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今日は召天会友記念礼拝ということでありますが、ちょうど今日から主の復活についてのお話が始まるところでありまして、いつも通りイエス様のご生涯についてのお話を続けたいと思います。
まず、イエス様の埋葬のお話を復習しておきたいと思います。私はこれまで三つのことをお話ししてきました。ひとつは、「その骨はひとつも砕かれなかった」ということです。これがいったい何を意味しているのかといいますと、イエス様の決して暴力によって葬られたのではなかったということなのです。それはおかしいのではないか? 確かに十字架は暴力ではないか? その通りです。しかし、それにも関わらず、イエス様はこの十字架を人の暴力としてではなく、神が飲みなさいと言われた杯として、神の御手から受け取ったのです。ですから、イエス様の十字架の死というのは、決して人の暴力による結果ではない。神様が与え給う死を死んだのです。
二つめのことは、イエス様がまだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬られたということです。これは何を意味しているのでしょうか? 文字通り、まだ誰も使っていない未使用の墓ということでしょうか? それはそうなのですが、私はここにはもっと深い意味が隠されていると思うのです。イエス様の墓は、他のどんな人の墓とも違っていたのです。まだ誰も聞いたことがない、誰も見たことがない、誰も経験したことがない、復活という出来事が起こる墓なのです。誰にとっても墓というのは、死を物語るものでありましょう。しかし、イエス様の墓は命を、永遠の命を物語る墓なのです。
三つ目のことは、この墓の入り口には大きな石が転がしてあったということです。この石の持つ意味は大きいのです。この石は、死んだ者の世界と生きている者の世界の間にあって、双方の関係を絶つ石です。死んだ者がどんなに未練を残していても、決してこの石を乗り越えて生きた者の世界に出てくることはできません。逆に生きている者が死んだ者をどんなに深く愛して慕っていても、生きている限りこの石を乗り越えて死んだ者の世界に行くことはできません。マグダラのマリアは、イエス様が葬られたこの墓の入り口をふさいでいる大きな石を、穴が空くほどじっと見つめて、いつまでも、いつまでも、墓の前に立ちつくしていた、『マタイによる福音書』は記しています。しかし、どんなにこの石を見つめていても、イエス様はマグダラのマリアの手の届かないところにおられるのであります。
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しかし、三日目の朝、婦人達がもう一度この墓に行ってみると、決して動かすことのできないこの石が脇に転がしてあった。そこから、イエス様の復活物語が始まります。
「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(『マルコによる福音書16章1-4節』)
このことが起こったのは、安息日が終わった「週の初めの日」の出来事であったと言われています。今風の曜日でもうしますと、イエス様が十字架でおなくなりになったのが金曜日でありました。この日、埋葬され、その入り口に死者と生者の世界を分ける大きな石が転がされたのであります。
そして、安息日は土曜日のことであります。正確には、ユダヤでは日没から一日が始まりますから、金曜日の日没から土曜日の日没が安息日ということになります。この日は、なんの仕事もしてはならないという掟でありまして、婦人達も安息日を守って、家でじっと過ごしておりました。しかし、じっとしていることは、婦人たちにとってはたいへんな苦痛であったに違いありません。彼女たちにとって、イエス様の埋葬は決して十分なものではありませんでした。安息日が始まる日没までにとりあえず形をつけたもので、イエス様の御体に香料を塗るいとまもなかったのです。
婦人達はこのことに拘り続けました。ある人は、これは女性ならではの気遣いだと言います。そうかもしれません。少なくとも私ならば、埋葬という肝腎なことが終われば一応はホッとすることができたでありましょう。香料の問題はどうでも良いとは言わないけれども、小さな問題であって、そんなに気をもむことではなかったと思うのです。しかし、婦人たちにとってはこの細やかなことに気を配ることが、イエス様への愛情なのでありました。ともあれ、婦人達は香料をどこで調達しようか、お金はどうしようかと細やかに相談をしながら微に入り細に入り相談しながら、まんじりともしない長い、長い、安息日を過ごしたのでありました。
そして、ようやく土曜日の日没が来て、安息日が明けます。婦人達はすぐさま町に飛び出して、あちこちで必要なものを買いそろえ準備をしたことでありましょう。そして、日曜日の朝早く、『マルコによる福音書』によれば「日が出るとすぐ」、あるいは『ヨハネによる福音書』によれば「まだ暗いうちに」、準備した香料をもち、足早にお墓へと向かったのであります。
しかし、その彼女たちには、どうしてもぬぐい去ることのできない一抹の不安がありました。それはあの石のことであります。死者と生者との交わりを断固して拒み、どんなに求めてもイエス様はもはや手の届かぬ所にいかれたのだということを冷たくも、厳しくも彼女たちに暗示しつづける、あの墓の入り口に置かれた石であります。その石は非常に大きかったと、聖書は語ります。そして、そのことを思うと、彼女たちは不安を拭えないのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、彼女たちは心配しながら道を急いだのでした。
