「主イエスの成長」(2)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書2章39-52節
旧約聖書 エゼキエル書48章35節後半
12歳の時に
聖画
 前回はイエス様がナザレでお育ちになったということについてお話をいたしました。ナザレというのは何にもない小さな田舎の村でありましけれども、そこには神様がお造りになった自然というものがありました。人間が造り、人間の業が誇りとされているような都会の町ではなく、神様のお造りになったものの中で、神様への御業へ恐れや愛を感じながら、イエス様はナザレの村で「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて」、お育ちになったのであります。

 今日は、少年時代のイエス様を物語る唯一のエピソード、12歳の時に過越の祭りを祝うためにエルサレム神殿に参拝されたというお話からご一緒に学びたいと思います。どういう話かと申しますと、エルサレムへの旅行の帰りに、ご両親はイエス様がいないということに気づきます。それで慌ててイエス様を捜しながら来た道を帰り、とうとうエルサレム神殿にまで戻ってしまうのです。すると、イエス様はそこにおられ、聖書の学者たちを話をしていたというのです。マリアはイエス様を叱りつけます。ところがイエス様は「なぜ、わたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然でしょう」と、平然とお答えになったというのです。

 そんなに難しいお話ではないと思うのですが、読めば読むほど、私はここから色々なことを考えさせられました。ですから、今日は少しまとまりがなくなるかもしれませんが、そういうことをできるだけたくさんお話をして、この物語を分かち合いたいと思うのです。
大人になること
聖画
 最初のお話は、「大人になるとはどういうことか」、ということであります。これはイエス様が12歳の時のお話であります。ユダヤ人の子どもたちは13歳で大人の仲間入りをいたしました。12歳という年齢は、子ども時代の終わり、大人になる準備が満ちた年齢を意味していたのです。

 日本では20歳で成人になるわけですが、最近は、とても大人になったとは思えない幼稚な若者たちが成人式をめちゃくちゃにしてしまうという、まったく子供じみた問題がよく取り沙汰されています。すべての若者がそういうわけではないことはよく分かっていますけれども、20歳になってもまだ、大人の仲間入りをする準備ができていない人たちが目立つよいうになってきたのです。ある方から聞いた話によると、そういう人たちも30歳ぐらいになるとだいぶ落ち着いてくるんだそうです。だから、30歳で成人式をした方がいいんじゃないかというのですが、まったく嘆かわしい話であります。

 「大人になる」とはどういうことなのでしょうか。体ばかりが大人になっても駄目で、「自立した人間になる」とか、「責任をもった人間になる」とか、「協調性を身につける」とか、心が成熟することが大切だと言われます。ユダヤではもっとはっきりとした指針がありました。一人の人間として、神様の教えに従って生きることができるになること、それが大人になるということだったのです。

 たとえば、イエス様の幼年時代については、「神の恵みに包まれていた」と書かれていました。しかし、この宮詣の後、イエス様は「ご両親に仕えてお暮らしになった」そして、「神からも人から愛された」と言われているのです。ただただ愛され、守られ、恵みに包まれるばかりであった幼子が、神と人にお仕えする人間になったいう変化が、ここに見られるのです。大人になるということは、このように神様の豊かな愛と恵みに対して、自分を捧げてお答えする人間になるということだと言えるのです。

 それができるようになると認められる年齢、それがユダヤでは13歳だったのです。そして、13歳になりますと、エルサレム神殿でやはり成人式のようなことが行われました。けれどもご両親は、イエス様が13歳になられる前に、あらかじめ神殿への参拝を経験させておこうとお考えになります。

