主イエスの埋葬<2>
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書19章31-42節
旧約聖書 哀歌3章31-33節
神の御腕に抱かれて
 イエス様は十字架にかかってお亡くなりになりました。本来、このような死に方をした人は、亡くなった後もぞんざいに扱われ、人並みに埋葬されるようなことはありませんでした。たとえばイエス様と一緒に十字架にかけられた二人の強盗は足の骨を無理矢理に折られたと書いてあるとおりです。イエス様もまた、脇腹を槍で突かれたということが書かれています。

 しかし、イエス様の足は折られませんでした。それは、「その骨は一つも砕かれない」という預言が成就したのだと、聖書は語っています。イエス様の骨が折られなかった。それにはどんな意味があるのでしょうか? 神様は、復活の日に備えて、イエス様のご遺体を手厚くお守りくださったのです。そのことからイエス様の死ということを考えていきますと、イエス様は決して暴力によって葬られたのではなく、今際の時に「わが霊を御手にゆだねぬ」とおっしゃられたように、神の御腕に抱かれて、神の保護のもとに息を引き取られたと言えると思うのです。

 とはいえ、イエス様の死において、暴力があったのは紛れもない事実です。十字架はまさしく暴力そのものなのです。それにも関わらず、イエス様は暴力によって葬られたのではないと言えるのは、これまでもお話ししてきたことでありますが、イエス様ご自身がこの十字架を人の暴力としてではなく、神様がご自分にお与えになった「飲むべき杯」としてお受けになったという事実があるからなのです。

 ゲッセマネの祈りの中で、イエス様は「できるなら、この杯を過ぎ去らせてください」と祈りました。しかし、最後には「わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と受け入れられるのです。そこへ、武器をもった人々が主イエスを捕らえようとしてやってきます。ペトロは剣を抜いて抵抗しました。イエス様は、そのペトロに「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と諫めます。私達は、この後、イエス様がまったく酷い仕打ちを受けて、ついに十字架にかかられたのを知っています。しかし、イエス様はそのすべてを、人の暴力としてではなく、父がお与えになった飲むべき杯としてお受けになったのであります。

 十字架の上では、苦痛に歪んだイエス様の口元から、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉が漏れ聞こえることもありました。しかし、最後には、「わが霊を御手にゆだねぬ」、「事終わりぬ」と、神様との関係において、神が与えたもう死として、ご自分の死を受け入れるのです。

 こういうことから、イエス様は決して暴力にかかって葬られたのではないと言えるのです。暴力は確かにありました。暴力とは乱暴であり、不法であります。私は、「それが実は神様の正義だったのだ」などということを言っているのではありません。決してそのようには思いません。暴力は憎むべきものであります。しかし、そのように人間の悪しき本性が荒れ狂う十字架の最中においてさえ、神様の御心が貫かれている事実に目を向けることも大切なのです。

 イエス様はそれをご覧になっていたのであります。このような赦されざる暴力を敢えてお許しになっている神様の御心、愛なる神様が敢えてこのような試練を与え給う御心、そこには隠されてはいるけれども必ず神の義と愛があるのだと、信じておられるのであります。そう信じて、十字架の死を、神様の御手から受け取られたのでありました。

 そして、その信じておられたことが、まさしく正しかったということが、イエス様がその杯を飲み干された時に証明されるのであります。繰り返しますが、本来ならば十字架で殺された者は足の骨をおられ、そこから引きずり下ろされて、野に打ち捨てられるのです。しかし、イエス様の場合には違ったのです。その骨は一つも砕かれませんでした。そして、アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、また母マリアをはじめとする婦人の弟子たちの手によって、限りあることでありましたけれども、その時に出来る限りのことされて、まだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬られたのでありました。
新しい墓
 もう一度、41節を読んでみましょう。

 「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」

 わざわざ「まだ誰も葬られたことのない新しい墓」と言われていることが、私の心に止まるのであります。これは他の福音書を見ても、ほぼ同じ事が言われています。お墓は新しいものの方がいいということなのでしょうか。もちろん、そんなことではありません。

 イエス様は、私達に新しい命を与えてくださる方です。その新しい命は、まずこの墓に葬られたイエス様ご自身に与えました。そして、私達にも分け与えられるものとなったのです。つまり、イエス様のお墓は、尽き果てた命が永遠に眠る場所ではなく、新たな命を得る場所となったのです。人生の終着点ではなく、新しい人生の出発点となる墓。限りある命の墓標ではなく、永遠の命の希望となる墓。私達の人生を空しくするものではなく、価値あるものにする墓。これこそまさしく、「まだ誰も葬られたことのない新しい墓」ではありませんでしょうか。私達の新しい命は、このイエス様が葬られた新しい墓から、私達に与えられるのです。

 来週は、荒川教会でも秋の墓前礼拝がありますけれども、お墓の前に立つとき、私達はこちらの世界とあちらの世界の隔絶ということを思うのであります。『マタイによる福音書』を見ますと、大きな石を転がしてお墓の入り口を塞いだということが書かれています。

 「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。」(27章59-61節)

 「大きな石」というのも象徴的な言葉です。マグダラのマリアともう一人のマリアは、その石でふさがれた墓の入り口をいつまでも見つめていました。愛する者をお墓に葬ったことのある方は、この婦人たちの気持ちが手に取るように分かるだろうと思います。石一つ隔てた向こうなのに、自分が生きている限り、決して手の届かないところに愛する人がいってしまったのであります。両者を隔て居るのは、一つの石であります。ただの石でありますけれども、決してぐらつくことのない不動の石なのであります。

 さらに『マタイによる福音書』には、こういうことが記されています。

 「明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、「自分は三日後に復活する」と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。』ピラトは言った。『あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。』そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。」(27章62-66節)

 ファリサイ派の人たちは、イエス様のお墓の入り口に置かれた石に封印を施し、その前に番兵を立てたというのです。そこまで念入りにして、イエス様のお墓を塞いだのであります。何のためにか? 弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは死者の中から復活した」などと民衆に言いふらすことがないようにするためであります。

 このように二重にも、三重にも封印されたイエス様のお墓でありましたが、三日目の朝、その封印はすべて神によって解かれました。そして、イエス様は神様によって与えられた新しい命、永遠の命によって復活なさったのであります。

 しかし、それはまた次のお話にしたいと思います。今日は、イエス様が死んで葬られた話であります。イエス様が今も生きておられるという私達の信仰は、イエス様の死を認めないのではないのです。イエス様は死んで葬られました。パウロは、これは最も大切なことの一つであると言っています。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(『コリントの信徒への手紙1』15章3-5節)

 永遠の命とは、死なないことではありません。「死んだこと、葬られたこと」があっての上での、新しい命です。そして、その命はイエス様の死から、墓から始まったのです。 
主と共に死ぬのなら
 みなさん、私たちが信仰に生きるということ、つまり主に生かされるということも、決して死なないという意味ではありません。

 「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」(『テモテへの手紙二』2章11節)

 イエス様と共に生きるためには、イエス様と共に死ぬということが、最初にくるのです。では、イエス様と共に死ぬとは何を意味するのでしょうか。それはイエス様の死を死ぬということです。

 イエス様は十字架にかかって死なれました。イエス様は何も間違ったことはしていないのに、濡れ衣を着せられて死なれました。さらに、イエス様は世の権力に苦しめられました。イエス様が愛した民衆や弟子にも裏切られました。茨の冠、鞭、侮辱・・・まだ言おうとすれば幾らでも言えますが、私達が「神も仏もあるものか!」と言いたくなるような人生の理不尽、肉体的精神的苦痛、絶望のすべてを嘗め尽くして、イエス様は死なれたのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というお言葉が、今更ながら心に響きます。

 イエス様と共に生きるためには、私達もこのようなイエス様の死を死ななければならないということが聖書に言われているのです。そのすべてを経験するということではなくても、その一つや二つは誰でも経験させられることに違いありません。その苦しみを通して、私達もイエス様の死に与る者とされるのです。

 しかし、ただ苦しみを経験すればいいということでもありません。イエス様は、ゲッセマネの祈りを通して、その苦しみの中に見えざる神の御手を見ました。「神がお与えになった杯は飲み干すべきではないか」と、それを受けて、神の御心がなりますようとの信仰をもって十字架を負われたのであります。

 私達も苦しみに遭う時、主のようにゲッセマネの園に行き、祈りを捧げなければならないでありましょう。「父よ、御心ならば、この杯を過ぎ去らせてください」と、血の滴りのような汗を流し、何度も何度も、夜を徹して祈る必要があると思います。「あなたの御心がなりますように」と、自分を貫くことをやめ、運命を神様に委ねるようになるまで、私たちもゲッセマネの祈りを捧げることが必要なのです。こうして、自分を神様の御手の中に葬り去るのです。

 それがイエス様の死を死に、イエス様と共に葬られるということなのです。別の言い方をすれば、「わたしが」「わたしが」と言って生きていた自分が、「神が」「神が」と言って生きる人間になるということであります。生きるにしても、死ぬにしても、自分の存在を主張するのではなく、神の存在を現す人間になるのです。そうするならば、イエス様を墓から復活させてくださった神様が、私達をも新しい命に与らせ、イエス様と共に生きるようになる。これが神の約束であります。

 もう一つ、パウロの言葉を見てみましょう。

 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(『コリントの信徒への手紙U』4章8-11節)

 パウロは、毎日のように四方から苦しめられたり、途方に暮れたり、虐げられたり、見捨てられたり、打ち倒されるような経験をしていると言います。それは決して大げさな言い方ではなく、実際パウロは多くの艱難を経験しながら、福音宣教のために生きていたのです。

 パウロはこう言います。「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています」、「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています」と。パウロにとって生きるということは、自分を生かすことではなく、かえって自分を葬って、イエス様が自分の中に生きるようになるようになることなのだ、というのです。

 これはたいへん苦しい生き方のように思えますが、実はそうではありません。そのように生きていると、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」という不思議な経験をするというのです。私達は、自分を救おう、救おうとして恐れ、悩み、囚われて、苦しんでいます。しかし、もう死んでもいいという気持ちになって、思い切って神様にすべてを委ねてみると、案外と私達の心は自由になり、その上、神様の偉大な御心が現れて、思わぬような仕方で救われ、生かされるということがあるのです。

 「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」(『テモテへの手紙二』2章11節)

 このことを信じたいと思います。そして、イエス様と共に生きる者となるために、イエス様と共に葬られる者になりたいのです。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」(『哀歌』3章31節)と言われています。もう一度もうしますが、イエス様が葬られた墓は、まだ誰も葬られたことのない新しい墓でありました。それは神にある命を戴いて、新しい人生の出発点となる墓なのです。
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