「復活の証人C エマオに向かう二人の弟子」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書24章13-35節
旧約聖書 詩編23編
年頭の挨拶〜幸せをもたす人生観〜
 新年を迎え、今日は日本中の人々、世界中の人々が、一年の幸を願って過ごしているに違いありません。けれども、何をもって「幸せ」というのか。その答えは、人によってまちまちです。人生をお祭りだと思っている人は、楽しい時に人生の至福を感じるに違いありません。人生を競争だと思っている人は、他人より一歩抜きん出たところにいることにこの上ない優越感と満足感を感じることでありましょう。人生を戦いだと考える人は、勝負に勝った時に幸福感を味わうでありましょう。人生を舞台だと考える人は、主役を演じている時こそが人生最高の一瞬であると感じるに違いありません。「幸せ」というのは十人十色でありまして、その人の人生の見方によって違ってくるものなのです。

 そうしますと、逆に人生の見方が変わるならば、たとえ不幸な人間も幸せになることができるということではないでしょうか。楽しくない人生はつまらないと嘆いている人も、敗北感に打ちひしがれている人も、「楽しいだけが人生ではない」とか、「人に勝つことだけが人生ではない」ということを考えるようになりますと、別の幸福感というものを味合うことができるようになるのです。年の始めに、一年の幸を願うことも真に結構なことでありますが、それよりも何よりも、どんな人生観を持つのか。そのことが大切だと思うのです。

 楽しいばかりの人生などありません。すべての勝負に勝つことができる人生もありません。常に自分が主役である人生もありません。楽しいことが人生であるとか、人に勝つことが人生であるとか、そんな薄っぺらな人生観に生きている人は、幸せも薄っぺらでちょっとしたことで失われやすいものになってしまうのです。

 ところが、イエス様は「貧しい人は幸いである」、「悲しんでいる人は幸いである」、「重荷を負う人は幸いである」、「義のために迫害される人々は幸いである」と言われました。貧しくても、悲しんでいても、重荷を負っていても、迫害されていても、なお幸せであると言えるなら、その人は大抵のことがあっても幸せを失うことがありません。「幸せ」と言っても、浮かれた気持ちで過ごせるということではありません。辛い時は辛いし、悲しいときは悲しいに決まっています。けれども、そんな時にもすねたり、絶望したりせず、人生をいつも肯定的に、前向きに受け止めて生きることができる。それが幸せということでありましょう。そういう幸せをもたらす人生観をしっかりと持つことこそが、漠然と一年の幸を願うことよりもずっと大事なことであると、私は思うのであります。

 とはいえ、人生観などというものは一朝一夕に築き上げられるものではありません。そこで、私たちには「聖書」と「教会」が与えられているのです。この二つのものは、神様が私たちの人生を守り導くために与えてくださった本当に大きな恵みの賜物です。この一年も、この二つの恵みに守られ、導かれて、神様が私たちに与えてくださる人生の一日一日をしっかりと歩んでまいりたいと願うのです。
落胆の道
 さて、今日は「エマオに向かう二人の弟子」のお話の続きです。クリスマス前のことですが、すでに二回、私たちはこの物語について学んできました。今朝は、特に「道」ということに注目して、この物語を読み解いてみたいと思うのです。

 二人の弟子が歩んでいたのは、エルサレムからエマオに下る道でありました。道のりにして約十二キロ、エルサレムから西へ向かう道でありました。二人にとって、この道は、いったいどういう道だったのでしょうか。

 第一に、それは落胆の道でありました。二人はこう言っています。 

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」

 イエス様に初めて出会った時の感動も、弟子入りを果たした日の熱い思いも、奉仕に明け暮れながらも充実感していた日々も、ただイエス様と共にいるということだけで至福の思いに浸っていた日々も、すべては過ぎ去ってしまったことだ、というのです。