しかし、みなさん、これはちょっと冷静に考えてみると、奇妙なのではないでしょうか。彼女たちの行動はまったくちぐはぐなのです。イエス様のお体に香料を塗るということについては、野暮な男どもは決して思いつかないような細やかな気配り、あらゆる手はずを整えるのです。しかし、それも墓の入り口にある石を取り除くことができなければ、すべてがおじゃんとなる話なのです。そのことについて、彼女たちはあまりにも呑気なのではないかと思えるのです。
私にしてみれば、どんな香料がいいとか、こんな香料がいいとか、そんな話よりもまず石のことを考えなくてはいけない。この石の問題をクリアしなければ、何かもまったく無意味なことだと思えるのです。ところが彼女たちは、一応は心配しているものの。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、非常に呑気に構えています。行けば何となる。誰かがこの石を取りのけてくれる。そんな楽観さえ感じるのです。これではダメだ。こんなことではまず何も成し遂げられない。私などはそのように考えてしまうのです。
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しかし、聖書はまったく意外なことを物語っています。彼女たちの楽観は、それはそれでよかったのだというのです。なぜならば、行ってみれば何のことはない、石は既にわきへ転がしてあったからです。
「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。」
このように記されています。誰がこの動かし難い石を動かしたのでありましょうか。『マタイによる福音書』に、その答えがあります。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」(『マタイによる福音書』28章1-2節)
これは、天から降りてきた天使の業であったというのです。人間の力ではない。天の力、神の力がこれをしたのです。こういうことがあるならば話は違ってきます。彼女たちは肝腎なことを忘れているのではないかと、私は申しましたけれども、実は彼女たちこそ肝腎なことを覚えていたのであります。助けは天地を造られた神から来るということです。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。」(『詩編』121編1-2節)
この詩編は、エルサレム巡礼の困難な旅路にある人が詠んだ歌であります。行く手に立ちはだかる山々を見て、この巡礼者は思わず足がすくみました。「わたしの助けはどこから来るのか」 ため息をつき、茫然と立ちつくし、自分の力量を越えてこんなところまで来てしまったことを深く後悔さえしたかもしれません。
しかし巡礼者は、次の瞬間、その目を山々よりももっと高いところに注ぎます。抜けるような青空が眼前に広がりました。彼の目はさらになお、その上におられる方に向かっていきました。すると、祈りが彼の心に湧きあがってきたのです。神よ・・・天地を造られた主よ・・・私の助けはあなたのもとにあります。あなたのもとから、私に助けを来たらせてください。どうか、わたしの足がよろめかないように支え、昼の暑さからも、夜の寒さからも、私をお守りください。すべての災いを私から遠ざけ、わたしが行くのも、帰るのもお守りくださいますように。こうして彼は「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」と賛美の歌を口ずさみながら、再び力込めて歩み始めたのです。
私達の人生も、考えてみれば巡礼の旅をしているようなものであります。そこには荒れ野があり、山があり、焼けるような日差しがあり、凍えるような寒さがあります。そんな中で自分に何ができるか? どうすればこのような旅路を安全に、無事に進むことができるか? そんなことを考えていたら足はよろめき、心はふさぎ、ついには立ちつくしたまま一歩も進まなくなるのが落ちでありましょう。
たとえば、主のお墓の前に置かれている石のことを思案するばかりで、家から一歩も出られないような者になってしまうのです。しかし、婦人たちは違いました。彼女たちは、どうしたって自分たちの力量に余ることを、つまり考えたって仕方がないことをくよくよと悩まないのです。行けば何とかなると思ったのか。行ってから考えようと思ったのか。彼女たちは実に楽観的であります。
しかし、それだけではないのです。彼女たちは、一方で自分たちにできること、これこそ私たちの務めだと思うことについては、あらゆる努力を惜しみませんでした。たとえば、『マルコによる福音書』では、安息日が明けてから香料を買いそろえにいったと書かれています。しかし、それは日没の後のことでありました。いくら安息日が明けたとはいえ、普通、店を開くのは翌朝のことでありましょう。けれども、彼女たちはそんなことであきらめないのです。一刻も早くイエス様のお墓に駆けつけたいという願いを実現するために、まだ準備の出来ていない店の主人を呼び出して、そこでいくら迷惑がられても、嫌われても、相当の無理を言って、香料を買いそろえたのではないかという想像ができます。このように、彼女たちは自分に与えられている務めについては、困難にもめげず、それを克服して、精一杯やりとげたのです。
