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前回は『マタイによる福音書』から、ヘロデ王が生まれたばかりのイエス様を殺そうとしたので、ヨセフ、マリアは幼子イエス様を連れてエジプトにお逃げになったということをお話ししました。しかし、ヘロデが死ぬと、イスラエルの地に帰ってこられまして、ガリラヤのナザレにお住みになったと書かれていたのです。
『ルカによる福音書』には、このヘロデのことや博士たちのこと、エジプトへの避難のことが書かれていません。ルカによれば、母マリアの産後の清めの期間(約一ヶ月)が終わりますと、律法による献げ物をするためにご家族でエルサレム神殿にお宮参りに行かれました。それが終わると、「親子は主の律法で定められていたことをみな終えたので、自分のたちの町であるガリラヤのナザレに帰った」というのです。
ベツレヘムからエジプトに避難し、そこからナザレにお帰りになったのか。それともベツレヘムからエルサレム神殿に行き、そこからナザレにお帰りになったのか。つじつまを合わせるのがちょっと難しいのですが、お宮参りのあと、ご家族はいったんはベツレヘムに戻り、そこで東の国の博士たちの訪問をお受けになった。そして、ヘロデの難を逃れてエジプトに避難され、ヘロデが死んだあと、ナザレにお帰りになったと考えてもよいのではないかと思います。
そのようなことはともかくとしまして、『マタイによる福音書』も、『ルカによる福音書』も、同じようにイエス様がガリラヤのナザレでお育ちになったということを、とても印象深く書き残しているのです。マタイには主の天使のお告げによってご家族がナザレに帰ったと言われていますし、ルカはナザレで成長されるイエス様の姿を描くことによってそれを私たちに印象づけています。
いったいナザレというのはどんなところだったのでしょうか。行ったことのない私にはわかりませんが、後でご一緒に歌う讃美歌122番には、「みどりも深き若葉の里ナザレの村よ」と歌われております。いろいろ本で調べたり、写真集などをみてみますと、この讃美歌のように、ナザレはなだからな山々に囲まれて緑豊かな田舎の村であったようです。春にはアネモネや野生のシクラメンなどが咲き乱れ、糸杉やナツメヤシの木立がアクセントを加え、空にはコウノトリが群舞し、山肌には岩ダヌキがひなたぼっこをしている。そういう神様がお造りになった美しい自然の息吹の中で、イエス様は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と、聖書は告げているのであります。
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イエス様はナザレの自然の中でたくましくお育ちになったと言われています。きっと野山を駆け回って遊ぶ元気な子どもだったんじゃないでしょうか。
ところがよく目にするイエス様を描いた絵というのは、ちょっと女性的といいますかすらっとしたお姿の絵が多いようです。しかし、その中で、ミケランジェロがバチカンのシスティナ礼拝堂に描いた「最後の審判」のイエス様は、筋骨隆々として実に男性的なイエス様でありました。私は、ミケランジェロが描くほどじゃないにしても、イエス様は案外たくましい体をしておられたのではないかと思います。
聖書には、イエス様が「ご両親に仕えてお暮らしになった」とも書いてありますが、イエス様の大工の子でありますから、きっと力仕事もこなすような立派な体をしておられたんじゃないでしょうか。もっともこれは私の個人的な想像ですから、どうぞみなさんの心にあるイエス様のイメージを大事になさっていただきたいと思います。いずれにせよ、イエス様は身体的にも強くたくましくお育ちになったということなのです。
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しかし、たくましいというのは、体の強さだけではないでありましょう。心のたくましさ、強さというものがあるのです。現代はストレスが多い時代ですから、この心の強さ、たくましさということが余計に大事に思われることがしばしばあります。
私たちの国には、交通事故で死ぬ人が1年で1万人いるそうです。これもたいへんな悲しむべき数でありますけれども、実はその3倍の人たちが、つまり3万人が自殺で亡くなっているのだそうです。本当に驚くべき、悲しむべき数です。自殺にもいろいろありましょうけれども、冷静に考えれば死ななくてもいいようなことでありましても、心を追いつめられ、弱り果てて死を選んでしまう人たちが少なくないのであります。
