バプテスマのヨハネの証し
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書3章1-12節
旧約聖書 申命記8章1-10節
ナザレから荒れ野に
 イエス様はナザレという、当時はまったく名も知れない片田舎で、貧しくも神と人に愛されてお育ちになりました。

 ところが、およそ30歳になられた或る日のことです。イエス様は、ご自分が世にいらしたその使命を果たす時が来たとお感じになって、村をお発ちになり、ユダヤの荒れ野に赴かれます。

 そこで預言者ヨハネに出会い、洗礼を受け、さらにまた荒れ野の奥深くにお入りになって四十日四十夜、断食の祈りをなさいました。このようにお働きのためのご準備をなさって、イエス様はようやく世にお出になり、人々に神の国の福音を力強く宣べ伝え始められるのです。

 今回はまず、イエス様が宣教のご準備のために荒れ野に行かれたということの、意味についてご一緒に考えたいと思います。

 荒れ野とはいったいどんなところでしょうか。それは緑深き若葉の里ナザレの村とは違いまして、四季を彩る花々もなければ、刺すような日差しを避けて宿るための木陰もなく、石より他に枕するものがないような所でありました。一言で言えば、人が住めないようなところです。ナザレが命を育むところだとすれば、ユダヤの荒れ野は命を枯らすところなのです。

 しかし、私はこのように言うことができると思うのです。荒れ野というのは、神にしか望みが持てないところである、ということであります。

 ナザレのお話をしたときに、私はこのように説明いたしました。ナザレには、人間の知恵や業を誇るようなものは何もなかった。背の高い立派な建物もなければ、賑やかな商店街もなく、図書館も、学校も、病院すらもありませんでした。しかし、そこには神の御業をたたえる美しい自然、命を育む豊かな自然があったのです。イエス様は人間が造ったものの中にではなく、神がお造りになったものの中で、神様の愛や、知恵や、偉大さを、理屈ではなく肌でお感じになりながら、たくましい人間として、知恵に満ちた人間としてお育ちになったのだということであります。

 そして、今度はユダヤの荒れ野にいらっしゃった。そこには、人間の業を誇るようなものが何もないどころか、人間が生きていく望みすらなかったのです。パンもない、水もない、木陰もない、命を枯らすところなのです。しかし、だからこそ、そこで人間の望みがあるとしたら、それは生ける神の憐れみと救いだけだったのです。神だけが救いであるところ、それは荒れ野なのです。

 イエス様は、荒れ野で宣教の準備をなさった、特にそこで四十日間に及ぶ断食をされて祈られたということは、イエス様が「神だけが救いである」という信仰の上にたち、その希望こそを人々に伝えようとされたということに他ならないと思うのです。
荒れ野で知る神の有り難さ
 もう少し荒れ野についてお話をしたいと思います。ユダヤの荒れ野は、命を枯らし、生きる望みをさせ奪う荒れ野であると申しました。日本の風土の中には、このような場所はありません。日本の自然も、時には木をなぎ倒したり、山を削ったり、人命を奪ったりと、たいへん厳しい様相を見せるのですが、決して命を枯らすというわけではないのです。

 後で必ず新しい命の息吹が芽生えてきます。青木ヶ原の樹海だってすべてを焼き尽くした溶岩の上にできた森ですし、恐ろしい死の灰が降った広島も、今は緑豊かな町になっています。自然には、このような凄まじい再生力がある、驚異的な生命力がある。これが私たちの日本人の自然観だと思うのです。

 そして、よく「風土が人間を造る」と言われます。雪国の人は忍耐強いといいますし、私は温暖な静岡県藤枝市の出身ですが、藤枝の人はおっとりした性格の人が多いように思います。もっと広く日本ということを考えますと、今申しました自然の生命力の強さに対する無意識の信頼が、日本人を現実的で、楽天的な人間にしてきたのではないかと思うのです。これは短所であるばかりではなく、長所でもあると思うのですが、今日は敢えて短所としてこのことをみてみたいと思うのです。

 現実的というのは、実際に目に見えるものを信じて、目に見えないものは信じないということです。たとえば、日本ではよく「お天道様に感謝をする」と言います。お天道様というのは太陽のことですが、実際に目に見えるものですし、その恩恵もよくわかるのです。そういうことには感謝をするのです。しかし、お天道様を造った神様に感謝しようとはいいません。それは目に見えないし、お天道様の恵みはわかっても、その背後にある神様の恵みというものまでは思いが至らないわけです。

