「復活の証人D 使徒たちに現れる」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書24章36-49節
旧約聖書 詩編145編
幽霊はいるのか?
 今日はいきなり変な話から入りますけれども、皆さんは幽霊をみたことがあるでしょうか? 

 実は、私は幽霊らしきものを見たことがあるのです。高校生の時でした。夜の九時頃、勉強の手を休めて、ちょっと夜風に当たってこようと思い、サッカーボールをもって、近所の市営のサッカーグランドに行ったのです。グランドは住宅街を抜けて密柑山と田んぼに囲まれたような所にありました。本当は入ってはいけないところなのですが、こっそりと門を乗り越えて、一人でサッカーボールを蹴っていました。田舎のことですから、辺りは真っ暗で、人っ子ひとりいませんでした。私はよくそんなことをしていましたから、別に恐いという気持ちはまったくありませんでした。

 ところが、私はそこで青ざめるような経験をしたのです。蹴ったボールがグランドの奥の藪の中に転がっていきました。そこには草むらに隠れるように幅1メートルにも満たない水路が流れていまして、私は足場に気をつけながらボールを拾いました。すると、その水路の中をジャブ、ジャブと人が歩きながら近づいてくるような音がしたのです。びっくりして音がする方みますと、そこには人影はなく、何やら水面にぼんやりと光るものが映っており、こちらに近づいてきたのでした。私は全身に鳥肌が立つような恐怖感がこみ上げてきて、ボールをもって一目散に家まで逃げ帰りました。

 はたして、あれが幽霊かどうかはわかりません。私はだいたい幽霊など信じないし、夜中のお墓の中でも平気で一人歩きができるタイプです。その時の体験も、今では幽霊だとは思っていません。だから幽霊らしきものと言いました。けれども、未だに思い出す度に、「いったい、あれは何だったのだろうか」と首を傾げてしまう説明のできない体験だったのは確かなのです。

 どうして、こんなお話をしたかと申しますと、お気づきの方もいるかもしれませんが、今日の聖書の中に、使徒たちが復活の主をみて亡霊だと思って、非常に怖がったということが書かれているからなのです。

 亡霊や幽霊は、死んだ人が出てくるということです。復活の主は、死んだイエス様が三日目に墓からよみがえられたということです。違うことは分かっているのですが、何がどのように違うのでしょうか。
 
 また、使徒たちは幽霊だと思って怖がったというのですが、裏を返せば幽霊という説明のできない存在を無条件に認めていたことになります。けれども、同じように説明の出来ない存在である主の復活はなかなか信じられませんでした。どちらも信じられないというのなら、まだ話が分かります。けれども、幽霊はすぐに信じてしまうけれども、主の復活はなかなか信じられないというのは、いったいどういう心の働きなのでしょうか?

 今日のところには、イエス様の口からとても明確な答えが出されています。まず、イエス様はこう言われています。

「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」

 「うろたえる」というのは、思いがけない出来事に出会って、慌てふためくことです。使徒たちにとって、復活の主が目の前に現れるというのは、思いがけない出来事でありました。そのために、今自分たちが経験していることはどういうことなのかということがきちんと受け止められなかった。混乱してしまったのであります。

 「どうして、心に疑いを起こすのか」とも、イエス様はおっしゃいました。使徒たちの目の前には、復活の主の事実がありました。しかし、それがあまりにも自分たちの常識、分別というものを超えていたので、素直に認めることができなかったということなのです。よく遣う言葉で言えば、自分の目を疑ったのです。そういう戸惑いや疑い、心の混乱というものが、幽霊という存在を作り出しているわけです。
信仰者は幽霊を見ない
 ですから、幽霊を見て喜んだり、平安になるということはありません。幽霊というのは、得体の知れないものに対する恐怖が作り出すものだからです。私がサッカーグランドで見たものは、今もって正体が分かりません。もしかしたら、正体が分かれば何でもないことだったのかもしれません。しかし、まさに私はその時、うろたえ、心が混乱し、非常な恐怖を感じたのです。ですから、私は直感的に幽霊だと思いました。青ざめた顔をして家に帰ると、母は心配して「どうしたのか」と聞きましたが、私はすぐに「幽霊を見た」と真顔で答えたのでした。

 繰り返しますが、幽霊というのは、得体の知れないものに対する漠然とした恐怖の産物なのです。ですから、正体がはっきりしているときは、幽霊とは言いません。たとえば旧約聖書には、サウル王が霊媒師を使ってサムエルの霊を呼び出したという話があります。霊媒師を使うということは、聖書では神様に禁じられたことなのですが、それでもサウル王はサムエルの霊を呼び出すことに成功するのです。この場合、死者の霊が現れても、正体がはっきりしいているわけですから、幽霊とは言いません。

 あるいは新約聖書では、イエス様が山の上で、モーセとエリヤとお話をなさった、そしてそれをペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が目撃したという話があります。この場合も、正体がはっきりしているのですから、幽霊とはいいません。あるいは、聖書にはサタンとか悪霊の存在も認められています。けれども、正体がはっきりしている場合には、そういうものを幽霊とは言わないのです。逆に、疑いの心があれば、イエス様ですから幽霊になってしまうというわけなのです。

 ですから、ちゃんとした信仰をもった人は、幽霊というものをいたずらに怖がったりはしないものなのです。それは霊的な存在を認めていないからではなく、逆に霊的な存在を認めているからです。

