしの愛する子」と呼ばれるイエス様が、私たちの隣人となってくださっている。何と素晴らしいことでしょうか。私たちは、このお方によって、私たちを本当に新しい人間として生まれ変わらせていただく神様の愛を戴くことができるのです。感謝をいたしましょう。 
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