「復活の証人F ガリラヤ湖にて」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書21章1-15節
旧約聖書 列王記上19章1-18節
キリスト体験について
 昨日は、F姉のご主人の正明さんのご葬儀がこの教会で営まれました。改めてお悔やみを申し上げさていただきます。おつきあいの長い方はよくご存じでしょうけれども、本当に仲の良いご夫婦でありまして、町で見かける時はいつもお二人が一緒でありました。前夜式、葬儀の中でもお話しさせていただきましたが、正明さんは、脳梗塞で倒れられ、意識が混濁する中、必死にご主人の手を取って「お父さん、しっかりして」と呼びかける奥様に対して、「祈ってくれ」と一言おっしゃった。それが最後のお言葉であったということであります。お二人がこれまでどれほど信じ合い、祈り合い、支え合って歩んで来られたか、この一言ですべてが語られているのではないでしょうか。

 しかし、どんなに深い愛で結ばれていようとも、「死」というものはその絆を一瞬にして断ち切って二人を引き離してしまう、本当に残酷なものであります。この深い悲しみを慰め、癒すものは、「私を信じる者は死んでも生きるのだ」と、力強く約束してくださった復活の主に対する信仰をもって、天国の望みと確信に生きる他にないのであります。奥様のF姉をはじめ、ご遺族の方々に、信仰による慰め、励ましが豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。

 さて、F姉のご主人の死を悼みながら、私はイエス様と弟子たちの関係も、十字架に死によって一度断ち切られてしまったのだということを改めて考えさせられました。その時の弟子たちの歎き、途方に暮れた思いは、いかばかりであったでしょうか。イエス様との関係が、つながりが、深ければ深いほど、弟子たちは途方に暮れ、虚ろとなり、孤独を感じ、恐れや不安の中に迷い込んでしまっただろうと思うのです。

 けれども、彼らは、イエス様が十字架におかかりになって三日目に、驚くべき体験をしました。確かに死んで葬られた主が、復活して生きておられるということをまざまざと体験したのであります。復活の主との出会い、それは一度断ち切られた彼らとイエス様とのつながりが、もう一度結び合わされ、愛と恵みに満ちた至福の交わりが再現したということです。そのことによって彼らの悲しみは慰められ、歎きは喜びに変わり、虚ろさは希望に満ちた信仰に満たされたのであります。

 みなさん、私たちにも復活の主との出会いが必要でありましょう。世の中の多くの人々が、イエス様を立派な御方であるということを認めております。それは、クリスチャン人口が1パーセントにも満たない我が国においても同じです。イエス様を立派な人物だと認めていたり、聖書を読んでいる人は多いのです。それなのに、どうしてそれが信仰へと結びつかないのか。それは、イエス様と自分の関係が、死を乗り越えてリアルなものすることができないからでありましょう。復活の主との出会いを経験していない者にとって、イエス様をどんなに認め、尊敬していようとも、所詮、今生きている人ではないのです。二千年前に生きていた人、しかし死んでしまった人、過去の人なのです。今、生きている自分をリアルタイムで教え、導いてくださるわけではない。そのような交わりを持つことができるわけではない。過去というのは考えたり、学んだりすることはできても、今の現実として体験することはできないのです。

 ですから、復活の主との出会いを経験していない人は、イエス様について考えることはできますが、イエス様との交わりを喜ぶことはできません。イエス様の教えを学ぶことはできますが、イエス様から聞くことはできません。それでは信仰にならないのです。信仰というのは、私たちの現実に対するイエス様の愛を受け取ること、御教えを聞くこと、そのようなイエス様との命の交わりに生きることだからです。

 現代のクリスチャンが、どのように復活の主と出会うのか。聖書に登場する人たちと同じように、この目でイエス様を見、この耳でイエス様の声を聞くのか、それは何ともいえません。私にとっての主との出会いの体験についてお話しをすれば、必ずしもそうではありませんでした。目で見たわけではありません。耳で聞いたわけではありません。手で触れたわけでもありません。しかし、確かに主は生きておられ、私と共にいてくださり、赦しと、見守りと、導きとを与えてくださっているという心の体験をいたしました。私にとっては、それは非常にリアルな体験、つまり私の歎きを喜びに変え、虚ろさは信仰に変える体験であったのであります。

 ペトロは、後に手紙の中で、このような言葉を書いています。

 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(『ペトロの手紙1』1章8-9節)

 このような言葉で語られますと、復活の主との出会いというのがどういうものなのか、お分かりになるのではないでしょうか。それはイエス様の姿を目で見ることではなく、イエス様の愛と救いを、私たちの魂の救いとして受け取る体験をすることだというのであります。 
ぐらつく信仰
 さて、最後まで疑い続けたトマスも含め、すべての使徒たちが、そのような復活の主と出会いを果たしたということを、これまで学んできたのであります。それによって、彼らの信仰が高められ、イエス様への愛と忠誠心は燃え上がったに違いありません。

