「ペトロの愛を問う主イエス」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書21章1-19節
旧約聖書 イザヤ書42章1-4節
見えない主
 復活の主との出会いということ、ずっと続けて学んできました。最後まで「わたしは信じない」と言い張ったトマスも、ついには復活の主との出会いを経験しまして、信じる者、喜ぶ者に変えられたのでありました。けれども、それも長くは続きません。私たちもそうですが、どんなに私たちの人生を変えるような素晴らしい神の恩寵を体験しても、時が経てばその感動が薄れていき、その上に新たな困難にも出くわそうものなら、たちまち喜びも、信仰も萎えてしまうのです。そういうことを、弟子たちも経験する羽目になります。

 復活の主は、確かに彼らの目の前に現れました。それは非常にリアルな体験で、疑いようもないものでした。しかし、その体験は、決して永続的なものではなかったのです。マグダラのマリアは、復活の主に出会ったとき、思わずそのお体にすがりつきました。けれども、主はそれを振り払い、姿を消されました。エマオに向かう二人の弟子に現れた主も同じです。旅の道連れとなった方が復活の主であるということになかなか気づくことができなかった二人でありますが、それに気づいた途端、その姿は見えなくなりました。トマスに現れた主は「見ないで信じるものは幸いである」というお言葉を残して、姿を消されました。復活の主に出会った弟子たちは、復活の主が見えなくなってしまったという体験もしたのであります。

 そのような中で、彼らはエルサレムを離れ、ガリラヤに行きます。ガリラヤに行くこと自体は決して不信仰なことではありませんでした。それは、復活の主ご自身のお命じになったことで、彼らは御言葉に従ってガリラヤに行ったのです。しかし、そのように主の御言葉に従う生活をしながら、彼らの心は揺らぎ始めます。「ガリラヤに行け。そこで私は待っている」と、確かに主は言われました。しかし、ガリラヤは広い地域です。ガリラヤのどこに行けばよいのか? 主はどこにいてくださるのか? まるで雲を掴むような話なのです。

 私たちもこのような心細さを味わうことがあるのではないでしょうか。イエス様のお言葉が曖昧であるというわけではありません。「ガリラヤに行け」とはっきりとおっしゃった。私たちに対しても、主がはっきりと命じておられるのを聞いています。あなたの敵を愛しなさい。明日のことを思い煩うな。自分の十字架を背負って、私についてきなさい。イエス様のお言葉には一点の曖昧さもありません。だけど、本当にそれで大丈夫なのだろうか? 御言葉に従った後はどうなるのか? 敵を赦せば、敵はつけあがるだけじゃないか? 明日のことを思い煩わなくても、本当に明日は大丈夫なのだろか。十字架を背負って従うのはいいけれども、いったいいつまで忍耐すればいいのだろうか。本当に、イエス様は私のすべての道を見ていてくださるのだろうか? 将来を保証してくださるのだろうか? イエス様が心にはっきりと見えている時には、そんな不安は起こらないかもしれません。けれども、目に見えないイエス様でございます。疑いだしたらきりがなくなってしまうのです。

 弟子たちの心も、そんな底なし沼のような疑いの中に迷い込もうとしていたのかもしれません。ガリラヤに到着すると、彼らのリーダー格であったペトロが「わたしは漁に出る」と言い出しました。すると、他の弟子たちも同調して、次々よ「わたしも一緒に行こう」と言い出したといいます。

 もともと漁師であったペトロが、漁に出たいと言い出すことはそんなに驚くべきことではないかもしれません。しかし、もともと漁師であったからこそ問題なのでありまして、ペトロは今、再び、主に従う前の生活に戻ろうとしているわけです。一度は船も網を捨てて主に従う者となったはずなのに、今度は主を離れて、船と網を手にしようとしているわけです。復活の主にお会いするという、本当に素晴らしい格別の体験をしていながら、その恵みを忘れ、たちまち疑いの沼に落ち込んでしまう人間の弱さというものがここに浮き彫りにされているのであります。

