「エジプトへの避難」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書2章13-23節
旧約聖書 エレミヤ書31章1-17節
ヘロデの不安
 前回は、東の国から来た星占いの学者たちについてお話をいたしました。彼らは、ユダヤに世界的な指導者が生まれるということを知らせる星が現れたのをみつけて、黄金、乳香、没薬などの献げ物をもってユダヤのエルサレムまでやってきたのでした。

 そして、まずヘロデ王に会います。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東の国でその方の星をみたので、拝みにきたのです」

 ところが、ヘロデ家に新しい王子が生まれたという事実はありませんでした。ヘロデ王は博士らの話を聞いて不安を抱きます。聖書に、メシアが新しい王として誕生するということが預言されていることを思い起こしたからです。

 (もしメシアが生まれたのであれば、人々はきっと自分を退けて、メシアを新しい王にしようとするに違いない。はやうちになんとかしなくては・・・)

 そう思ったヘロデは、その子を探し出して殺してしまおうと考えました。そこで、まず聖書の専門家である祭司長や律法学者たちを呼び寄せて、「メシアはどこで生まれることになっているのか」と、問いただします。彼らが「それはベツレヘムです。旧約聖書の中で預言者ミカが、ベツレヘムの中から指導者が現れると預言しています」と答えると、ヘロデは博士たちを呼び寄せ、「ベツレヘムに行って、その子のことを詳しく調べてくれ。そして、ぜひとも私に報告をしてほしい。私も行って拝みに行きたいと思っているからだ」と、彼らに頼み、ベツレヘムに旅立たせたのでした。

 博士たちが、星に導かれて、ベツレヘムに生まれた救い主イエス様にお会いしたお話は先週いたしました。ところが、その夜、夢で「ヘロデのところに帰るな」というお告げを聞きました。それで、彼らはヘロデのところに寄らないで、別の道を通って帰っていったというのであります。
エジプトへの避難
聖画
夢によるお告げは、ヨセフにも与えられました。

 「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」

 ヨセフは飛び起きました。そして、傍らで寝ているマリアを揺り起こし、急いで出発の用意をさせます。こうして、ヨセフとマリアは幼子イエス様を抱き、夜明けを待たずして、エジプトへと旅立っていったのです。
ベツレヘムの幼児虐殺
 一方、ヘロデは、今か今かと博士たちの帰ってくるのを待っていたに違いありません。ところが、博士たちが帰ってこないということを知ると、彼は怒りに狂い、ベツレヘムとその周辺に住む二歳以下の男の子を皆殺しにするという、たいへん恐ろしい事件を引き起こしたのでした。このとき、ベツレヘムという町の規模から推測して20-30人の子どもたちが犠牲になったのではないかと言われています。

 まったく酷い話です。しかも、これはヘロデの犯した残虐行為ではありますけれども、イエス様の身代わりとしてこれらの子どもたちが犠牲となったということを考えますと、神様はどうしてこのようなことをお許しになっておられるのかと思わざるをえないのです。

 さらにまた、イエス様が逃げたということについても、釈然としないものがあるのではないでしょうか。もし、これがヘロデの悪魔的な仕業であるとするならば、救い主としてお生まれになったイエス様はこれに勝利をなさらなければならないはずです。もっともイエス様はまだ小さな幼子でありましたから、ご自身で何かをなさるということではなくて良いと思います。しかし、神様はイエス様を逃がすというだけではなく、ヘロデがもっと神を恐れるような仕方で、イエス様に栄光を与えつつ、ヘロデの手から救うことができなかったのでしょうか。

 ただエジプトに逃げるというだけでは、救い主の名が廃ると申しますか、あまりにも安易すぎるように思えるのです。 
どうして神様は・・・
 今日はこの二つのことについて、神様の御旨をたずねたいと思うのです。最初は、イエス様の身代わりになって犠牲になってしまった子どもたちのことであります。罪のない子どもたちでありました。なぜ神様はイエス様だけではなく、彼らを救われなかったのでしょうか。なぜ、ヘロデの手に渡されたのでしょうか。