 ところが、今日の物語を読みますと、ちょっと妙なのです。弟子たちは、エルサレムを離れ、ガリラヤ湖(ティベリアス湖)にいます。ガリラヤにいるということ自体は、少し変なことではありません。『マタイによる福音書』によりますと、復活の主が、ガリラヤで会おうと仰ったのです(28:10)。それに従って、彼らはガリラヤに行ったのであります。ところが、ガリラヤにつきますと、ペトロが「わたしは漁に行く」と言い出しました。すると、ペトロばかりか、他の弟子たちも同調して「私たちも行こう」と言ったというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 ご存じのように、ペトロはもともとガリラヤ湖の漁師でありました。ペトロだけではなく、アンデレ、ヤコブ、ヨハネも、同じ漁師仲間でした。そういう意味では、突然、「漁に行く」と言い出したのはあまりおかしなことではないかもしれません。しかし、漁師であった彼らは、イエス様の招きに喜んで応じ、商売道具の船も網もかなぐり捨てて、イエス様に従う者になったという、彼らの歴史をみますと、どうしてここでまた漁師に戻ろうとするのか。それはイエス様に従う前の生活、一度は訣別した生活に舞い戻ろうとするではないか。復活の主に出会い、信仰を高められているはずの弟子たちが、どうして後戻りしようとするのか。そういう意味で、この弟子たちの行動はちょっと奇妙に思えるのです。

 私は、この物語は、復活の主に出会った後も、弟子たちの信仰の歩みは、決して揺るぎのないものではなかったということを物語っているのだと思います。聖書というのは、旧約聖書も新約聖書も、人間の弱さというものを非常に鋭く描いています。たとえば、今日お読みしたエリヤの物語もそうです。私たちから見れば、エリヤという人はまさしく神の人、超人的な信仰者としか思えません。しかし、そのエリヤが敵に怯え、逃げだし、意気阻喪し、神様に「こんなところで何をしているのか」と叱責されている姿を、聖書は偽りなく描いているのです。エリヤも、恐れたり、疑ったり、信仰をぐらつかせてしまうような私たちと同じ人間であったということなのです。

 けれども、そういう人間を神様は決して見捨て給うことなく、忍耐強く導いてくださる。その神様の愛と忍耐によって、私たちは再び神様に結びつけられる恵みの体験し、信仰を高められる。ところが、また恵みを忘れ、後戻りするなことをしてしまう。それにもかかわらず、神様は私たちを投げ出すことなく、さらに深い愛と忍耐をもって、私たちをゆるし、招き、再び神様にむすびつけてくださる。こんなようなことを繰り返しながら、私たちは常なる信仰というものを身につけていくのではありませんでしょうか。

 この物語の最後、14節には、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と書かれています。一度では済まないのです。それが人間です。しかし、そんな弟子に、イエス様は、何度も何度も現れて、力づけ、励ましてくださったのだというのであります。ですから、ペトロは、後に、やはり手紙の中で「主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(2ペトロ3:15)というような言葉も残しているのです。まさに、これが弱きペトロの体験だったのではないでしょうか。 
過去の栄光
 それから、もう一つ、人間の弱さ、失敗という関連で、この物語から学ぶことがあります。ペトロは「昔とった杵柄」と思って漁に出たのでありましょう。まだ腕に自信があった。しかし、実際に漁に出てみると、「その夜は何もとれなかった」という空しさを味わうのです。

 過去の栄光は、決して現実の救いにならないのです。人間というのは、現実がつまらなくなったり、苦しくなったりすると、「あの頃はよかったなあ」と、つい過去を思い起こします。思い起こすぐらいは罪のないことでしょう。しかし、過去を取り戻そうとか、思い出に生きようとか、そういう現実逃避からは、決して現実を乗り越えるような答えは与えられないのです。

 信仰は現実逃避ではありません。信仰は現実主義です。人間の罪、人間の愚かさ、人間の弱さ、そういう現実をしっかりと認識するところから、神様に立ち帰る道が与えられるのだというのが、信仰的な考えなのです。

 たとえば、放蕩息子のたとえ話もそうでありましょう。今話題のホエリエモンじゃありませんが、お金さえあれば自分を幸せになれると浮かれて町に出てみたものの、失敗をしてしまう。すべてを失い、乞食にまで落ちぶれてしまう。その現実を認めた時、彼は我を取り戻し、お父さんの所に帰ってごめんなさいと言おう、それが自分を救う唯一の道だということに気づいたというのです。
主を離れては・・・
 さらに、この物語から教えられますことは、イエス様を離れて生きることの空しさということです。ペトロは「その夜は何もとれなかった」という空しさを味わうことになったのは、現実逃避も一因ですが、もっと根本的な問題を言えば、イエス様を離れて、自分の知恵や経験に頼ろうとすることの空しさが、ここに現れているのだと思うのです。

 イエス様は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と言われました。イエス様につながっていることに命がある、それが復活の主との出会いの体験であります。

 しかし、ペトロは失敗を通してもう一つのことを学ばされることになります。それは「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と、イエス様が言われたことの真実さであります。イエス様を離れては何もできないという体験をすることは、復活の主に出会うことと同じぐらい大切なことなのです。