 ペトロは、昔取った杵柄でありますから、漁師として腕前には自信があったに違いありません。しかし、深い挫折を味わうことになりました。夜通し網を打っても、ただの一匹すら魚が捕れなかったのです。先週、私はこのことについて、彼は「わたしを離れては何もできないのである」というイエス様の御言葉が真実であることを、ここで身をもって体験したのだということをお話ししました。私たちは、イエス様につながっているならば豊かに実を結ぶということを体験することも必要です。しかし、それと同じぐらい、イエス様を離れては何もできない人間であるということを体験することも必要なのです。

 先週はこういう話もしました。イエス様は、そのことを彼らに学ばせるために、敢えてこのような挫折に彼らを委ねられたのだということであります。しかし、見放しておられたわけではありません。イエス様は湖で徒労する弟子たちの様子を、ずっと岸辺から見守っておられたのです。夜が白みかけた頃、イエス様は彼らに問いかけます。

 「何か取れましたか」

 その方がイエス様であることを知らないまま、彼らは答えます。

 「いいえ、何も」

 こうして、「私を離れては何もできないのだ」と言われたイエス様の御言葉が、彼らの信仰体験として刻み込まれるのであります。

 すると、イエス様は、「船の右に網をうってごらんなさい」と言われました。彼らは半信半疑ながらも、お言葉の通りに従います。すると、何としたことでありましょうか。網はたちまちたくさんの魚で一杯になり、引き上げることもできないほどでありました。驚いた弟子たちは、岸辺の人をあらためて見つめます。一人の弟子がようやく気づいて、「あれは主だ」と、ペトロは居ても立ってもおられず、上着を着て海に飛び込み、岸辺まで泳いでいったのでありました。他の弟子たちも、船で網を引きながら岸につきました。 
さあ、朝の食事をしなさい
 以上は、先週の復習であります。今日は、その後のイエス様と弟子たちとの食事について、さらにお話しを進めて参りたいと思うのですが、まず9-13節を読んでみましょう。

 「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」

 なんと静かな、優しさに満ちた朝でありましょうか。私は、この「さあ、朝の食事をしなさい」と御言葉が大好きです。主は忘れ、自分たちで何かができると思って徒労に明け暮れる弟子たちの姿を、イライラすることなく、じっと岸辺から忍耐強く見守ってくださった主。帰ってきた弟子たちを迎えるために、炭火をおこして、魚を焼いて、待っていてくださる主。喜んでいいやら、悲しんでいいやら分からず、もじもじとしている弟子たちに、いつも通りの優しい声で、「さあ、朝の食事をしなさい」と招いてくださる主。それは、あの疑い惑うトマスに、自分の手を差し出し、「あなたの指をこの釘跡に入れてみなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言ってくださった主と同じであります。

 そしてまた、昔、預言者イザヤが来たるべき救い主について語った言葉を思い起こします。

 「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
  傷ついた葦を折ることなく
  暗くなっていく灯心を消すことなく
  裁きを導き出して、確かなものにする」

 イエス様は叱ることによってではなく、赦すことによって、信仰を与え給います。檄を飛ばすことによってではなく、僕の姿となって命のパンを与え給うことによって彼らに新しい力を与え給います。この静かで、慰めに満ちた朝の食事こそ、私たちが毎週日曜日に与えられています礼拝の原型なのです。毎週毎週の礼拝に、私たちが招かれていることの幸いを改めて覚える者でありたいと願います。 
ペトロの愛を問う
 さて、食事の後、イエス様はペトロに格別の導きをお与えになりました。15節、

 「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。」

 イエス様は、「この人たち以上に」と問うことによって、ペトロに他の弟子たち以上の愛をお求めになりました。それは、何からの意味において、ペトロが格別な選びに与っているということを意味していると思われます。

 その格別な選びとは何か? カトリック教会の伝統的な解釈によれば、イエス様が天にお帰りになった後、ペトロが地上の代理者として全世界の信徒を指導するよう、イエス様が権威を委ねられたことだということであります。それがペトロから今日のベネディクト十六世に至るまでのローマ教皇の権威ということになるのです。