 霊的な存在というのは、私たちがいつも見たり、感じたりすることができるものではありません。また、先ほどは正体が分かっているという言い方をしましたが、正確に言えば何もかも分かっているわけではありません。しかし、神であれ、サタンであれ、聖霊であれ、悪霊であれ、そういうものの存在とか世界があるということを認めつつ生活しているのです。認めるだけではなくて、どうしたら神様と共に生活できるのか、どうしたら悪魔を退けて生活できるのか、そういう霊的な知恵と知識を、御言葉によって学びつつ生活しているのです。

 そういう備えがありますから、私たちの分別を超えるような経験があっても、決してそれはまったく予期しない出来事とはいえません。一時的に心が混乱するかもしれませんが、その混乱を収拾させる知恵と知識も持っているはずなのです。

 そして、それは聖書のうちにあります。もし、使徒たちが、主の御言葉をしっかりと覚えていれば、主の十字架も、復活も、決して思いがけないことではなかったはずなのです。イエス様は、そのことを明確な形で、弟子たちに予告しています。たとえば『マタイによる福音書』16章21節には、このように記されています。

 「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」

 「このときから」とありますように、その後もイエス様はそのことを折々に、また様々な角度から、弟子たちにお伝えになるのです。それにも関わらず、使徒たちは主の十字架を見て失望し、復活の主を見て恐れてしまいました。それは、御言葉が、彼らの心の中にしっかりと根を下ろしていなかったからなのです。

 そこで、イエス様は使徒たちに改めてそのことを教えられたということが書かれています。44-48節

 「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。』」
 
 ここでイエス様が言われていることは、初めて説き明かされたことではなく、前々から言っておいたことだったのです。そのことがきちんと心にあれば、いっときは戸惑いもし、恐れもするでありましょうが、すぐにまた御言葉によって「ああ、まさしく主が言われたとおりだったのだ」と、目が開け、真実を悟り、主の復活という事実を喜びをもって受け入れることができたに違いないということなのです。

幽霊と復活の主の違い
 それから、幽霊と復活の主の違いということも、主の言葉をもとにして考えてみたいと思います。イエス様は、こう言われました。

 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
 
 「幽霊には肉も骨もない」と言われています。私たちはよく、「幽霊には足がない」というのですが、イエス様も同じようなことを言っておられるのが面白いと思います。「肉や骨がない」ということは、別の言い方をすれば、捕らえることができないということです。先ほどの「得体の知れない」ということにつながってくることなのです。

 それに対して、イエス様は「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われます。さらに「触ってよく見なさい」とまで言われます。得体の知れない幽霊に対して、復活の主は「まさしくわたしだ」とご自分をはっきりとお示しになるのです。さらに、つかみ所のない幽霊に対して、復活の主は「触ってよく見なさい」と言われるのです。

 ここで言われているのは、復活の主とは、確かな手応えをもった存在であるということです。それは、確かめることができる存在であり、捕らえ、つながることができる存在であるということであります。

 私たちは、復活の主を、実際に目にしたわけではないと思います。触ったこともないだろうと思います。時々、「私は見た」とか「触れた」という人がいますし、そういうことを私は否定しないのですが、それでも多くの場合、目で見たり、手で触れたりして信じているわけではないのです。

 しかし、だからと言って、「聖書に書いてあるから信じる」とか、「人が言ったから信じる」というようなあなた任せの信仰でないことも確かなのです。目で見るとか、手で触るということとは違いますが、どこかで「確かに、主は生きておられる」という手応えを感じて信仰をしているのです。

 その確かな手応えというものがなければ、信仰生活は成立しません。逆に言うと、信仰生活というのは、復活の主の手応えを感じながら生活していくことなのです。

 たとえば、教会の交わりの中に主の愛を感じるということもあります。日々の生活の中で主の導き、主の助けを感じるということもあります。罪に対する恐れを感じるということもあります。耐え難い試練の中にありながら、神の摂理を受け取るということもあります。このように、生ける主が共におられるということを実感しながら、その確かに依り頼んで生きていくこと、それが信仰生活なのです。

 そういう実感の中で、聖書を読みますと、それが単なる教えの書ではない、知恵の書ではない、まさしく私に語り給う神の言葉だということもまた実感されてくるわけです。
礼拝の中で
 ところで、今日の話の中には、イエス様が魚を食べられたという話が出てきます。前回、エマオに向かう二人の弟子の話をしたときにも、食事の時に目が開け、イエス様が共におられることが分かったということが出来てきました。やはり食事なのです。イエス様は「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と仰っておきながら、また「何を食べようかと思い煩うな」とも仰っておきながら、色々な人と食事をなさいましたし、「大食漢だ」(つまり「くいしんぼう」)と揶揄されたりもしたと聖書に書かれているのです。

 イエス様は、確かに食事を大切になさいました。食事というのは、単に食欲のためだけではなく、愛の交わりに与ることだったからです。最近は個食などと言って、家族でありながらバラバラに食事をするという家が多いと言われますが、やはりそれは問題だろうと思います。たとえ食事の時間がずれても、誰かが一緒に食卓に座って時間を共有するということが必要なのではないかと思います。食事というのは生きるための基本であります。それを共にするということによって、私たちは生活を分かち合っているということを実感するのです。

 そして、イエス様はまさに私たちと生活を共にされようとする御方であるということなのです。毎日の食事において、私たちはイエス様を感じることができるならば、私たちは生活のすべてをイエス様と分かち合っているという実感を持つことができるに違い在りません。毎日の食事は、私たちの礼拝でもあるわけです。

 逆に、礼拝は食事であるという言い方もできます。肉の糧ではなく、霊の糧を、主との交わりの中で戴く、これが礼拝なのです。この礼拝の中で、私たちは復活の主のご臨在を経験し、また御言葉によって目を開かれる。これがあってはじめて、主と共なる私たちの一週間の生活があるのではありませんでしょうか。
神に帰る道
 
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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