イエス様はたくましくお育ちになったとありますけれども、体のたくましさというのは野山を駆け回ったり、大工仕事を手伝ったりして築き上げることができたのかもしれません。しかし、心の強さというのはどのようにしたら育てることができるのでしょうか。
それについては、スイスの精神医学者ポール・トゥルニエという人が、「自分の弱さを克服する第一歩は、それを受け入れることである」と言っています。これは、たとえばパウロが「わたしは弱さを誇ろう」と言ったそういう聖書のお言葉に照らし合わせても、真理をついた言葉だと思うのです。
私たちには自分の弱さを責めたり、それを認めたくないという気持ちがあります。そのために、弱さを何とか克服しようと頑張ってしまったり、あるいはそれを人に見せまいと必死になってしまうのです。ところが、そうやって必死になればなるほど、どうにも動けないほど自分を追いつめてしまい、余計に心の苦しみを大きくしてしまうということがあるのではないでしょうか。そうではなくて、自分の弱さをゆるし、それも良いことだと受け入れてしまうことが、心を強くする第一歩だというのです。
確かにそういう心を持てば、自殺するまで自分を追いつめるようなことにはならないのではないでしょうか。しかし、弱さを受け入れるということは、一見非常に安易なことのように思えますが、実はそれができる人がなかなかいないのです。それは弱い人間は駄目だとか、人に勝たなければ幸せにならないと言った人生哲学に縛られ、脅かされているからなのです。
私は愛が必要なのだと思います。たとえ自分が弱いままであっても、自分をゆるし、何の代償も求めず愛してくれる大きな愛が必要なのです。そのような愛によって自分が愛されているということを知ることによって、私たちは弱い自分を受け入れ、弱い自分であっても強く生きていこうとする心を持つことができるようになるのです。
そのような愛はどこにあるのでしょうか。それはもちろん神様の愛であります。聖書には「神は愛なり」「愛は神から出づ」と言われております。しかし、大切なことは、どのようにその神様の愛を知るかということなのです。基本は三つあります。
一つは、教会であります。敢えて「聖書」と言わずに、教会と申しているのです。というのは、イエス様は間違いなくご自分の聖書というものをもっておられませんでした。聖書というのは、とても貴重なもので、ナザレの村里に聖書があるとしたら、それは会堂にただ一つあるものだったのです。
イエス様は、安息日のたびごとにご両親と共に会堂に行って、そこで聖書が読まれるのをお聞きになったでありましょう。イエス様はそこで神様の愛について教えられたのであります。それなら、私たちは手元に聖書があって、読もうとすればいつもでそれが読めるのですから、教会に行かなくてもよいかというとそういうことではありません。聖書というのは読んで勉強する本ではなく、神様の言葉として聞くべき本なのです。ですから、聖書が神様の言葉として語られる教会に行って、そこで聖書を聞くと言うことが大切なのです。
では二つ目は何でしょうか。それは家庭です。マザー・テレサは「誰もができる一番偉大なことは、愛すること、お互いに愛し合うことです。愛はどこから生まれるのでしょうか。家庭です。どのように始まるのでしょうか。一緒に祈る家族は共にいます。そして、共にいるならば、神がお互いを愛されているように互いに愛するようになるのです。」と言っておられます。
イエス様は、父ヨセフ、母マリアの愛と祈りに満ちた家庭にお育ちになったのです。そして、その家庭の愛の中に、神様の愛をしっかり感じ取っておられたのではないでしょうか。イエス様の最も有名な喩え話の一つ「放蕩息子の喩え」、父が家を飛び出して放蕩の限りを尽くした息子を愛し続けるという話ですが、それはそのようなイエス様のお育ちになった家庭の愛から生まれたんじゃないかと思うのです。
三つ目は何でしょうか。それは自然です。イエス様は、ナザレの自然の中にお育ちになり、その自然の中に神様の愛をごらんになっていたのではないかと思います。
自然界は実に大きな愛があります。弱肉強食ということも言われますけれども、自然界の弱肉強食というのは、人間社会の弱肉強食とぜんぜん違うと思うのです。人間社会では弱くて食べられることは敗北であり、惨めなことだと考えますけれども、自然界にはそういう考えはありません。自分が食べられることで他者が生きていく。そういうことに文句を言うものは誰もいないのです。
止揚学園という知能に障害がある子どもたちの施設で施設長をしておられる福井達雨先生が、こんなお話を書いておられました。ある夏の日、福井先生が園の子供らと雑草を刈っておられました。あまりの暑さに、先生が隣で草を刈っていた子どもについ愚痴をこぼしてしまいます。 「雑草ってイヤな草やなあ。ほんとうに雑草なんて、あらへん方が良いのになあ。そしたらこんなシンドイ思いせんでもいいのに」すると、彼がポツンと 「ぼく、そう思わへん」と言ったんだそうです。 「なんで思わへんのや?」と聞きますと、「雑草はどんどん生える、チェリヤ(止揚学園にいるポニー種の馬の名前)元気になる、ありがとうやろ」と答えました。
その言葉を聞いたとき、福井先生はドキンとさせられ、二つのことに気づかされたというのです。一つは、、「雑草がどんどん生えると、何度も草刈りをしなければならないのでしんどい、自分が損をする、つらい、だから雑草はイヤだ。少しでも楽をしたい。幸せになりたい。相手なんてどうでもいいんだ」と、自分が一番大切で、自分を中心に物を考えていく人よりも、「雑草がどんどん伸びるのは素晴らしい事だ。雑草が伸びてくれるから、チェリヤがそれを食べて元気になるんだ。雑草は、自分の命を投げ出してチェリヤの命を守ってくれている。だから雑草に「ありがとう」と言わなければ」と考える人の方が、多くの人を幸せにすることができるのではないかということです。
そして、もう一つは、雑草も野菜も動物も、自分の生命を投げ出して私たちの生命を守ってくれている。生命あるものの中で人間一番優れていると私たちはいうけれども、その私たちは自分の一番大切なものを人にささげ、他者を支え、幸せにしようという方向に進むことがとても下手なのではないかということです。
生命あるものの中で一番優れていると思われている人間が、実はそういうことがなかなか出来ず、そして、「相手の生命を侵してでも、自分の生命を護ろう、相手を不幸にしてでも、苦しめてでも自分は幸せになろう、喜びをもとう」と、私たち人間の多くはそういう生き方をし、自分を中心に物を考えてしまう。生命あるものの中で、人間がもっともおとりを持っているのではないか。そういうことに気づかされたというのです。
自然界には愛があると言いましても、動物や植物が、他者を愛する愛をもっているということではありません。しかし、この自然は神様がお造りになりました。そして、この自然の掟も神様がお造りになったのです。そして、その掟は、イエス様が「友のために命を捨てることほど大きな愛はない」と言われました神様の愛の掟であり、それによって動物も植物も支配されているということなのです。
イエス様は自然の中で遊んだり、家畜の世話などをしながら、また作物がどのように育っていくかを見ながら、そのような神様の愛がこの自然界を支配しており、その神様の愛の中に自分も生かされているのだということを感じ取っておられたのではないでしょうか。
そのことはイエス様のお説教の中に現れていると思うのです。たとえば、イエス様は「野の花をみなさい。空の鳥をみなさい。神様の愛がそこにあるではありませんか。」とお教えになりました。そして、「あなたがたは、もっと大きな愛で神様に造られ、愛されているのですよ」と仰ってくださったのです。ストレスの多い現代人がペットに心の慰めを求めたり、都会を抜け出して大自然の中に身をおくことを求めたりすることがよくあります。それは、知らず知らずのうちに自然界の中に、あるいは動物の中にある神様の愛を求めていることなのではないかなとも思うのです。
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さて、ナザレの自然の中で、また父ヨセフと母マリアの家庭の中で、また会堂で御言葉を聞きながら、神様の愛をいっぱいに受けて、イエス様は身も心もたくましくお育ちになったのでありました。まさに、「神の恵みに包まれていた」ということだと思います。
しかし、みなさん、イエス様だけが神の恵みに包まれているだけではありません。パウロは、アテネの人たちに「私たちは神の中に生き、動き、存在する」と説教をいたしました。そのように、みなさんも、わたしも、信じる人も、信じない人も、すべての人たちが、実は神様の大きな愛の御手の中にあり、恵みに包まれているのです。
ただ、それを知らないで生きてしまっている。そういう人たちがたくさんいるのです。イエス様にはそれを知る知恵がありました。その知恵はどこから来たのか。それこそが、ナザレの会堂で、毎週、神の御言葉を聞いたということにあったのではないでしょうか。私たちも、教会で神様の御言葉を聞き、その御言葉の知恵によって私たちを取り囲んでいる神様の恵みに目を開かれたいと願います。そして、いろいろな悩みや問題に直面しても、信仰をもってしっかりとした人間になりたいと願うのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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