「復活の証人E トマス」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書20章24-29節
旧約聖書 詩編139編1-6節
復活の主に出会う喜び
 先週は、復活の主に出会った使徒たちのお話をしました。使徒たちは、最初、復活の主を見ても幽霊だと思って恐れてしまったといいます。しかし、そんな彼らに対して、イエス様は「平安あれ」と優しく語りかけ、さらにはご自分の手や足をお見せになったり、焼き魚を彼らの目の前で食されたりして、ご自分が紛れもなく復活なさった主であることを証明なさったのでした。

 主が生きておられるということを、そのようにリアルな形で経験した使徒たちは、目の前の現実に驚きつつも、大きな喜びに溢れました。皆さんにも、会えることならばもう一度会って話がしたい、共に食事をしたいという人がいるでありましょう。私も、叶わぬことは知りながら、天国に行った兄弟姉妹たちのことを思わないではいられません。そんな風に考えますと、使徒たちが復活の主との驚くべき再会を果たし、その御姿を拝し、懐かしいみ声を聴き、もう一度み教えを受けることができたということ、さらには共に食事をすることまで出来たということは、どんなに大きな喜びであったかと想像するのであります。

 けれども、復活の主に出会った喜びというのは、そのような再会の喜びだけですべて語り尽くせるものではありません。再会の喜びだけであるならば、いつかまた訪れる別れの悲しみ、寂しさが彼らを襲うことになったでありましょう。事実、復活の主は、やがて使徒たちの目の前から消えてゆきました。しかし、それでも彼らの喜びは消えなかったのであります。

 使徒たちはこの後、もうしばらくすると、この大いなる喜びに突き動かされて、伝道活動に身を献げるようになります。それは迫害による困難、殉教の危険が目に見えている働きに身を投じることでありました。そして実際、多くの艱難、危険が彼らの身を襲いました。それにもかかわらず、彼らは喜んでその中に身を投じたのであります。どうしてか? 復活の主を知る喜びがあったからです。どんな困難も、危険も、この喜びを彼らの心から消すことはできなかったということなのです。

 先週は、これまで親しいお交わりを頂いておりました宣教師・崔和植さんのご一家を、祈りをもって大垣の地へお送りしました。在日大韓基督教大垣教会に赴任されたのですが、信徒は4名しかいない、しかもその4名は大垣市に住んでいない、経済的な保障もない、聞けば聞くほど困難な伝道地であります。

 そもそもクリスチャン人口が30パーセントとも、40パーセントともいわれる韓国から、1パーセントに満たない日本という伝道困難な地に来られて、しかもさらにその中で困難な場所へと行かれる。信仰を持たない人が見れば、小さな子供たちも連れて、どうしてこんな無謀なことをなさるのか、とても正気の沙汰ではないと思うかも知れません。信仰というのは、こういう無茶を平気する人間を作ってしまう、まことに恐ろしいものだという考える人もいるかもしれません。

 しかし、私は崔和植さんの出発を見送りましたが、キリストのために悲壮な決意をして伝道にいくという感じでは、決してないのです。むしろ楽しげであった。奥さんも同じです。やはり、これも復活の主を知る喜びがあるからでありましょう。どんな困難があろうとも、復活の主が共にいてくださる。いったい主はどんな素晴らしい御業をなしてくださるのか。それをこれから見に行こう。そんな思いなのだろうと思います。

 復活の主に出会うことは、主が生きておられるということを知ることであります。しかも、死に打ち勝たれたことを知ることであります。死は人間の最後の敵であると言われます。この世でどんなに多くのものを築いても、死がすべてを無に帰してしまうからです。秀吉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花のことも 夢のまた夢」と辞世の句を詠みました。百姓から上りつめて天下までとり、権力と贅沢を欲しいままにした人生であるにもかかわらず、死を前にしたとき、すべては夢に過ぎなかった、それ以上の人生ではなかったと、空しさに襲われたというのであります。

 しかし、主の復活は、そのような人生の空しさから救われる道、死から命に至る道があることを、私たちに示しているのであります。どんな人も死なないということはありません。しかし、露と落ち、露と消えてゆく空しい死ではなく、罪の赦しが与えられ、神様の愛の中で、生きて来たすべての時間が意味あるものされ、実を結ぶ死を死ぬことができる。そして、すべての重荷を解かれ、慰められ、神様のもとにある平和の中に入れられる永遠の命に入る死を死ぬことができる。主の復活は、このような希望を私たちに与えてくれます。

 復活の主と出会うという経験は、まさにこの希望が確かで真実なものであることを知る喜びがこみ上げてくることなのです。それが、単なる再会の喜びではないと言ったことの意味であります。 
トマスを非難できるか?
 さて、使徒たちは、まことにリアルな形で復活の主に出会い、この大きな喜びを喜んだのでありますが、どういうわけか、一人その場に居合わせなかった使徒がいたのであります。それが今日の聖書に記されていましたディディモと呼ばれるトマスでありました。

 トマスは、家に戻ってくると、今まで主の死を一緒に悲しみ嘆いていた仲間たちが、幸せの絶頂と言わんばかりに喜んでいるのを見ましていぶかしく思ったに違いありません。そして、彼らの口からそのわけを聞きますと、ますます驚き怪しんで「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と、あくまでも言い張ったというのであります。

 こういうことがあったために、私たちはトマスをしばしば頑固で、疑り深い人間の代表として引き合いに出してしまうことがあります。確かに、このトマスの話は、人間の頑固さ、疑り深さというものの弊害を見事に描いていると言ってもよいでありましょう。けれども、それは決してトマスだけの姿ではありませんでした。マグダラのマリアも然り。エマオに向かう二人の弟子も然り。ペトロも然り。他の使徒たちも、みんなトマスと同じ疑いの中にいたのではないでしょうか。唯一、ヨハネだけは空っぽの墓を見た時に信じたということが言われていますが、それ以外の人たちはみんな、復活の主に出会う経験をするまでは、決して信じられなかったのです。カルヴァンは、「トマスのかたくなさは、私たちの良い見本である」と言っています。トマスは特別に疑り深い、頑固な人間ではありません。このような疑り深さ、頑固さというのは、すべての人間が生まれながらに持っている性質なのなのです。

 また、トマスを非難したくないもう一つの理由があります。簡単に信じることが、必ずしも良いとは言えないと思うからです。新興宗教やカルト集団にはまっていく若者たちのルポルタージュを読んでみますと、あまりにも軽薄な理由で入信するケースが多いことに驚きます。教理や教義など何もしらないまま、まるで大学のサークルにでも入るかのような気軽さで入信し、その勢いで教団のマインドコントロールのカリキュラムに組み込まれていってしまうのです。世の中には信じてはいけないものもたくさんあるのですから、疑いを持ち、自分で確かめ、納得しようという姿勢は、非常に大切なことだろうと思うわけです。

 キリスト教の信仰を持つという場合でも同じ事です。盲目になって信じればいいということではありません。本当の信仰の体験には、疑いの体験が必ず含まれているのです。疑いを超えるような体験を経て信仰に至ることによって、その信仰に確信が伴うようになるわけです。しかし、わけもなく信じる盲信には、確信が伴いません。マインド・コントロールされた人間もそうです。恐怖などによって、疑うことができない精神状態にされているだけでありまして、確信ではないのです。

 そうしますと、他の使徒たちがみんな口を揃えて「わたしは主を見た」と言っていても、誰が何と言っていても、自分が納得するまでは信じないというトマスは、信仰というものに対して実に誠実な態度を示しているとも言えるのです。
いかにして、疑いを超えるか
 では、そのような疑う者から信じる者へと変わる道はどこにあるのでしょうか。トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。つまり、自分の目でイエス様の十字架の釘跡を見、その中に自分の指を入れることができたならば、信じられるだろうと言ったのです。けれども、そうでしょうか?

 パスカルという人は、有名な『パンセ』の中で、こういうことを言っています。

 「『奇跡を見たら、わたしの信仰は強められるであろうに』と、人は言う。人がそう言うのは、奇跡を見ないときである。理由というものは、遠くから見ると、われわれの視野の果てにあるように見える。ところが、そこに達すると、さらにその先を眺めようとする。何ものもわれわれの精神の回転を止めることはできない。世にはなんらかの例外をともなわぬ規則はないし、またなんらかの欠陥のある側面を持たない一般的真理もないと、人は言う。それは絶対に普遍的ではない、と言いさえすれば、われわれは現在の問題に例外を適用したり、また「それはいつも真理であるとは限らない。だから、それが真理でない場合もありうる」と言ったりすることが、十分できるのである。ただ残されているのは、現在の場合がその例外であるというのを証明することだけだ。」(『パンセ』二六三、由木康訳)
 
 つまり、奇跡を見れば信じられるというけれども、実はそのような気がするだけで、実際に奇跡が見たとしても、手品を見たのではないかとか、偶然が起こったのではないかとか、それを疑う心が新たに起こってくるだけなのだということが言われているのであります。確かに、奇跡を見た人がみな信じるというなら、イエス様の奇跡を目撃した人すべてが信じてもよかったはずです。でも、そうはなりませんでした。それどころか、信じていた人までも、疑いにかられてしまったのであります。

 では、疑う人が信じる人になるための道はどこにあるのでしょうか。実を申しますと、そのような道はどこにもないのだと、私は思っているのです。人間の頭では、どんなに考えても、主の復活のなど納得できるはずがないのです。ですから、聖書には人間の知恵や努力で、復活を証明したなどという話はどこにも出てこないのです。

 これまで復活の主に出会った人々の話を読んできましたが、すべての共通するのは、自分から復活の主を探し当てた人はだれもないということです。マグダラのマリアにしても、墓でひたすら泣いているところに、主の方から近づいてきてくださいました。弟子集団を離れてエマオに向かっていた二人の弟子の場合も同じです。部屋に鍵をかけて閉じこもっていた使徒たちの場合も同じです。そして、トマスの場合も同じでした。

 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」

 絶対に信じないと疑い続けたトマスのところに、イエス様の方が近づき、み手み足をお見せ下さり、そうしたいなら、この釘跡に指を入れてもいいよ、信じる者になりなさい、と仰ってくださったというのであります。

 復活の主に出会った人々は皆、自分から復活の主にアプローチしたのではありません。人間が生まれながらにもっている悟性、理性、感性、そして霊性によっては、決して死者の復活など信じられないことなのです。先ほどのパスカルは、やはり『パンセ』の中でこう言っています。

 「理性の最後の一歩は、理性を超えるものが無数にあるということを認めることだ」『パンセ』二六七、由木康訳)

 理性では知り得ないことがあるということを認めることまでできるとしても、その理性を越えたものを自分のもとに引き寄せるということは、人間には出来ないのです。理性で辿り着く道はそれが限界なのです。では、理性を越えたものとの出会い、つまり復活の主との出会いというのは、いかにして起こったのか。それは、復活の主が、私たちに体験できるような仕方で近づき、ご自分を顕してくださったからに他ならないわけです。

 しかし、人間の側から復活の主にアプローチする道がない、疑いを超える道はないとすると、疑い続ける人が疑い続けたまま一生を終えてしまうことがあるということなのでしょうか。論理的なそういうことになります。けれども、主の愛は、そういうことを決してゆるさないでありましょう。何のために主が世に来られ、十字架の苦しみを受け、復活させられたのかということを考えれば、主が信じられない疑いの中をさ迷う私たちに出会ってくださらないはずがないのです。

 ただ一つ、トマスが偉いなあと思うところがあるのです。それは使徒たちの中に留まり続けていたということです。他の使徒たちがみんな信じる喜びに溢れている中で、自分一人が疑い続けている。これは結構辛い状態だと思います。それでも、トマスは使徒たちの中に留まっていたのです。そうすると、八日目に、イエス様は再び使徒たちのところに会われてくださり、今度こそ、トマスはそこに居合わせることができた。他の使徒たちと共に復活の主を拝することができたのであります。

 考えてみますと、似たようなことは他の復活の証人たちにも言えます。マグダラのマリアは、空っぽの墓の前で留まり続けていました。エマオに向かう二人の弟子たちは、エルサレムにいた弟子の群れを離れていくのですが、それでも道々話すことはイエス様のことばかりであった。使徒たちは、迫害者たちを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのですが、なおエルサレムに留まり続けていた。そういうことが言えるのです。

 彼らは皆等しく、自分の方から疑いを越えて信じる者にはなれませんでした。しかし、悲しみ続けるにしろ、思い出を紡ぐにしろ、疑い続けるにしろ、形は十人十色でありますが、それぞれ人間の弱さの中に留まりながらも、なおイエス様の御姿を追い求め続けるということは止めていなかったのであります。

 私は、イエス様が山上の説教で約束してくださったことを思い起こします。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

 イエス様が、このようなことをおっしゃった背景には、人間にはどんなに求めても得られないものがある、探しても見いだせないものがある、門を叩いても開けることができない門がある、という前提があったと思うのです。

 しかし、それでもなお求めよ、探せ、見いだせと励ましてくださった。それは生きることに対する真面目さを求められたと言っても良いでありましょう。

 どんなに辛くても、苦しみや悲しみから目をそらして、自分には何事もないような振りをして生きてはいけません。分からないことだらけなのに、悟ったような顔をして生きてもいけません。苦しい時には苦しむ。悲しいときには悲しむ。疑問のある時には問い続ける。それが生きることに対する真剣さ、真面目さです。それが求めること、探すこと、門を叩くことなのです。そうすれば、神様の恩寵として求めているものが与えられ、探しているものを見いだし、閉ざされた門が開かれるであろうと、イエス様は約束してくださったのです。

 それは、突き詰めて言えば、復活の主に出会うということではないでしょうか。復活の主に出会う喜びは、人生の最後の敵である死が敗れたことを知る喜びであると、最初に申しました。私たちの人生を苦しめているあらゆる問題は、死に打ち勝たれた主が今も生きているということを知ることによって、すべて、解決するのです。戦いは続くかもしれません。でも、最後の解決は見えてくるのです。

 トマスが決して自分を誤魔化さずに、疑い続けました。しかも、弟子たちの中に留まり続けました。このようなトマスに、イエス様がご自分を顕してくださったのです。その時、トマスは自分の疑問をイエス様にぶつけたりはしませんでした。お会いした、それだけではすべてが解決し、「わが主よ、わが神よ」と拝したのでありました。

 私は信じます。復活の主にお会いした喜びの中にある者も、まだトマスのように疑いつつ、悩みの中に留まっている者も、いつの日にか、必ず共に生ける主を拝して、このように「わが神、わが主よ」という日が来るでありましょう。その日が来るまで、「主よ、来たりませ」との祈りを捧げて歩む私たちの信仰生活、教会でありたいと願います。


目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp