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これまで、イエス様が十字架にかけられたこと、お墓に葬られたこと、ところが三日目の朝に婦人たちが墓参りに行っても見ると、お墓がもぬけの空であったということをお話ししてきました。ここまで話は、そこに隠されている霊的な意味を知ろうとすれば話は別ですが、単純に出来事として捉えようとする分には何ら私達の理性を妨げるものではないのです。
しかし、これからお話をする復活ということになりますと、話は別です。これを歴史の中の出来事として捉えようとするならば、どうしても私達の理性の働きがそれを邪魔するのです。世の中には、人間の理性こそ人間を崇高なものにしていると信じて疑わない人達がいます。そういう人達にとって、死んだ人間が復活したなどという事を平然と宣伝するキリスト教というのは、理性という崇高な人間性を冒涜する忌まわしき宗教だとさえ受け取れるのであります。
このような人達は、信仰を持つ人間は理性的であることを放棄しているのだと決めつけているのでありましょう。確かに、そんな風に云いたくなるような宗教がらみの話もあります。オウム真理教の事件などはその典型的な例でありましょう。もう10年前の事になりますが、未だに忘れることのできないショッキングな事件でした。
養老孟司さんという、元々は東大の解剖学の教授で、今はそこを離れていろいろウィットに富んだご本を書いておられる方がおられます。この先生が東大を辞めるきっかけになったのは、自分の教えている学生にオウム真理教の信者がいたことであったと云います。解剖学の実習の時に、その学生が突然「先生、尊師が水の底に1時間いる実験をするので、一緒に見に行って証人になってください。」と言ってきたというのです。血液を5分間止めると人間の脳は回復不能であるというのが医学の常識です。そういうことをきちんと理解し分かっている東大の優秀な学生であるはずなのに、他方では「尊師が一時間も息を止めて水の中にいることができると本気で信じている。そういう矛盾が何の抵抗もなく受け入れられてしまっているのです。いったい、この若者の頭の中はどうなっているのかと愕然とし、もうこのような学生を教えることはできないと東大を辞めたというのです。
宗教ではありませんが、こういう話もあります。日本のアニメは世界中で放映され、高い人気を博していると云いますが、その中でも特にポケモンという仮想動物のアニメ番組に世界中の子供たちが夢中になっているといいます。ところがトルコでこういう事件があったのです。七歳の女の子と五歳の男の子がポケモンを見て、自分にも同じ超能力があると信じ込み、五階のバルコニーから飛び降りてしまった。現実と非現実の境目が無くなってしまったのです。この事件を受けて、トルコではポケモンを放送禁止にしたというのです。
もし私達の復活信仰が、このような話とまったく同じレベルのことであるならば・・・つまり、現実を無視して非現実の世界に生きることであったり、理性を放棄して非理性の世界に生きることであったりするならば、崇高な人間性を破壊する忌まわしい教えだと言われても仕方がないと、私も思います。
しかし、復活は非現実ではなく現実なのです。パウロはこう言っています。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(『コリントの信徒への手紙一』15章17-20節)
もしキリストの復活が非現実であるならば、そのことにどんなに望みをかけていても、それは決して現実の救いにはなりません。そのような信仰に望みを託し、命を託しているのだとしたら、自分はポケモンだと錯覚して五階から飛び降りた子どもと同じなのです。子どもなら分かります。子どもというのは現実と非現実がしばしば錯誤してしまうものだからです。しかし、私達の信仰が現実錯誤であるとするならば、それがどんなに高い理想であったとしても、素晴らしい救いを私達に提示するものであったとしても、クリスチャンというのは絵に描いた餅で満腹しようとしている世界中でもっとも惨めな人種だというのです。
しかし私達の復活信仰は、決してそんなものではないのだと、パウロは声を大にして「キリストが復活をしたのは事実なのだ」と言っているのであります。事実だとするならば、逆にこれを否定することが非理性的、非現実的であると言わなければなりません。復活を受け入れることの方が現実的であり、理性的であるということになるのです。少なくとも、はじめから復活などあるわけがないと決めつけることが理性的であるとは言えないのであります。
私は本物の信仰というのは理性に反するものではなく、極めて理性的なものであると信じております。「理性」という言葉を広辞苑でひきますと、ひとつには「感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力。古来、人間と動物とを区別するものとされた」とあるのです。「感性的欲求」という言葉がちょっと難しいのですが、要するに本能だと言い換えてもよいでありましょう。本能の赴くままに生きる動物と違って、人間は思慮的に、つまり「何をしたいか」だけではなく、「何をすべきか」という考え、またそれを実践する能力をもっています。それが理性であるというのです。まさに信仰とはそういうものではないでしょうか。
ある人が、マザー・テレサに向かって「あなたはどうしてそんなにも屈託なくハンセン病の人と触れ合うことできるのですか。私は百万ドルもらっても、そんなことはできません」と言ったそうです。マザー・テレサは、「私も、お金のためであるならば、二百万ドル積まれても、このようなことは決してできなかったでしょう。けれども、神のためならば出来るのです」と答えました。この場合、感性的欲求に左右されているのはどちらでしょうか? 思慮的に、理性的に行動しているのはどちらでしょうか? 信仰者であるマザー・テレサであることは疑いようもありません。信仰を持つ者は理性を棄て、人間性を冒涜しているなどというのはとんでも話でありまして、信仰を持つ時に、人間は感性的欲求を超えて、つまり、「何をしたいか」ではなく、「何をすべきか」という事を考えて行動する、極めて理性的な人間になることができるのです。 |
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そして、このような信仰の原点となるのが、キリストの復活を信じるということなのです。私は、イエス様の十字架のお話をする時に、これは福音の中心であると申しました。福音というのは、神様が人間にお与えくださる救いのことであります。その核心は、イエス様が私達の罪の贖いとして十字架にかかってくださったということにあるのです。
しかし、パウロは先ほどお読みしましたところで、こう言っていました。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」
キリストの復活がなければ、罪の問題は完全に解決したとは言えないというのです。
罪の赦しは、和解によって成立します。和解があるならば、そこに必ず新しい関係が結ばれるはずです。しかし、もしイエス様が、私達の罪を担って死んでくださっただけであるならば、どうして神様と私達の間に新しい関係が結ばれたと確証できるでしょうか。神様は、イエス様において私達の罪を罰せられたけれども、それでもまだ飽き足らないで、私達に怒り続けているかもしれないのです。
しかし、イエス様は復活なさいました。そのことを知ることによって、私達は神がイエス様において罪をお赦しくださったことが分かるのです。ですから、復活というものがあってはじめてキリスト教が成立しました。弟子たちが「イエス様が私達の罪のために十字架におかかりくださった」という福音を宣教し始めたのは、復活の主に出会ってからでした。逆に言うと、復活の事実がなければ、キリスト教は歴史上に成立しなかったのです。イエス様の存在も、その教えも、弟子たち諸共、雲散霧消してしまったに違いないのです。
そういう意味で、私はもし復活の歴史的な証拠を問うとするならば、連綿と受け継がれてきたキリスト教の二千年の歴史こそがそれであると言ってもいいと思っているのです。
教会の愛餐会で伝言ゲームをして互いの親睦を深める時があります。出題者が短い文章を最初の人に伝えます。その人から隣の人へと順々に文章を伝えていく遊びですが、わずか十人たらずのうちに最初とはまったく違う文章になってしまって、みんなで大笑いするのです。同じように、私達がよく知っている昔話なんかも伝承されていくうちに、時代に合わせて話が変えられ、他の物語と混ざりながら伝わってきたことが知られています。
しかし、キリスト教というのは、どんなに時代が代わり、人が変わろうとも、弟子たちが果たしたキリスト体験が少しも変質することなく、そのまま伝えられてきました。どうしたら、そのような事が起こりえるのでしょうか。キリスト教というのは伝言ゲームのように単純に言葉として伝えられてきたのではなく、キリスト体験が継承されてきたからなのです。最初の弟子たちにご自身を現してくださったように、二千年間を通じて復活の主はご自身を現し続けてくださったのです。私もそうです。私は聖書や教会の教えとして伝え聞いたことをお伝えするだけではなく、私自身が生けるキリストに出会った者として、みなさんにこの福音をお伝えしているのです。
ただし、体験というのは極めて主観的なものになりがちです。キリスト体験でないものを、キリスト体験だと思いこむ可能性もあります。けれども、多くの人が同じだと思えるような体験をしているならば、しかも時代を越え、国を越えて、そういう体験が受け継がれ、拡がっていったとするならば、話は別なのです。それは非常に確かな証拠になり得るのではないでしょうか。二千年の教会の歴史は、そのような復活のキリストを証する体験の継承でもあるのです。
そして、今日はマグダラのマリアのキリスト体験のお話です。先週は、彼女が空っぽの墓の前で一人泣き続け、無くなった主の体を探し続けたというお話をしました。その直後、マリアは弟子たちの中で復活の主にまみえるという体験をしたのです。彼女は急ぎ帰り、弟子たちに「われは主を見たり」と告げ知らせました。当然、弟子たちはすぐにそのようなことを信じません。よく現代人に復活などということは信じられないと言いますが、現代人でなくても復活は信じがたいことなのです。ところが、その日の夕方、復活の主は、弟子たちのもとに現れてくださいました。そこで弟子たちもマリアと同じキリスト体験を果たしたのです。
ところが、不幸なことにトマスという弟子だけがそこに居合わせることができなかったと、聖書の話は続いていきます。弟子たちは、トマスが帰ってくるや否や、「我ら主を見たり」と口々に証言します。マグダラのマリアの「我は主を見たり」というキリスト体験が、ここで「我ら主をみたり」という複数の体験に変化していることに注意して欲しいのです。しかし、トマスは頑として信じようとしません。その頑ななトマスが、八日後、やはり復活の主に出会うという体験を果たし、他の弟子たちと一緒に「我ら主をみたり」と告白する者にされるのです。
教会の歴史はキリスト体験の歴史であるということはこういうことです。荒川教会もその歴史の中にあります。荒川教会の墓地には「我ら主を見たり」との御言葉が刻まれていますが、それはクリスチャンである私達の生も死も、最初の弟子たちと一緒に復活の主を知り、「我ら主をみたり」とのひとつの告白に連なる者とされたことの証しであるに違いないからです。
少し先を急ぎすぎましたが、その一番はじめにある「我は主を見たり」という体験をしたのがマグダラのマリアでした。 |
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マグダラのマリアは、どのように復活の主にまみえたのでありましょうか。
「マリアは墓の外に立って泣いていた。」(20:11)
マリアは空っぽの御墓の前で、いつまでも泣き続けました。主のみ体が失われたのです。どこに行ったか分からないのです。それはある意味で、主が亡くなられたことよりも、深刻な悲しみをマリアにもたらしたに違いありません。
泣きながら、マリアは何度も墓の中をのぞき込みました。奇跡が起こり、主の体がもとに帰っているかもしれない。祈るような思いで墓の中をのぞき込むのですが、何でも見てもただ丸められた亜麻布が置かれてあるだけなのでした。
そのようなことを何度か繰り返した後の事だろうと思います。
「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」(20:11-12)
これはきっと後で、マリアが弟子たちに報告したことをそのまま記しているのでありましょう。「一人は頭の方に、もう一人は足の方に」、そんな言い方の中にも、マリアがいかに空っぽの墓の中に、失われた主のみ体を追い求めていたかということが伺えるのです。
マリアは天使を見ても、別段の感激はありません。ただ、主のみ体のありかを教えてくれるように、助けを求めました。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(20:13)
そんなマリアの後ろに、主がお立ちになったのでした。しかし、マリアはそれが主であるとは気づかないままに、イエス様ご自身に対しても、主の体を探してほしいと頼みます。
「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』」(20:14-15)
マグダラのマリアが、これほどまでに主の体を追い求めたのは、主の体がなければ、愛する主との交わりは永遠に失われてしまうと思いこんでいたからでありましょう。
しかし、実際、マリアに、イエス様との交わりを与えたのは、イエス様のみ体であったでしょうか。イエス様は、マリアの目に見えるお体をもって、マリアの真後ろに立たれました。しかし、マリアはそれを見ながら、イエス様であることが分からなかったというのです。
そのマリアが、「われは主をみたり」と気づいたのは、あんなにも追い求めていた体を見たからではなく、自分の名前を知り、呼んでくださる声を聞いたからでありました。
「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(20:16)
「ラボニ」とは、「先生」の意であると言われています。しかし、「わが主」という意味でもあります。主が親しみをこめて「マリア」と呼び、マリアは「ラボニ」(わが主)と阿吽の呼吸で答える。その時に、マリアは、イエス様がそこにおられることを、しかも生ける方としてそこにおられることを知り、それによってすべての悲しみが拭われたのであります。
しかし、イエス様は、マリアがご自分の体に触れることをお許しになりませんでした。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(20:17)
マリアがイエス様にすがりつこうとすることは、きわめて自然な愛の発露でありました。しかし、イエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい」、「わたしは父の御許に帰るのだ」と言われました。これは、マリアに対する拒絶の言葉でありましょうか。そうではなく、直接的な、肉における交わりを求めるマリアに対して、もっと霊的な、永遠の結合関係を約束しようとしておられるのです。
先ほども申しましたように、マリアが主の体を見て、イエス様に気づいたのではありませんでした。むしろ、み体にこだわっている時には、それが分からなかったのです。しかし、「マリア」と呼びかける御声を聞いた時に、マリアの悲しめる心の中に慰めが訪れ、喜びがあふれ、希望が芽生え、「ああ、これは懐かしき主の声だ」と分かりました。イエス様の体ではなく御言葉が、マリアを愛で満たし、恵みで満たしたのです。
そして、イエス様はそのことを伝えよと、マリアに命じられました。
「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(20:18)
「主から言われたことを伝えた」とあります。主の言葉の中に、主が生きておられるのであります。私たちは、主の言葉を聞くことによって、生ける主が私達の魂に呼びかける声を聞き、そこにおいて生きておられる主と出会い、その交わりの中に入れられ、主の愛、主の力、主の救いを受け取るのです。御言葉にはそのような主の霊が働いています。そのことを体験する時に、私達もまた「主は生きておられる」、「我ら主をみたり」という告白する者にされるのではありませんでしょうか。
いや、復活の主と出会うということは、もっと奇跡的な体験をすることだと考える人がいます。他の誰でもない私自身がそのような考えに囚われて、なかなか素直に信じられない不信仰な人間の一人でした。そういう私が復活のイエス様を信じる者に変えられた体験を顧みますと、確かにそれは聖霊様のお働きなくして考えられないようなことがあったのですが、それは奇跡の体験というよりも、恵みの体験であったと思えるのであります。
奇跡の体験と恵みの体験とはどのように違うのでしょうか。奇跡の体験というのは、人知を越えた不思議なことに出会うことであります。それは驚きや興奮を生むでしょう。しかし、信仰を生むかということちょっと違う気がするのです。イエス様の奇跡を目撃した人達はたくさんいます。そういう人達は驚き、興奮はしたけれども、ほとんどの人は信仰者になりませんでした。むしろ敵意を生み、十字架につけようとする者たちも現れたのです。
一方、イエス様への信仰を持つことができた人達というのは、奇跡をみようがみまいが、恵みを体験した人達であったわけです。恵みの体験とは、自分を生かし給う神の愛に出会うということです。たとえばザアカイという人はイエス様の奇跡を見たわけではありません。しかし、イエス様に声をかけられ、自分の家に友として泊まってくださるイエス様の愛に触れて、百八十度生き方が変わるのです。そこには誰もが目を見張るような奇跡というものはありませんでした。しかし、ザアカイの魂における出来事として考えるならば、人知を越えた神の愛との出会いがそこにあったのです。
復活の主との出会うという出来事は、このような一人一人の魂の深みにおいて、イエス様が愛と恵みをもって出会ってくださるということだと思うのです。
マグダラのマリアと復活のイエス様との出会いもそうです。「マリア」という主の呼びかけを聴き、「ラボニ」と阿吽の呼吸で答えた時、マリアの魂に起こった出来事はそういう事だったでありましょう。そして、そのようなイエス様の呼びかけを、私達は御言葉を通して聞くことができるのであります。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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