 しかし、荒れ野ではそうは参りません。太陽というのは、水を枯らし、草花を枯らし、肌を焼き尽くす恐ろしい存在で、とてもお天道様なんて呑気なことを言っていられないのです。しかし、そういう厳しい荒れ野にありましても、私たちを守る恵みがあり、救いがある。それは天地を造られた主のもとから来る。それが目に見えない神様を信じる聖書の信仰なのです。

 かつてイスラエルの民は、荒れ野を四十年さまよいました。今日お読みしました申命記8章は、モーセがその荒れ野の旅を振り返り、そこで知った神の恵みを決して忘れてはならないと、民に語り聞かせているところです。

 食糧が尽き、飢えて死にそうなとき、神は朝ごとにマナという不思ら議な食物を荒れ野に降らせて、民を養ってくださいました。水がなく渇いて死にそうなときに、神は岩か水を流れさせてくださいました。こうも言われています。「この四十年の間、あなたの着物は古びず、足もはれることもなかった」 こういう荒れ野での経験を通して、あなたがたは、自分が生かすのは人間の知恵や力ではなく、神の恵みであり、神の救いなのだということを、あなたがたは骨身にしみて勉強したはずである。たとえ乳の蜜の流れる地に入っても、そのことを決して忘れるなと、モーセは言っているのです。

 荒れ野で神に出会うという経験をしていない日本人には、なかなかそのように目に見えないものを信じるとか、望みのないところにもなお望みがあるというような信仰は育ちににくいのかも知れないと思うのです。

 もう一つ、日本人には罪や過ちというものに対して非常に楽天的なところがあります。選挙違反や汚職で逮捕されても、時間がたてば禊ぎが済んだとか、過去の話だと、水に流れてしまうものだと思っている。あるいは、総理大臣の靖国神社参拝の問題はどうでしょうか。日本は太平洋戦争を侵略戦争として認め、アジア諸国に謝罪をしています。しかし、その一方で、総理大臣がA級戦犯で裁かれた人たちが合祀されている靖国神社に参拝してしまうのです。

 アジア諸国がどんなに不快感を示しても、お構いなしに平然とそれをやってのけてしまいます。しかも、それを国民の過半数が支持しているというのは、どういうわけなのでしょうか。どんな過ちを犯しても、どんな罪を犯しても、時間がたてば水に流されてしまう。死んだ人を悪く言えない、悪い人でも死んだら神様になる、というような、罪に対する認識の甘さというものがあるのではないでしょうか。そういう罪や過ちに対する楽天さというものも、凄まじい自然の再生力に対する無意識な信頼というものが培ってきたことではないかなと思うのです。

 しかし、これでは神の御子イエス様が、私たちの罪のために死んでくださったという、十字架の血の有り難さが骨身にしみるということは決して起こりません。荒れ野というのは、そういう人間の甘さを徹底的にうち砕く厳しさをもった場所であると同時に、そんな所だからこそ神様の救いの有り難さが骨身にしみる場所であったのです。 
人生の荒れ野にて
 こんな話をしますと、だから日本人というのは聖書の神様や救いがわかんないんだと言っているように聞こえるかもしれませんが、そうではないのです。私たちは確かに自然界の荒れ野の厳しさを知らないかもしれません。しかし、私たちも命を枯らすような荒れ野を経験することがあります。それは人生の荒れ野です。

 まるで荒れ野を耕してるかのように、何をやってもうまくいかない日々があります。毒蛇に噛まれるように、手痛いシッペを受けることがあります。荒れ野の殺伐とした風景を眺めるように、人の優しさも、この世の慰めの言葉も、富も、力も、すべてが空しく思えるときがあります。まるで荒れ野にぽつんと一人置かれたかのように、人生に対する無力感と孤独を感じるときがあります。

 こういう人生の荒れ野を歩いて、どのように生きていったらよいのか、どのように心を満たしたらよいのか、途方に暮れ、惨めな思いになり、絶望感に浸ることが、私たちにもあるのではないでしょうか。そのような時こそ、実は私たちが、「私たちの救いはお天道様ではなく、それをお造りになった神様から来る」ということを知り、まことの神様に出会うチャンスなのだということなのです。

 荒れ野は、人間を絶望させます。けれども、そのような時の人間というのは、一方では「もう駄目だ」と自分の運命を呪ったりするのですが、それでもなお心のどこかで「まだ何か希望があるのではないか」と、「このような人生にも、どこかから憐れみと救いが訪れるのではないか」と、どこかに一抹の希望があることを期待するものなのです。

 人の優しさとか、この世の慰めの言葉とか、お金とか、力、名誉とか、そういったものには失望してしまった。しかし、それでも、そういうところからではないところから、自分の存在価値を与え、生き甲斐を与えてくれるものが、どこかにあるのではないかという希望であります。

 私は、このように、一方では絶望し、他方では希望を持つ、それが聖書のいう「悔い改め」というものではないかと思うのです。悔い改めは自分が空しくされることでありますけれども、それはまったき絶望ではなく、今までとは違うものに希望を持つようになることなのです。

 その新しい希望を確信に変え、その確信を喜びに帰るもの、それが神の言葉です。神の言葉によって、私たちの求める新しい希望が、生ける神様にこそあることを知ります。そして、さらに神様の言葉によって、私たちは生ける神様との出会いを果たし、新しい希望によって、新しい人生を生き始める人間となるのです。

 そう考えますと、イエス様が宣教活動を始められる時に、まず荒れ野に赴かれたということには、深い意味があったと思うのです。荒れ野では神だけが希望なのです。そして、神だけに希望を持つということから、救いが起こり、神の恵みを骨身にしみて生きる人間の新しい人生が始まるのではありませんでしょうか。
荒れ野の預言者
 さて、イエス様がユダヤの荒れ野にいらっしゃる前に、一人の預言者が荒れ野に現れました。

 それはヨハネという預言者でありまして、聖書ではイエス様が世にお出になる道備えをする人という位置づけであります。彼はらくだの毛衣をまとい、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて、荒れ野で暮らし、「悔い改めよ、救い主がいらっしゃる」と力強く教えていたと言われています。

 そして、悔い改めた人々に洗礼を授けていました。洗礼というのは簡単に言うと沐浴によって身を清めるという宗教儀式でありますが、それで人々は彼のことを洗礼者ヨハネと呼んでいたようであります。
驚きについて
「荒れ野」という場所と「悔い改め」ということには深い関係があるということを、今お話ししました。

 しかし、今日の聖書を読んで私が非常に不思議に思いますのは、ヨハネのもとにぞくぞくと人々が集まってきたという事であります。

 聖書には「エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。人がわざわざ荒れ野にやってくる。そして、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。斧はすでに木の根本におかれている」という非常に厳しいお説教を聞きに来る。それはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。

 平和な日常生活、満ち足りた生活をしている人が、わざわざこんなお話を聞きにやってくるとは思えないのです。そうだとしたら、ヨハネのもとにやってきたのは、平和で満ち足りた生活をしているようでありながら、自分の生活に危機感を抱き、本当のところは荒れ野の飢え渇きや、荒れ野の孤独や、荒れ野の空しさを味わっている人たちだったのではないでしょうか。

 そのように、殺伐とした人生の荒れ野をさまよう人々が大勢いたのです。そして、彼らは、神に希望を持つということはどういうことか、そのことをヨハネから聞こうとして荒れ野にやってきたのだと思うのです。
神に希望を持つ
 そして、ヨハネは彼らに二つのことをいうのです。一つは、自分はユダヤ人であるとか、自分はこれだけのことをしてきたとか、金持ちであるとか、家柄がよいとか、学問を修めたとか、立派な地位にあるとか、そういった神様以外のものに希望を持つことをやめなさいということです。そんなことで、差し迫った神の怒りを免れることはできないのだということなのです。

 もう一つは、しかしながら、神様はどんなに希望のないものであっても、お救いになることができるお方である。ただこのことに望みを持ちなさいということです。

 ヨハネはこんな風に語りました。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と。「アブラハムの子たち」というのは、神様の祝福が約束された人々という意味です。つまり、神様は、そこいらに転がっている何でもない石ころからでも、祝福の子らを造り出すことができるのだと教えるのです。そして、ただこのことにのみ希望を持ちなさいと言うのです。

 みなさん、私たちが荒れ野で希望を持って生きるためにはどうしたらいいのか。荒れ野の中に希望を捜すのではなく、荒れ野をお造りになった神様に希望を持つことなのです。

 そして、それが聖書のいう「悔い改め」なのです。絶望だけでもいけないし、希望だけでもいけません。絶望だけ希望がありませんでしたら、その人は単に諦めに生きる人になってしまいます。逆に希望だけで絶望がありませんでしたら、その人は単なる自信家になってしまいます。自信というのは、自分を信じることでありますから、信仰でありません。信仰は自分に絶望し、神に希望を持つことなのです。

 そして、このような信仰が、荒れ野に通る道となって、私たちをイエス様に導くのではありませんでしょうか。そして、ヨハネは、このように神に希望を持つ決心をした人々に、さらにこう語りました。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」つまり、まことの救い主が、あなたたがたのためにいらしてくださると告げたのです。

 イエス様は、荒れ野の転がる石ころのような私たちを、祝福の子らとするために、世にいらしてくださったのであります。どうぞ、もう一度、悔い改めの心を新たにして、その恵みに生きる者になりたいと願います。
 
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