 私たちの信仰生活にも、このような危機が訪れることがあります。信仰生活の喜びや恵みが、すべて過去のものになってしまって、今この時、イエス様が共にいてくださるという喜びが感じられなくなってしまうのであります。そうなると、私たちの信仰生活というのは力を失ってしまいます。喜びがあるから感謝が生まれてくる。感謝があるから、イエス様にお応えしようという私たちの信仰生活が生まれてくるのです。

 しかし、私たちが落胆しているとき、本当に喜びはなかったのでしょうか。彼らが落胆の中を歩んでいたのは間違いありません。けれども、その中にもちゃんとイエス様がいらっしゃったのだと言うことが、聖書には書かれているのです。

 「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」

 人生には順風満帆な時ばかりではなく、逆境にあえぐような時も必ずあります。力が漲っている時ばかりではなく、落胆し、意気阻喪力する時も必ずあります。けれども、そういう時も含めて、私たちの道にはいつもイエス様が一緒にいてくださるということなのです。ただし、そのことに二人はまったく気づいていないのです。

 「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」

 彼らは落胆の道を歩いていました。イエス様がいないからではありません。イエス様はそばにいてくださいました。しかし、そのことに気づかずに歩んでいたのです。私たちもこのような落胆の道を歩くことがないでしょうか。

 先ほど、人生の見方が、私たちの幸せにもするし、不幸にもするのだと申しました。イエス様がいるのに、いないという人生の見方をしているならば、私たちは幸せを感じようがないのです。この一年間、私たちがどんなに道を歩くことになるか、それは分かりません。分かりませんが、一つだけはっきりしていることは、どんな道であってもそこにはイエス様がいらっしゃるということであります。

 ダビデの詩編23編はまさにそのような信仰を詠ったものでありましょう。

 「死の陰の谷を行くときも
  わたしは災いを恐れない。
  あなたがわたしと共にいてくださる。」

 「神も仏もいない」というのは、落胆した人間の気持ちを表す言葉かもしれませんが、正しい人生の見方ではないのです。たとえ、私たちがそのような気持ちに駆られたとして、それでもなお、

 「主は羊飼い、
  わたしには何も欠けることがない。」

との人生の確信をもって、一年を歩む者でありたいと願います。
学ぶ道
 第二に、彼らの道は信じるための道でありました。はじめに、彼らの道は落胆の道であり、且つなおイエス様が共にいてくださる道であった。そうすると、それは単純な落胆の道ではなく、信じるための道であったと言ってもいいのではありませんでしょうか。イエス様は、彼らにこう言われたと書かれています。

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

 心が鈍い、つまり鈍感であるということです。感じ取り、受け止めることができないのです。何に対して鈍感なのでしょうか。預言者たちの言葉です。預言者は自分の考えではなく、神様の言葉を伝えたのですから、神の言葉に鈍感であると言い換えてもいいと思います。よく聖書は難しいと言われます。しかし、イエス様は、それは難しいのではなく、神様の御心に対して鈍感であるから、それが通じないのだと仰るのであります。

 確かに人間関係においても同じ事が言えます。気持ちが通っていないと、どんなに多くの言葉を交わしても、なかなか理解できないのです。そして、もっとことのことをよく考えてみますと、それは自分の気持に固執して、聞こうとする気持ちがないことが原因であるということが分かるのです。

 鈍感でない人間になるためには、感じ取ろうとする受け身の心が必要です。聖書もそうなのです。信じられるとか、信じられないとか、出来るとか、出来ないとか、自分の気持ちを中心に据えて読もうとすると、神様のお心というもがまったく感じ取れなくなってしまいます。だから、難しいのです。

 では、どうしたらいいのでしょうか。聖書は読むのではなく、語られた神の言葉として聞くという姿勢が必要なのです。自分がどう思うかではなく、神様がどのようにお考えになり、何と語っておられるのか。そのことを素直な心で傾聴することが必要なのです。

 イエス様は、この二人の弟子に、改めて聖書全体にわたって説き明かしてくださったと言われています。それを聞いているうちに、二人の弟子の心の中に何かしら熱いものがこみ上げてくるのです。