 私は、ここにイエス様のご両親の、今風に言えば教育方針のようなものがかいま見られると思うのです。つまり、13歳になって、いきなり「これからは神様の恵みに答えて、神様に従い、お仕えする人間なのですよ」というのではなく、子どもが神様の教えにきちんと従って生きることができる人間になるように、つまりちゃんとした大人になるように、ご両親にできることをしっかりとしてあげるということ、それがヨセフとマリアの教育方針であったのではないでしょうか。そのこともまた、ここから学び取れることだと思うのです
イエス様を見失った両親
 二番目のお話は、「一番大切なものを失った人間の苦しみ」ということであります。過越の祭りが終わり、ナザレに帰るときのことであります。まる一日歩いて宿に泊まろうとしたときに、ご両親はイエス様がおられないことに気づいたのです。その時、ご両親が経験したのが、この苦しみではありませんでしょうか。

 両親は親類や知人の間を尋ねまわりましたが、皆口々に「知らない」と答えます。両親は焦りだし、青ざめてきます。やがて夕闇が落ち、辺りには人っ子一人いなくなってしまう。イエス様の姿もありません。両親は、気も狂わんばかりになってイエス様を捜し回ります。真っ暗な道を、祈るような、叫ぶような声で「イエス! イエス!」と呼びながら、捜し回るのです。それは「心配」なんていう言葉では、表現出来ない程の恐れ、苦しみを感じた事であろうと思うのです。

 実は、私もかつて、このご両親のように、「イエス様! どこにおられるのですか」とかき乱れた心で叫びながら、真っ暗な道を彷徨い歩いた経験があります。

 それは、エルサレム神殿ならぬ教会からの帰り道でありました。その日、私は深い悩みをもって教会に行き、礼拝を守りました。いったんは帰りかえたものの、もう一度引き返して、牧師にすべてのうち明けたのです。すると牧師は「キリストを見なさい」と言われました。

 ところが、私はキリストを見ようとして、自分がキリストを見失っているということに気がついたのです。幼い頃から教会に通っていた私は、イエス様がおられるということを疑ったことがありません。そして、毎週の礼拝と祈祷会を休むこともなく、10分の1献金を捧げ、教会学校の奉仕をし、毎日聖書を読み、祈っていました。しかし、それにも関わらず、「キリストを見よ」と言われたとき、どこに見ていいのかまったく分からなかったのでした。

 私にとって、今までの一番の喜びはイエス様を見いだしたことでありますが、一番の苦しみは、このときイエス様を見失ったことでした。どんな苦しみも、心にイエス様を見いだしておれば、そこに神様の愛を見つけることができます。そして慰めは必ず訪れ、望みが消えることはありせん。しかし、イエス様を見失ってしまった心には、本当に何もなくなってしまうのです。まったき暗闇、まったき絶望です。

 人間にとって大切なものを失った苦しみほど大きなものはありませんが、一番大切なもの、それは私たちに対する神様の愛をお示しくださるイエス様なのです。
三日目の救い
 三番目のお話は、「三日目」ということです。ご両親は三日目にやっとイエス様を見つけることができました。聖書では、三日目というのは「救いの日」「神の恵みを見いだす日」として語られていることが多いのです。

 たとえば、アブラハムは、「イサクを焼き尽くす献げ物として神に捧げなさい」という神様の声を聞きます。アブラハムは苦しみ悶えつつ、神様に従おうとして、モリヤの山に向かいます。そして、三日目にモリヤの山につき、そこでイサクをささげようとするのですが、「待て、その子を殺してはいけない。あなたが私のために自分のひとり子をも惜しまないことがよく分かった」という神様の声が聞こえます。すると、そこに野生の雄羊がおりまして、アブラハムはそれを献げ物として神様を礼拝して帰るのです。

 ヨナの話もあります。ヨナは神様の仕事から逃げようとした預言者で、そのために魚に呑み込まれてしまいます。三日間、ヨナは魚の腹の中で悔い改めの祈りをしまして、救われるのです。

 エステル記にも、この三日目の救いということがあります。エステルは、ペルシャ王の王妃になったユダヤ人ですが、そのペルシャの大臣ハマンがユダヤ人を滅ぼそうという恐ろしい謀略を企てているのを知ります。そして、三日間、エステルは断食して祈り、死を覚悟して王に直訴するのです。こうして、ハマンの謀略は破れ、ユダヤ人が救われたという話です。