 この問題は、今を生きる私たちにも起こりうる問題です。真面目に生きていても、信仰をもって生きていても、災いに遭うことがあります。災いというのは、良い人と悪い人を区別しないのです。

 三浦綾子さんの『泥流地帯』という小説があります。大正15年の北海道十勝岳の大噴火で、泥流が小さな部落を襲い、一切のものを流してしまうのです。主人公の耕作は命からがら泥流から救われましたが、家族や大切な人たちを失ってしまいます。茫然自失としている耕作は、やはり泥流から逃れた人たちが「心がけがよかったから助かった」と喜び合っているのを聞いて、激しい憤りを覚えるのです。「お姉ちゃんは心がけが悪かったというのか!」そして、助かった深城というあくどい男の顔を思い出して「深城の奴は心がけが良かったというのか!」と非常な理不尽を感じるのです。

 最近の印象的な事件としては、アメリカの貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込んだというテロ事件があります。この事件で、一般市民3000人が犠牲になりました。その内、身許が確認されたのは1000人程度だそうです。本当に悲惨な事件でした。こういうことを経験した人が「神も仏もあるものか」と嘆き、また人生を呪っていたとして、みなさんは、それでも「神様はおられる。ここにおられる」と胸を張って言えるでしょうか。

 私は、マタイという福音記者は、そのことをここで堂々と語っているのだと思います。ちょっと細かい話になって恐縮なのですが、ぜひ気をつけて聖書を読んでいただきたい部分があるのです。それは、マタイが1-2章の中で、よく旧約聖書の預言を引用して、「それは主が預言者を通していわれていたことが実現するため、だった」と書いているところであります。

 今日、お読みしたところにも、15節に、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通していわれていたことが実現するためであった」と書かれています。23節にも、やはり「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通していわれていたことが実現するためであった」と書かれています。このような書き方をすることによって、神様が約束の御言葉を成就してくださったということが強調されているのです。

 では、ヘロデの幼児虐殺についてはどうでしょうか。17節、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあります。ここだけは、他のところにように「預言が成就するためだった」とは書いてありません。「預言が実現した」と書いているのです。神様が約束を成就されたというよりも、神様が仰っておられた通りになってしまったという書き方です。要するに、マタイはこれは神様がなさったというよりも、人間の罪深さを知る神様が警告されていたことが、罪深いに人間の手によってその通りにおこなわれてしまったということなのです。

 私たちは災いにあうと、「どうして神様は・・・」と神様を責めようとします。しかし、それは間違いではないでしょうか。神の国を求めないこの世が、そのように神なき、望みなき世界を造り出してしまっているのだと思うのです。その世界に生きている限り、私たちは神なき望みなき体験をさけることができないのです。しかし、聖書はそのような神なき望みなき世界に、一人のみどり子が与えられたということを、その御子を愛する者は、たとえ神なき望みなき世界にあっても、神を持ち、望みをもって生きることができるのだということを語っているのです。

 マタイは預言者エレミヤの預言を引用しています。しかし、その後半部分をここに書いていません。実はエレミヤの預言はこう書いてあるのです。エレミヤ書31章15-17節

 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる
 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
 ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
 彼女は慰めを拒む
 息子たちはもういないのだから。

 ここまでがマタイが引用をしているところです。しかし、その後にはこう書いてあります。

 主はこう言われる。
 泣きやむがよい。
 目から涙をぬぐいなさい。
 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
 息子たちは敵の国から帰って来る。
 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
 息子たちは自分の国に帰って来る。

 このように、慰めと救いが約束されいるのです。この時殺された子供らは、間違いなく天国に入るのです。

 では、マタイはなぜそれを書かなかったのでしょうか。マタイを敢えて書かなかったのだと思います。それは、この慰めと救いを信じなかったからではありません。そうではなく、神なき望みなき世界に与えられる神の慰めと救いこそ、マタイが書こうとしたイエス様の生涯そのものだったからなのです。

