「復活の証人A エマオに向かう二人の弟子」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書24章13-35節
旧約聖書 イザヤ書9章1-6節
もう少し、マリアの話を
 先週は、復活のイエス様に出会った最初の証人としてマグダラのマリアのお話をしました。今日は彼女の話を少し補足しまして、それから次のお話に進みたいと思います。

 マグダラのマリアが復活の主、イエス様にお会いしたのは、イエス様が十字架上で息を引き取られ、葬られてから三日目の、日曜日の朝早くのことでありました。実はこのとはとても大切なことでありまして、今日、世界中にあるキリストの教会が日曜日の朝に礼拝を守っているということは、このことに由来しているわけであります。

 マグダラのマリアは、聖書によりますと、七つの悪霊に取り憑かれていたと書かれています。私が子どもの頃、オカルト・ブームの火付け役となった「エクソシスト」という恐怖映画が流行りました。リーガンという女の子に取り憑いた悪霊と悪魔払いの神父が対決をして、女の子を救い出すという内容だったと思います。悪霊に憑依されたリーガンはみるみる形相が変わり、目を見開き、声も恐ろしげな悪魔の声になり、首が360度ぐるりと回ったりして、私はあまりの恐怖に何度もかぶっていた帽子で目を覆いました。しかし、聖書で悪霊に取り憑かれるというのは、決してこういうことを言っているのではないのです。

 聖書でいう悪霊とは、精神病のことだと説明する人もいます。私は、それも違うと思うのです。精神病の人が悪霊に憑かれているとは言えないし、精神病でない人が悪霊に憑かれていないとは言えないのです。悪霊は、手段として人間の身体や心を襲い、人を病気にさせることもあるかもしれません。しかし、すべての病気が悪霊の仕業だとは言い切ることはできません。悪霊の目的はもっと深いところ、つまり私達の人格に入り込んで、それを支配し、破壊することにあるのです。

 たとえば日本では「鬼になる」という表現があります。激しい憎しみに捕らわれて復讐の鬼になるとか、他のことを一切顧みない仕事の鬼になるとか、人間とは考えられないような残虐さをもった殺人鬼になるとか・・・・。このように人間というのは、まったく人が変わってしまうことがあります。それは、激しい憎しみ、抑えがたい欲望、歯止めの利かない思い上がり、そういったものが私達の人格に入り込んで、どうしようもないほどに支配し、破壊してしまうことによって引き起こされるのです。あるいは極度の自信喪失、底なしの悲しみ、不安、そういったものに縛られることによって、自暴自棄になったり、自殺願望に取り憑かれたり、現実逃避に陥ることもあります。猜疑心に取り憑かれた人間、際限のない不安に取り憑かれた人間、このように私どもの人格が壊し、罪や恐れ、絶望や疑いに縛られた人間にしてしまうことこそ悪霊の仕業だと、私は考えています。

 もちろん、それは人をも非常に苦しめますが、自分自身も相当に苦しいことに違いないのです。医学的な治療で癒されるわけでもなく、人間的な愛や励ましで立ち直れるわけでもなく、誰にも手がつけられない、どうにも手がつけられない人間になってしまうのです。マグダラのマリアは七つの悪霊に取り憑かれていたというのですから、その苦しみのいかばかりのものであったことでしょうか。私達の想像を超えた大きな苦しみであったに違いありません。

 しかし、そのような事は、私達に縁のない話なのでしょうか。私達の魂は、悪霊のような気味の悪いものに蝕まれることはない、まっとうな魂だと言い切れるのでしょうか。クリスチャン劇作家の高堂要という方が、マグダラのマリアに思いを寄せてこんな文章を書いています。

 「だれの心のなかにも、恐らく奥底に、ひとつの分身としてマグダラのマリヤが棲んでいる。恥ずべき、消しようのない過去を秘かに抱えこんで、どうしようもなく心うなだれているマリヤ・・・・。世の識者、賢人から蔑まされ疎まれ虐げられているばかりでなく、仲間ともいうべき民衆からも爪はじきにされ馬鹿にされ踏みつけにされているマリヤ・・・・。さらに、最後に縋りつこうとして、ひれ伏して躙り寄る、救いの場所、神殿からも疎外されて、どこにも行くべき所、頼るべき所、寄るべき所を失ってしまっているマグダラのマリア・・・・。
 少なくとも私は、救いようのない、恥ずべき、打ちひしがれたマグダラのマリヤを、私の内部に、否みがたく、かかえ持っている。切り棄てることも、無視することも、救拯することも為しえないで、ひたすら、恥部として、かかえこまされている」(石井美樹子、『マグダラのマリヤ』)

 私も、高堂要さんとまったく同感なのです。そして、このようなマグダラのマリアが、救い主イエス様と永遠の絆に結ばれた出来事、それが復活のイエス様との出会いだったのです。そのような本当に素晴らしい出来事が、日曜日の朝に起こった。私達が日曜日の朝ごとに礼拝を守るのは、そのことを故なのです。私達もまた、マグダラのマリアと共に、そのような救い主との出会い、また永遠の絆の中に招かれていると信じるからなのです。 
エマオに向かう二人の弟子
 さて、次なるお話は、その日曜日の夕べのことであります。荒川教会は朝の礼拝と共に、夕べの礼拝を守っていますが、これは荒川教会に限ったことではありません。夕べの礼拝もまた多くの教会が大切に守ってきた礼拝の時間なのです。

 聖書によりますと、マグダラのマリアが復活の主にお会いしたその日曜日の夕べ、二人の弟子がエルサレムからエマオに向かって歩いていた、とあります。一人はクレオパという、ここだけに出てくる弟子であります。もう一人の弟子は名前がないので分かりませんが、当時、イエス様の弟子は、十二使徒を筆頭に百二十人ばかりがエルサレムに集まっていました。いずれにせよ、その中の二人であったに違いにありません。

 二人が向かっていたエマオという村については、今日どこにあるのか特定することはできません。エルサレムから六十スタディオンばかり離れていたと書いてあります。ちょっと余計な話ですが、オリンピックの発祥の地であるギリシャのオリンピアの競技場には、スタートからゴールまで192.27メートルの直線走路があります。この走路をスタディオンと言いまして、今のスタジアムの語源でもあるそうです。ということで、六十スタディオンというのは、192.27メートルを六十倍しますと11536.2メートル、約十二キロ、三里の道ということになります。歩いて二、三時間というところでしょうか。

 多分、この二人はエマオ出身の弟子だったのではないか、という人がいます。私もそんな気がするのです。というのは、エマオに向かう二人の弟子の姿は、何かの目的に向かって歩いているというよりも、大切な目的から離れていくような、そんな落胆の姿に見えるからです。エマオに向かうというよりも、エルサレムを離れていく二人の弟子と言った方が、的を射た表現なのかもしれません。要するに、これは都落ちの話なのです。 
復活のイエス様が共にいる
 そんな二人のもとに、復活のイエス様が近づいてこられ、歩みを共にされたということが、今日のところに書かれています。

 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」(13-15節)

 ここには、一つの恵みが示されています。彼らはイエス様の死に失望していました。落胆していました。心に空しさがいっぱい拡がっていました。そのような悲しみをもって、彼らは弟子たちの集団を離れ、故郷に帰ろうとしていたのです。しかし、そんな二人の心の中には、ちょうど消えかかった熾火の中にもまだ小さな火種が残っていることがあるように、なおイエス様のことが忘れられない気持ちが残っていました。歩きながら二人で話すことといえば繰り返しイエス様の話ばかりであったのであります。もっとも、それは二人の信仰を燃え立たせるような景気のいい話ではなく、消えていく火を最後の瞬間まで名残惜しむような淋しい話だったに違いありません。

 一つの恵みと申しましたのは、たとえそうであったとしても、イエス様のことが語られているところに、イエス様は近づいてきてくださり、歩みを共にしながら、その話を丁寧に聴き、いつの間にか主導権を主が握ってくださり、消えかかった火をもう一度赤々と燃え立たせるよう、主ご自身が導いてくださるのだということであります。

 私達も同じような恵みを経験するのではないでしょうか。イエス様のことについて話すとき、いつも信仰と喜びに溢れているとは限りません。望みを失っていたり、疑いにかられていたり、いろいろな時があるのです。それでも、イエス様のことが語られていることは大切なことでありまして、イエス様はご自分のことが話されている所に必ず来てくださり、その話を聞いてくださるのであります。そして叱るでもなく、嘆くでもなく、共に歩みつつ、私達の手から主導権を預かり受けてくださり、その話を疑いから信仰へ、失望から希望へ、悲しみから慰めへ、喜びへ、と導いてくださるのであります。
目を遮るもの
 ところが、そのような恵みが、二人の旅路を包んでいるというのに、彼らはすぐにはそのことに気づかなかったと、記されています。

 「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(16節)

 マグダラのマリアも、主を見たその瞬間にはそれとは分かりませんでした。私達は見ていながら見ていないということがたくさんあるのではないでしょうか。ある方が、「教会に行くに様になってから行く先々で、教会の十字架が目にとまるようになった」と仰っていました。逆にいうと、興味や必要を感じていなければ、たとえそれが存在していても、私達の目に入らないのです。

 神の恵みもそうです。『ヘブライ人への手紙』11章1節には、「信仰とは見えない事実を確認することです」と言われています。神の恵みは、存在しないのではありません。見えない事実として存在しています。それを私達に確認させる働きをしているのが、信仰なのです。信仰が働くならば、どんな暗闇の中を歩いていても神の恵みを確認することができます。しかし、信仰が働いていなければ、どんな明るさの中に生きていても、神の恵みを一つも認めることができないのです。認めることができなければ、それが私達の心にいかなる喜びをもたらすこともなければ、感謝をもたらすこともないでありましょう。

 聖書には、「二人の目は遮られていた」と言われています。遮られているというのは、何か妨げとなるものが目の前に置かれているということでありましょう。

 しかし、もともとのギリシャ語の意味を辿ってみますと、それとはちょっとニュアンスが違うのです。ギリシャ語の言葉では、手で掴む、持つ、支配する、保つという意味があります。決して悪い意味だけに使われるわけではなくて。イエス様が少女の手を取って「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」と言われた、その時に「手を取る」という風に使われている言葉も、この言葉なのです(マルコ5:41)。あるいは『ヘブライ人への手紙』の中で、「私たちの告白する信仰をしっかり保とうではないか」と言われている、その中で「信仰を保つ」というふうに使われている言葉も、この言葉なのです(ヘブル4:14)。逆に、遮るというような意味で使われているのは、ほとんどここだけだと言ってもいいかもしれません。

 そうすると、ここで目が遮られていたというのは、自分の外に何か妨げとなる障害物が置かれていたということよりも、自分自身が内に持っているもの、保ち続けているもの、しっかり掴んで離せないでいるものが、今目の前に現れてくださっている復活の主イエスを認めさせないように働いていたということになるのであります。

 そのように目の前にいらっしゃるイエス様が認められないほどに、彼らの心を縛って離さなかったものとはいったい何でありましょうか。それは彼らが道々話し続けてきた二つのことによって示されています。一つは十字架で死なれたイエス様のこと、もう一つは空っぽだったイエス様のお墓のことです。十字架の死は、彼らが望みをかけていたイエス様との交わりが永遠に断たれてしまったことを意味していました。空っぽのお墓は、彼らがイエス様と共に生きてきたことの思い出や証しが空しく消えてしまったことを意味していました。これら二つのことによって、彼らの心はイエス様と共にあった世界を失い、イエス様のいない暗黒の世界に迷い込んでしまっていたのです。

 私は、17-18節に示されていることが、このような二人の心情をよく物語っていると思います。

 「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』」(17-18節)

 復活の主が共に歩いてくださっているのに、二人はまったく暗い顔をして、しかも非難がましくイエス様にこう言い放っています。「この数日に起こったあの出来事を、あの大悲劇を、あなただけは何も知らないのでいたのですか」と。私達も、同じことをしていないでしょうか。私たちがこんな苦しんでいるのに、あなただけは知らぬ顔の半兵衛なのですか。世界の現実がこんなにも悲惨であるのに、あなただけは別世界なのですか。遠く、高きところにおられて、私達の世界の現実に何の関わりも持とうとしてくださらないのですか。「あなただけは」という言葉は、もはやイエス様と共にいてくださるということを信じていない心の状態を表しているのです。

 このような心というのは、先程来申し上げていますように、イエス様が私達の現実を知ってくださらないのではなく、私達の方でイエス様が生きておられるという現実を頑なに否んでしまっている結果なのです。空っぽの墓に現れた天使は、婦人たちにこのように言いました。「なんぞ死にし者どもの中に生ける者を尋ぬるか」。どうせイエス様なんかいないのだ。どうせイエス様は何もしてくれないのだ。そんな風に、生ける主在を、死にし者のごとく空しいもの、無力なものとして決めつけることをしてはならないのです。「彼はここに在(いま)さず、甦り給えり」と、天使は告げているのです。主は生きておられるという信仰なくして、主が生きておられる現実は見えて来ません。
神に帰る道
 エマオに向かう二人の弟子の物語は、そのように神なき望みなき世界に迷い込んでしまった二人の魂が、イエス様の恵み深い導きによりまして、再び神のいます世界に連れ戻されたという物語なのであります。いかにして、主はこの二人の落胆と迷いの中にある魂を導き、取り戻されたのか。今日は時間がありませんので、次回またこの続きを丁寧にお話ししたいと思います。

 ただ、最後の部分だけ確認しておきましょう。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(28-31節)

 夕暮れ、エマオに着いた弟子たちは、途中から道連れとなったこの不思議な御方に、「どうぞ、ご一緒にお泊まりください」と強いてお願いをしたと言われています。「あなただけは何もしらないのですか」と、イエス様を蚊帳の外の人間として突き放しているうちは、たとえどんなに近くに主がおられても、決してその存在に気づくことはできません。しかし、主の愛と導きは、この二人の頑な心を打ち砕いて、「どうぞ主よ、来てください。お宿りください」と祈る者に変えてくださったのでした。

 そして、復活の日の朝、マグダラのマリアが復活の主にまみえたように、その夕べに、この二人の弟子もまた復活の主にまみえることができたのです。このようなことを覚えて、私達は主に出会う日として、日曜日の朝に、夕べに、礼拝を守り続ける者でありたいと願います。 
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