 しかし、どんな話よりも、三日目が救いの日であることを決定づけるのは、イエス様の復活でありましょう。イエス様が十字架にかけられて死んだとき、弟子たちはそれこそ一番大切なものを失った深い悲しみと苦しみを味わったのでありました。しかし、三日目に喜ばしい復活の朝がきました。

 ある人はこれを「三日目の秘訣」とか、「復活の原理」と呼んでいます。どんな問題が起こったとしても、最低三日は神様の救いを信じて祈り、神様がしてくださることを待ってみる必要があるのではないでしょうか。私たちは問題が起こると、すぐに泣いたり、わめいたり、恐れたり、もう神様が信じられないと軽々しく言ってしまうのです。そして、神様への信仰を忘れて、自分で何とかしなくては焦ってしまうのです。

 しかし、すべてが暗闇に見えるときにも、暗闇の中で三日は神様を信じて待ってみるということです。よくお話しすることですが、福音とは「イエス様がしてくださったことと、してくださることによって人間が救われる」ということであります。三日間というのは、イエス様が私たちのために何かをしてくださるための期間です。神様は何もしてくれないという前に、最低でも三日間はイエス様がしてくださることに期待し、その御業のために三日間は待ってみるということが大切なのです。

 イエス様が救いを与えてくださるのは、文字通り三日ではないかもしれません。私がイエス様を見いだしたのは、三日ではありませんでした。正確な日数は覚えていませんが、一ヶ月ぐらいは暗闇の中で真剣な祈りを捧げ続けたと思います。しかし、その間、今思えば神様の励ましが幾つもあったのでした。ですから、まず三日、このように考えたよいのではないでしょうか。必要ならば、三日目に、さらに三日を待つ力をイエス様が与えてくださる、これは確かなことだ思います。
驚きについて
 四番目のお話は「驚き」であります。ご両親がエルサレム神殿でイエス様を見つけたとき、イエス様は聖書の学者たちを相手に、話を聞いたり、質問したりしておりました。そして、その賢い受け答えに、学者はみなイエス様に驚いていたというのです。

 また、これとはまったく違う驚きについても書かれています。それはイエス様のご両親の驚きで、イエス様がまるで何事もなかったかのように平然と神殿におられるのを見て、驚いたというのです。

 実は、ここだけではなく、福音書を読んでおりますと、このようなイエス様に対する驚きというのはそこかしこに出てくることなのであります。

 驚きをもってイエス様を見ること、それがイエス様への信仰だと言ってもよいのではないでしょうか。みなんはいかがでしょうか。毎日の生活の中で、驚きをもってイエス様を見ることがどれだけあるでしょうか。そういう経験がたくさんあればあるほど、その人はイエス様を身近に感じ、イエス様の恵みを豊かに受けて生きているということができるのです。

 それがないとしたら、その人はイエス様から遠く離れ、イエス様の恵みを何も戴いていないということなのでしょうか。そうではありません。イエス様は、いつもそばにいてくださいますし、多くの愛の贈り物をくださっているのです。しかし、それを見てイエス様の愛に感謝して生きる人と、本当は見ているのに何も感じられない人がいるのだと思うのです。

 イエス様は、「空の鳥をみなさい。野の花をみなさい。」と言われました。イエス様は、空の鳥の生活にも、野の花の生活の中にも、神様の驚くべきが愛をみておられました。しかし、それを見ても、何も感じないでそんなのは不思議でも何でもない当たり前だと決め込んでいる人がいるのです。

 私たちの生活はそんなに当たり前のことなのでしょうか。毎日のご飯を食べられること、仕事や学校に行けること、家族と共にいること、話すこと、聞くこと、歩くこと、走ること、横たわること、眠ること、それは当たり前なのでしょうか。決してそうではありません。その一つでも欠けたならば、私たちは死ぬほど大騒ぎするはずなのですが、それがあるうちは何の有り難さを感じないで、感謝なく生きているというのは奇妙な話だと思うのです。

 どうか、私たちの生活に与えられている神様の愛、イエス様の恵みを、もう一度数えなおして、感謝の生活をしたいと思います。そうするうちに、私たちはイエス様の素晴らしさを驚きをもって讃えつつ、毎日を生きることができるようになるのです。
イエス様のおられる場所
 五番目の話は、「イエス様がおられる場所」ということであります。マリアは、神殿の中におられるイエス様を見つけて、「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と感情もあらわにお叱りになりました。ところが、イエス様は、「どうしてわたしを捜しのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とお答えになったというのです。

 ここで、まず申し上げたいことは、今までイエス様のご生涯の話をしてきましたが、今日はじめてイエス様のお言葉がここで聞けました。しかも、たいへん意味深いお言葉でありまして、「わたしは自分の父の家にいる」というお言葉です。これをそのまま聞きますと、イエス様は神殿のことを自分の父の家と言っておられて、自分が神殿にいるのは当たり前だという風に聞こえないでしょうか。しかし、実はそうではないのです。ギリシャ語の原文には、「家」という言葉はありません。つまり、イエス様は神様を自分の父と呼ばれ、「わたしは自分のお父さんのところにいるのですよ」そのように言われたのです。

 みなさん、イエス様を見失うことは人間の一番の苦しみだというお話をしました。しかし、そのような時でさえ、実はイエス様は決して私たちから隠れてしまわれたわけではないのです。イエス様は、いつもで神様と共におられます。そして、神様の御業を行っていてくださるのです。

 イエス様は「どうして捜したのですか」と言われました。それは、捜してはいけないということではないのです。ただ、イエス様を見失ったのは、イエス様のせいではない。イエス様がいたずらをして、あるいは私たちを見捨てて、どこかに逃げたり隠れたりしているのではないということなのです。イエス様はおられるべきところにちゃんとおられるのです。ところが、ご両親が、あるいは私たちが、イエス様のおられるところをちゃんと見ないでよそ見をしてしまった。そして、よそ見をしたまま自分の道を進んでしまった。そこに問題があるのではないですか、とイエス様は言っておられるのです。

 するとどうなのでしょうか。私たちがイエス様を見失ってしまったとき、どうすれば良いのでしょうか。ご両親が、来た道を戻り、神殿まで戻ったように、最初にイエス様に出会った場所に立ち帰るということだと思います。もう一度、初心にかえって礼拝を守り、聖書を読み、祈るということ、それが大切なのです。
母マリアの心
 最後に、母のマリアの心について、簡単に触れておきたいと思います。マリアには、イエス様の言葉の意味が分かりませんでした。しかし、マリアはこれらのことをすべて心に納めていたと書かれています。

 考えてみますと、マリアという女性は、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう」とやぶから棒に天使に告げられたときも、「どうして、そのようなことがありましょうか」と言いつつも、それを神様の御心として素直に受けれいました。そのイエス様を家畜小屋で生み、飼い葉桶に寝かせるという不遇に対しても、マリアが文句を言ったというようなことは書かれていません。そこに羊飼い達がお祝いにきます。マリアはこれらの出来事すべてを心に納めたとも聖書に書かれています。

 マリアはこのようにどんなことでも、不遇なことも、理解できないことも、納得できないことでも、理不尽なことでも、すべてを心に納めて、静かに過ごしていく、たいへん素晴らしい特性をもった女性だったようなのです。だからこそ、イエス様の母として、神様に選ばれたのではないかと思います。

 このようなマリアの特性は、イエス様と共に生きる私たちすべてに必要なことなのかもしれません。イエス様は、私たちの思いを越えて、私たちを導かれるお方です。ですから、イエス様と共に歩む人生にも、分からないことがたくさんあると思うのです。しかし、たとえ分からなくても、神様を信じ、イエス様を信じ、すべてを受け入れて自分の身をお任せしていく、そういうことが求められることがあると思うのです。

 今日は、いろいろなことをお話ししましたが、この一週間もイエス様を見つめ、イエス様と共に歩む一週間であるように祈りましょう。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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