 「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」

 彼らは落胆の道を歩きながら、それとは知らずにイエス様の教えと導きを受け、再び神の言葉に聞く者、信じる者へと変えられていったのであります。

 恥ずかしい話なのですが、私が一番聖書をよく読んだのは、自分自身が落胆し、苦しみ、悩んでいる時でした。その頃は、一年で聖書がボロボロになり、毎年買い換えなければならないほどに、聖書を読みました。苦しみというのは、自分を打ち砕きます。その打ち砕かれた心があってはじめて神様の言葉が心の奥底まで染みてくるということがあるのです。これは苦しいときだけ聖書を読めばいいという話ではないのですけれども、そういうときにこそ私たちが本当に信じる者になるための学びをすることができる時であるということは言えるのではないでしょうか。
夜明けへの道
 落胆の道、信じるための道ということをお話しして来ました。ここでちょっと文学的な表現を用いまして、二人の弟子たちの道は「夜明けへの道」であったということを申し上げておきたいと思います。

 最初はそうじゃないのです。エルサレムからエマオに行く時の彼らの道は、日没に向かう道でありました。これは時間的、また方角的にも、ちょうど日が沈んでいく時間、エルサレムから西に向かって歩いていたということもそうですが、精神的にも希望から落胆へ、喜びから悲しみへと、明るさから暗さに向かって歩んでいたのであります。

 しかし、彼らの道はただそれだけのものではありませんでした。一見、夕暮れの道を、淋しく歩んでいるようでありましたが、実はイエス様の導きを戴いて、二人の心の中には確実な変化が起こっていたのであります。

 「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」

 そのようなことを心に感じながら、二人はエマオへの道を歩き、エマオに到着すると、もっともっと「あなたの話をきかせてください」と、イエス様に願うようになっていました。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」

 そして、彼らはついにそこで、今まで一緒に道を歩いてくださった方が、イエス様であるということに気づくことになります。

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

 イエス様がパンを裂いて、弟子たちにお渡しくださる。これは聖餐式を意味しているようにも思えます。しかし、これは何か特別な儀式が行われたということを言っているのではありません。ユダヤ人の家では、主人たる人がこのようにパンを割いて家族に渡すのです。そのようなありふれた食事の光景がここに描かれているのだと言って良いと思います。

 私たちは毎日食事をします。食べるということは、生活の基本なのです。その基本の部分において、イエス様が主人として振るまってくださっている。私たちの生活が、イエス様に根ざし、支えられているということを意味します。教会の聖餐式はもちろん大事です。しかし、日々の食事の中で、イエス様が主であるということを私たちは認めているでしょうか。もし、イエス様が私たちの日々の生活の糧を与えてくださる御方であることが分かるならば、私たちの生活全般もまたイエス様において満たされていることが分かるでありましょう。二人の弟子は、自分たちにパンを与えてくださるイエス様を見たときに、それが主であることが分かったというのであります。

 しかし、それと同時に、イエス様の姿が見えなくなったと言われています。信じられない時は、イエス様が見えているにも関わらず、それがイエス様だと分かりませんでした。しかし、信じた時には、イエス様が見えなくなったけれども、イエス様が共にいてくださるということが彼らの心にはっきりと分かったのであります。

 そして、彼らはただちにエマオを出発し、エルサレムに向かいました。外はすでに真っ暗になっていたはずです。しかし、今度は東に向かって、日の昇る方に向かって歩き出したのです。それが、この物語のもっとも大切なポイントであります。

 私たちの人生も、時として落胆の道を、日没に向かって歩いているような時があります。しかし、そのような時にも、実はイエス様が共にいて導いてくださり、夜明けに向かって歩み出す者へと造り替えてくださるということなのです。

 この一年、私たちはどんな道を歩むことになるのでしょうか。それはだれにも分かりません。しかし、どんなに暗さが増していくような道であったとしても、なおそこにイエス様がおられて、私たちの歩みを夜明けに向かうものへと導いてくださる、そのことを信じて参りたいと思います。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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