しかし、はじめから自分たちの手に負えないと思うことについては、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、まるで人ごとのようにあっけらかんと言うのでありました。この楽観さは、彼女たちの信仰に根ざすものだと言えないでしょうか。困難は分かっている。しかし、「わが助けは来る。天地を造られた神のもとから」という賛美の歌が、彼女たちの心の中から消えることがなかったということなのです。
彼女たちがそのように心の奥底で信頼し、信じていた「わが助け」とは何でしょうか? お墓の石をどかしてくれる者が現れることでしょうか。そういう期待もあったのかもしれません。しかし、もっと彼女たちの期待の奥底にあるものを探ってみますと、それはイエス様にお会いするということだったのではないでしょうか。
彼女たちはイエス様の御体に香料を塗ることにこだわり続けました。そのために町中を駆けずり回り、閉まっているお店も無理に開けてもらいました。そんな風に無我夢中で努力をしたのも皆、イエス様にお会いできるという期待があったからではないでしょうか。あるいはまたお墓が石でふさがれていること知りながら、なおもそれを無視するかのようにお墓に急いだということの、イエス様にお会できないなどということは考えられないし、また考えたくもないという気持ちからではなかったのでしょうか。それほど強く、彼女たちはお墓参りに行くことによってイエス様にお会いできるという期待をもっていたのです。
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ただ、このような彼女たちの期待には、何ら根拠がありませんでした。誰も石を動かしてくれる人がいないかもしれません。たとえ、いたとしても、それで無事にイエス様のお体に香料を塗ることができたとしても、その時彼女たちは次第に腐敗をしていく愛するイエス様の亡骸を前にして、その厳然たる死を再確認させられるだけの悲しい体験となるかもしれないのです。いや、きっとそうなってしまうにちがいないと思うのが当然なのです。
それにもかかわらず、彼女たちは何の根拠もないままに、お墓に行きさえすればイエス様にお会いでき、それによって再び慰めと喜びを得ることができると期待をしていたのでした。唯一、この希望の根拠となるものがあるとするならば、「わが助けは来る。天地を造られた神のもとから」という信仰でありました。信仰のみでありました。そして、この彼女たちの信仰は正しかったのです。
墓に到着して、彼女たちが見たものは、何者かによって封印が解かれ、ぽっかりと口を開けた主の墓でありました。
「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」
彼女たちは恐る恐る墓の中をのぞき込み、そっと中に入っていきました。すると驚いたことに、そこには白い長い衣を着た若者が静かに座って、婦人達の方を見るではありませんか。この若者は神の天使でした。天使は、恐怖に顔をひきつらせている婦人たちに、優しく語りかけ、こういう話をなさいました。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
あの方は復活なさって、ここにはおられない・・・あの方は、先回りしてガリラヤにいかれた・・・あなたがたはそこでお目にかかれる・・・婦人たちはこの天使の言葉を、復活を告げる喜びの福音をどれだけ理解することできたでしょうか。ほとんど何も理解できなかったかもしれません。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
恐怖に震えた。正気を失った。恐ろしかった。何も言えず、思わず墓を逃げ去った。聖書はこのように婦人たちの様子を描き出しています。
みなさん、これは彼女たちの信仰が報いられたことを物語っているのです。信仰の結果は、いつもこのように驚きと恐れに満ちているものなのです。ペトロがイエス様の奇跡を目の当たりにしたとき、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだ話があります。私達が信じている御方は、私達が信じている以上に力を持った偉大なる御方です。信仰が報いられる時、私達はそのことをはじめて目の当たりにします。そして、そのような御方が、この取るに足らぬ無きに等しい者の身近にいてくださるということを知る時に、私達は驚きばかりではなく、恐れを感じざるを得ないのです。
今日は、婦人たちの墓参りの話をいたしました。私達のこの世の旅路も、この婦人たちの旅路に似ているのではないでしょうか。ひとつには、イエス様を失った婦人たちの悲しみを私達も持っています。様々な試練、悩みが私達に襲ってきます。神も仏もあるものかと人生をかこちたくなります。しかし、それでもなお、「わたしの助けは来る、天地を造られた神のもとから」という信仰を持って、この世の旅路を無我夢中で歩み続けている、この点も墓に急ぐ婦人たちによく似ていると思います。
その旅路の果てに、私達は必ずや復活のイエス様を見ることでありましょう。墓を打ち破り、私達の絶望に打ち勝って、私達の希望となってくださった生ける主に、まみえることでありましょう。どうか、この希望を今日も新たにしつつ、残された日々を「わたしの助けは来る、天地を造られた神のもとから」と歌いつつ、歩みつづける者でありたいと願います。 |
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Translation
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