 ヘロデの幼児虐殺の事件は、まさにこの世の暗闇を表す事件でありましょう。しかし、神様は暗闇に決して呑み込まれなかった一人の幼子がいたのです。その幼子が、やがてこの世の暗闇に大きな光を放つお方になられます。「だから、そのような暗闇の中に生きている人よ、泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」と、このエレミヤの後半部分の預言の成就こそ、イエス様のご生涯なのだと、マタイはこの福音書を書いているのです。 
どうしてイエス様は・・・
 さて、もう一つ考えたいのは、なぜイエス様は逃げるだけであったのかということです。日本には御神輿というものがありまして、あれは人間は神様を担いで運ぶわけですけれども、イエス様もヨセフやマリアに抱っこされてエジプトに逃げていったというのですから、それとあまり変わりがないのではないかとさえ思えます。イエス様が世の光であるならば、神の光でヘロデのもたらす暗闇をうち破ってもよかったのではないか。これは多くの人が思うことではないでしょうか。

 しかし、みなさん、聖書には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」というお言葉があります。人間からみると、神様は愚かで弱々しく見えるときがあるというのです。しかし、そのような時であっても、神様は人間の知恵や力をはるかに上回る知恵と力をもって御業をなさっているのだということであります。

 イエス様は、神様に等しいお方でありますが、それと同時に私たちと同じ者になってくださいました。それは、イエス様が私たちと同じように弱さや、貧しさを持たれたということであります。そのことの中にも、実は、イエス様の大きな救いがあるのです。

 たとえばこの福音書を書いたマタイ自身の救いについて考えてみるとよく分かります。マタイは、イエス様の奇跡をみて信じたのではありません。病の癒しを戴いて信じたのでもありません。マタイは人々からローマ帝国への税金を集める徴税人でした。マタイは、ローマの手先、売国奴とみなされ、売春婦やヤクザなどの罪人と同じように軽蔑されている人々の一人だったのです。売春婦もそうですが、誰も好きこのんでそういう仕事につくわけではなく、そこに至る背景には幸せの薄い人生があったのだろうと思います。ところが、イエス様は、そのようなマタイの仲間を集めて用意した宴会に、弟子たちと一緒に喜んで出席し、一緒に飲み食いしてくれたのです。ファリサイ派の人たちは、そういうイエス様をみて避難しました。しかし、イエス様はお構いなしに、マタイや他の罪人、徴税人たちと同じ者になられたのでした。こうして、マタイはイエス様の弟子となり、このように福音書の書き残すという神様の仕事をする者になったのでした。

 そういうことを考えますと、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という聖書のお言葉は、決して私たちが忘れてはいけないことだと思うのです。イエス様が力弱く思えるとき、イエス様が愚かに思えるとき、そういう時にも、私たちに対するイエス様の深い御心があって、私たちが考える以上の知恵と力が隠されているのです。

 イエス様が人に抱かれてエジプトに逃げたということも、そう考える必要があります。私なりの解釈をしますと、神様はイエス様に愛される喜びだけではなく、イエス様を愛し、イエス様に仕える喜びを人間に与えてくださったということを、ここで感じるのです。

 私などは、なぜ神様は自分のように罪深く、貧しく力のない人間を牧師にされたのだろうかと、不思議に思うことがあります。しかし、このような者でも用いられて、自分でも信じられないような神様のご用をすることができることがあるのです。そのような時、私は少しも自分の力でしたという気がしません。ただただ神様が憐れんで助けてくださったと感謝するばかりなのです。しかし、それと同時に、このような自分もイエス様のお役に立てたという大きな喜びを感じます。そのような喜びを与えてくださるのも、イエス様の深い愛なのではないでしょうか。感謝をいたしましょう。
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