 しかし、イエス様は今日のように、ペトロの姿を誇張し、肥大化し、一般信徒からかけ離れた聖人区主としてのローマ教皇の姿を思い描いておられたでありましょうか。それは、はなはだ疑問に思います。聖書を読むかぎり、ペトロという人物は実に庶民的です。単純で、分かりやすい人間で、失敗も多い。決して私たちからかけ離れた人間ではないのです。

 イエス様がペトロを格別に選び給う理由は、むしろそこにこそあったと、私は思います。主は、「多く赦された者は多く愛す」と言われたことがあります。まさにペトロは多く赦された人間でありました。それだけ主の愛を、他のだれよりも多く受けてきた人間でありました。このような者が、その主の愛に、答えて立つ時、主の教会がこの地上に立てられていくのであります。そういう意味で、イエス様はペトロの愛を問うのです。お前が一番赦されてきたのだから、お前が一番私の愛を知っているはずだ。そういう意味ではないでしょうか。

 ペトロは、このように問われるイエス様に、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。非常に慎ましい答えであります。これまで、ペトロは「我こそは誰にも勝って主を愛している」と公言してはばからないような人間だったのです。たとえば、『マタイによる福音書』26章31-35節にはこのようなことが記されています。

 「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
 「わたしは羊飼いを打つ。
  すると、羊の群れは散ってしまう」
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った。」

 ペトロは、イエス様を愛することにおいて自信がありました。イエス様を裏切るとか、見捨てるなどということは自分には考えられないことだと、本気で思っていたのです。しかし、このようなペトロを、イエス様はお信じになりませんでした。では、どのようなペトロを信じたのか。それは、イエス様の予言どおり、イエス様を見捨て、「わたしは、イエス等という男は知らない。関係ない」と公衆の面前で主を否んでしまい、そのような自分の情けなさを知って思いっきり涙を流したペトロ。もはや、とても主の弟子であると言えないような者でありながら、なお主を離れることができずに弟子たちの中に留まり続けたペトロ。

 そして、今日お話ししましたように、復活の主に出会っていながら、またそこを離れてしまう弱き者でありながら、「主なり」という言葉を聞くと、真っ先に海に飛び込むペトロ。ペトロは、イエス様に「汝われを真に愛するか」と問われて、「もちろんです。私は誰よりもあなたを愛します」と答えたかったに違いありません。しかし、そう答える資格のない人間であることを、今やペトロは知り尽くしております。しかし、それでもどうしてもイエス様の愛を離れることが出来ない思いをもっている。その気持ちは、ただ主が分かってくださるしかないのだという思いで、「「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるペトロです。

 ところが、イエス様はもう一度、ペトロに同じ事を聞かれます。三度、このようなことを繰り返すのです。ペトロは悲しくなり、おそらくはベソを掻きながら、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えます。

 なぜ、主は三度もペトロの愛を問われたのでしょうか。それは、ペトロが三度、「私は主を知らない」と否んだことに対応していると、よく説明されます。では、もし百度主を裏切ったならば、百度「わたしを愛するか」と問われたのでしょうか。きっとそうだろうと、私は思います。イエス様は、何遍私たちが裏切ろうと、私たちの愛を求めて「わたしを愛するか」と何遍でも問いかけてくださる方なのです。

 これは、信仰生活はいつだってやり直しができるということであります。最初にも申しましたように、私たちはどんなに素晴らしい主の愛を受けても、そこを離れてしまうような愚かな者なのです。しかし、主は、私たちのそのような愚かさを知らないで愛してくださっているのではありません。すべてを知りつつ、なお私たちを愛して、「さあ、朝の食事をしなさい」と招き、「わたしを愛するか」と私たちの再度の愛を求めて下さる御方なのです。このような主の赦しと恵みなくして、誰が信仰生活を貫くことができましょうか。

 罪を犯してもいい、とは言えません。しかし、罪を犯すのは人間の常であります。大切なことは、何度でも悔い改め、何度でも立ち帰って、このような者を愛してくださる主にお答えすることでありましょう。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp