「復活の証人B エマオに向かう二人の弟子」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書24章13-35節
旧約聖書 イザヤ書65章1節
主が共にいてくださる
 先週に引き続き、今日もエマオに向かう二人の弟子のお話しです。それは、十字架でイエス様がお亡くなりになってから、三日目の夕暮れのことでありました。イエス様という大切な人生の導き手を失った二人の弟子は、悲嘆に暮れ、失意のうちに、エルサレムからエマオに下る道をトボトボと力なく歩いていました。しかし、そのような道すがら、復活の主が、彼らに近づき、話しかけ、彼らの悲しみと失意に満ちた道を一緒に歩いてくださったというのです。

 イエス様は人間のあらゆる道を一緒に歩いてくださる御方です。昨今のニュースを見ていますと、明るい道を歩んでいたはずなのに、一夜にしてその道が真っ暗になってしまった人たちのことが、毎日のように伝えられています。健やかに育つ幼い子どもがいる家庭は、本当に明るいのです。私なども、気持ちが沈み込んでいる時、幼い我が子の屈託のない笑顔に励まされたことが何度もありました。そのように幼い子どもの命というのは、家庭に明るさをもたらす太陽のような存在です。その尊い命が、まったく理不尽な仕方で奪われてしまったというのです。

 あるいは、誰でも借金など負って生きたくないものですが、それに関わらず大きなローンを背負って、新しい家を買った人たちは、お金には換えられない大切な夢をそこで買ったつもりだったのでありましょう。夢もまた、私達の人生に明るさをもたらすものです。しかし、心ない人たちによって不良マンションを買わされてしまった為に、彼らの大切な夢は一夜に露と消え去り、重たい借金だけが跡に残ってしまいました。

 このような被害者の苦しみ、悲しみを考えますと、本当にやり切れない思いがいたします。それは、決して他人事だと思えないからです。今日にも、明日にも、私たちの人生が明るさの中から暗さの中に転落することがないとは言えません。残念ながらイエス様は、弟子たちに対しても、何事もない平穏な人生を約束してはくださらなかったのです。それどころか、あなたがたには悩みがある、試練がある、苦しみがあるということを、再三お告げになったのでした。

 しかし、そのような時にも、わたしはあなたがたを決して独りに捨て置きはしない。どんな時にもわたしがあなたがたと共にいると約束してくださいました。私たちが信じなければならないのは、平穏な人生ではなく、どんな道を歩くときにも、主が共にいてくださるということなのです。

 以前にも紹介したことあるのですが、多くのクリスチャンに共感を与えている、『足跡』という詠み人知らずの有名な詩があります。

 ある夜私は夢をみた
 イエスさまと一緒に 砂浜を歩いていた
 私の人生の ひとこまひとこまが
 空いっぱいに 映しだされた
 どの場面にも 
 二人の足跡が 砂の上についていた
 ひとつは私のもので
 もうひとつは イエスさまのものだった
 私の人生の最後のシーンが 映し出されたとき
 私は砂の上の足跡をふりかえってみた
 なぜか ところどころ 一人分の足跡しかないことに気づいた
 しかもそれは私の人生の どん底で 
 いちばん悲しい時だった
 私はどういうことか わからず イエスさまにたずねた
 『イエスさま 私があなたに従うと決心してから
  いつも一緒に歩いてくださると
  約束してくださったではありませんか
  それなのに私の人生で 一番辛い時
  一人分の足跡しかないのです
  なぜ私があなたを最も必要とした時
  私をみすてられたのですか 』
 イエスさまはこう言われた
 『私の大切な子よ
  私があなたから離れたことは いちどもなかった
  あなたが試みにあって苦しんでいた時
  一人分の足跡しかないのは そのとき
  私はあなたを背負っていたからだよ』

 この詩もまた、イエス様が私たちのあらゆる道を一緒に歩いてくださる御方であるということを物語っているのです。 
見えないイエス様
 しかし、この詩人もそうですが、エマオに向かう二人の弟子も、イエス様が一緒に人生を歩いてくださっていることが、最初は少しも分からなかったというのであります。先週はこのことについて、すなわち彼らの目を遮り、復活の主を見えなくしていたものは、いったい何であったのかということについて詳しくお話をいたしました。今日はごく簡単に申しますけれども、要するに彼らの心が悲しみのあまり、混乱していたからなのです。

 私たちも似たような経験をいたします。悲しみで胸が一杯になるとき、悩みが心から離れない時、あるいは激しいに怒りで頭がかっかと燃え盛るとき、心が盲目となって、目の前にある事実をきちんと見ることができなくなってしまうのです。

 宗教改革者ルターでさえ、そのような時があったといいます。ルターは強靱な精神をもって、多くの戦いを勝ち抜いた信仰の強者です。しかし、ある日、極端に落ち込んで、頭を抱え、部屋にずっと閉じこもっていました。心配した妻カタリーナ・ウォンボーラが、ルターの部屋を訪ねます。ルターは、彼女が喪服を着ているのに気がつきました。誰か身近な人がなくなったのでありましょうか? 「誰の葬式か」と、ルターは尋ねました。妻カタリーナは悲しく暗い顔をして、「神様のお葬式です」と静かに答えたそうです。「馬鹿を言うな。神様は死なない」と、ルターは妻を叱りました。すると、「それなら、どうしてあなたはそんなに落ち込んでいらっしゃるのですか」と、妻カタリーナはルターにやり返したというのです。

 信仰とは、見えない事実を認めることです。神様の存在にしろ、復活の主の御姿にしろ、それは信仰がなくては認めることができません。「神様は死なない」ということもそうです。信仰が働いている時には、たとえ目で見ている現実がどんなに厳しい状況であっても、その中に生ける神さまがいらっしゃることを認めることができるのです。そして、それが力の源となって、私たちの心に勇気を湧き立たせ、不屈の希望を与えるのです。しかし、信仰が萎えてしまっているならば、いくら「神は死なない」という事実を知っていたとしても、何のリアリティもない、従って私たちの魂にどんな力も与え得ない、只のお題目になり下がってしまうのです。
大切なことは、心に起きる出来事であります。それがなければ、見たこと、聞いたこと、知っていることは、何の意味ももたらしません。

 たとえば、教会は神の家だと言われます。皆さんも、今日、教会にいらっしゃった時、もう一つの自分の家に帰って来たような、懐かしい思いを感じられたかもしれません。初めて教会に来たような方であっても、教会に何か懐かしいものを感じたとおっしゃる方がいるぐらいなのです。しかし、私自身、経験があることですが、信仰が萎んでしまっているときには、そして霊的な神の事実を認めることができない魂の状態に陥っている時には、教会に来ても、何も感じられなくなってしまうのです。毎週、本当に喜んで通っていた教会であっても、その時には、まるで他人の家にいるような違和感さえ感じたのでありました。

 聖書もそうです。聖書は神の御言葉です。しかし、聖書を読む人が皆、そこに神の言葉を見いだすわけではありません。時々、聖書が古本屋に置いてあるのを見ることがあります。誰かが手放したのでありましょう。つい、いたたまれない気持ちになって買い取ってしまうことがあるのですが、信仰がなければ、聖書も他の本と何も変わらないものだということなのです。
 
 そして、復活のイエス様と出会いということも同じなのです。確かに、イエス様は体をもって復活をなさいました。そして、その体をもって弟子たちに現れ、語りかけ、彼らの道を一緒に歩いてくださいました。弟子たちの目は、ちゃんとその復活の主の体を見ましたし、復活の主の声を聞き、会話もしました。しかし、彼らの心には何も起こらなかったのです。赤の他人と出会った時と同じだったのです。それは彼らの心が、あまりにも大きな失意と悲しみに捕らえられていて、見えない神の事実を認める信仰が萎えてしまっていたからです。 
一人も滅びることなく
 しかし、イエス様のほうは、逆に彼らがそういう霊的枯渇状態にあるという現実を、よく知っていてくださったのであります。彼らはもはや弟子と言える状態ではなく、かと言ってまったくの無神論者、偶像礼拝者でもなく、敢えて言ってみれば「貧しき信徒たち」でありました。イエス様はそのような貧しき信徒たちに、恵みをもって近づいてくださり、御教えをもって共に歩んでくださり、最後には彼らと共に宿る方になって、再び彼らを信仰の喜びに溢れた弟子、その喜びを世に伝える証し人としてくださった。そのようなイエス様の愛と救いの物語が、今日の御言葉の中に描かれていたのであります。

 そのことは、総じて言えば、最初にお話ししましたように、イエス様は人間のあらゆる道を一緒に歩いてくださる御方であるということを物語っています。しかし、さらに具体的に、場面ごとに、イエス様の愛を見てみますと、本当に豊かにして細やかなるイエス様の恵みに溢れたお心が、そこかしこに見いだされるのです。

 第一に、イエス様は、信徒たち一人も滅びることなく救われることを願っておられるということです。私はこの物語を読みますとき、『ヨハネによる福音書』3章16節の御言葉を思い起こさざるを得ません。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 一人も滅びないこと。それが、信仰を失いかけたこの貧しき信徒たちに向けられている、イエス様の一番根底にある思いなのです。

 彼らは、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と、イエス様にすべてを捧げて従った日々を、すでに過去のものとしています。もう、イエス様との関係は終わったと言っているのです。しかし、イエス様のほうは、この二人との関係を決して終わりにしてはいませんでした。もう彼らが違う方を向いて歩き始めているというのに、イエス様は彼らをなおも弟子として愛し、教え、導こうとなさるのです。

 いったい、この二人は、イエス様にとってそんなに大事な弟子であったのでしょうか? この問いが、何か特別に役に立つ弟子であったのかという意味であるならば、必ずしもそうとは言えません。この二人が、後にイエス様のために何か特別な働きをしたかということは、聖書に何一つ語られていないのです。というよりも、彼らが聖書に登場するのは、これっきりなのです。

 何ができるのか、そういうことにイエス様は関心をお持ちになりません。イエス様にとって大切なことは、存在そのものなのです。すべての人が、神の大きな愛によって形作られ、この世に命を与えられた存在です。その存在そのものに、愛すべき十分な理由があるのです。

 33節を見ますと、復活のイエス様はペトロにも現れてくださったということが書かれています。

 「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。」

 この世的に考えれば、ペトロがどのように主にお会いしたのかということの方もたいへん興味があるし、重要な出来事だったと思えるのです。しかし、聖書は、そのことについてはこれ以上のことは何も書いていません。その代わり、脱落者である二人の弟子が、復活の主にお会いして戻ってきたということを、大きな喜びとして、主の愛の証しとして、詳細に伝えているのです。

 思いますに、この二人の弟子は、この後、ずっと「こんな私たちをも、イエス様は見捨て給うことなく、お救いくださった。ましてや、あなたが救われないことがあろうか」ということを、ただそれだけをずっと語り続けたのではないでしょうか。私たちもイエス様のために何か立派な働きができるわけではないかもしれません。しかし、「こんな私を救ってくださった」と、そのことを感謝に溢れて、喜びをもって語り続けることはできるのではないでしょうか。

 世界中で歌われている「アメイジング・グレイス」という讃美歌があります。無神論者で、奴隷船の船長であったジョン・ニュートンが、嵐の中で主の救いを経験し、牧師となって作った自伝的な讃美歌です。讃美歌第二編167番にありますけれども、大塚野百合さんが訳された直訳の詞をご紹介したいと思います。

 驚くべき恵みー何とときめかせる言葉かー私のような無頼漢をさえ救
 いたもうたとは! 私はかつて失われていたのですが、今や神に見い
 だされ、かつて目が見えなかったのですが、今や見ることができます。

 み恵みが私に恐怖を教え、その恵みが私を恐怖から救ってくれました。
 そのみ恵みは、何と貴く見えたことでしょうか、私が初めて信じたとき
 に!

 多くの危険、困難や誘惑を私はくぐり抜けてきました。み恵みがここま
 で私を安全に導いてくれたのです。そしてみ恵みが私を天のふるさとに
 導いてくれます。

 主は私に恵みを約束されました。主のみ言葉に私は望みをおきます。主
 こそ私の楯、分け前です、私が生きるかぎり。私の心と体が弱り、地上
 の生が終わるとき、天国において喜びと平安が与えられるのです。

 大地はやがて雪のように溶け、太陽も光を失うときがきます。しかし、
 私を地上において招きたもうた神は、とこしえに私のものです。

 アメイジング・グレイス、それはこんな私をも救って下った驚くべき主の愛、主の救いということです。この歌が、世界中の人々の心を打つのは、メロディーの美しさもそうですが、このメッセージこそ主の愛を端的に言い表した福音そのものだからではないでしょうか。

 そして、このような体験を、私たちに一人一人に与えてくださるのは、イエス様の御心の根底に、「一人も滅びることなく、永遠の命を得させたい」ということがあるからに違いないのです。

 このエマオに向かう二人の弟子の物語の中には、まだまだお話ししたい多くの主の愛がちりばめられています。ウィリアム・バークレーという人は「これはもう一つの不朽の短編である」といっていますが、それほど多くのことを語りかけてくる物語なのです。しかし、今日はもう時間がありませんので、この続きは、2006年1月1日の元日にお話しさせていただくことにしたいと思います。きっと一年のはじめに相応しい御言葉が私たちに与えられることと思っております。
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