 けれども、人間というのは実に愚かで傲慢な存在で、そういうことも、身をもって経験しなければわからないのです。そういう意味では、失敗も貴重な体験でありましょう。もしかしたら、イエス様は敢えてペトロたちをそのような失敗の中に委ねられたのかもしれません。失敗を通して、必ずイエス様と共にいることの大切さ、それだけが私たちの救いであるということを改めて知っていくためにであります。

 それを裏付けるかのように、「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」と記されています。イエス様は彼らの様子をずっと岸辺から見守っていたのです。けれども、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかったというのです。

 お気づきだと思いますが、復活の主との出会いの物語には、必ずといって良いほど、最初は気づかなかった、分からなかったということが言われているのです。イエス様は死んでしまったのだ、イエス様なんていないのだ、それが現実だ、などという人がいても、実はそれはイエス様が生きておられ、共にいてくださることを知らないだけなのだと、聖書は教えているのです。
あれは主だ
 ところが、これもまた共通する話なのですが、気づかない弟子たちに、必ずイエス様の方からアプローチしてくださるのです。そのアプローチを受けながら、だんだんと弟子たちの心の目が開けてきて、「あれは主だ」という気づきになるわけです。

 この気づきが大事です。イエス様がどんなに近づいてくださっていても、気づきがなければ、イエス様が生きておられるという現実を知らずに生きてしまうのです。今日の物語もまったく同じでありまして、先ずイエス様からのアプローチがあります。イエス様が弟子たちに「子たちよ、何か食べる物があるか」と、岸辺から声をおかけになったのであります。

 「食べ物があるか」というのは「獲物があるか」ということでありましょう。私たちは獲物とか、実りがなければ、食べ物がありません。そして、獲物や実りを得るためには、働かなくてはなりません。しかし、どんなに働いても獲物がとれない、実りを結ばない、そんな働きというのは本当に空しいではありませんか。けれども、それが私たちの人生の現実なのです。一生懸命に人生に生きているのだけれども空しい、意味が見いだせない、何のために生きているのか分からない、「あなたたちはそうではありませんか? 自分の知恵と力、経験や勘をたよって、何が素晴らしい収穫がありましたか。わたしがいなくても幸せなのですか」、そういうことをイエス様は弟子たちに、そして私たちに問いかけておられるのです。

 すると、弟子たちは実に率直に「ありません」と答えます。働いても、働いても何も得られない、そんな空しさを感じ、人生に疲れ切ってしまった人間の、率直でうそのない告白でありましょう。イエス様がいない人生には、何もないのです。空しいのです。虚無感だけが残るのです。なぜなら、イエス様は私たちの人生の一部ではなく、すべてであるべき御方だからです。

 ただ一つ感心していいことは、ないものはないと答えた率直さです。「いや、これからです」とか、「今日はたまたま何もとれませんでした」とか、そんな見栄や、言い訳はしませんでした。先ほども申しましたが、このように自分の惨めな現実を認めるというところから、立ち帰りへの道が始まるのです。

 「ない」ものは「ない」とはっきり言うところに人間の真実があるのです。トマスは信じられないことは信じられないとはっきりと申しました。確かに、「信じられない」と言いうのは、トマスの不信仰であり、頑迷さでありますけれども、信じていないものを信じているような振りをしているような偽善者、嘘つきよりはずっといいのです。神の前に赤裸々な人間であること、それが求められているのです。そのようなトマスだからこそ、イエス様は彼に「信じる者になりなさい」と優しく語りかけてくださる。しかし、偽善者のファリサイ派などには、実に厳しい言葉をイエス様は投げかけておられるのです。

 さて、イエス様は「船の右の方に網をおろせ。そうすれば何かとれる」と命じられます。そこで、弟子たちが言われた通りにしてみると、不思議なことに、今までどんなにしても何も取れなかったにもかかわらず、今度は大量の魚がとれたというのです。この奇跡は、イエス様の御力を物語っているだけではありません。イエス様を離れているところで行われる働きと、イエス様に従う働きの間には、これだけの差があるのだということを物語っているわけです。

 このような奇跡を目の当たりして、弟子たちはイエス様の存在にようやく気づきました。そして、急いで、ペトロなどは湖に飛び込んで、イエス様の側に駆け寄った(泳ぎ寄った?)というのであります。すると、イエス様は炭火をおこし、朝食を用意して弟子たちをまっていてくださいました。このお話しは、次週にいたしましょう。

 今日は、復活の主と出会っても、「主を離れては何も出ないのだ」という体験をしなければ、この弟子たちのように、再び主を離れて空しさの中をさ迷ってしまうことがあるのだということを学び取りたいと思います。そして、そのような時にもなお、イエス様が共にいてくださる。もし、私たちがイエス様を離れて生きている自分の姿の惨めさ、空しさを率直に認め、悔い改めるならば、主との交わりの中に立ち帰ることができるのだ、それをこそイエス様は願っていてくださるのだということを学びたいと思います。 
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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