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繰り返しお話をしてまいりましたけれども、イエス様は十字架上で七つのお言葉を語られました。その中でも、イエス様が死の間際に語られた最期の言葉が、「成し遂げられた」という言葉であり、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」との言葉であります。
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(『ヨハネによる福音書』19章30節)
「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(『ルカによる福音書』23章46節)
こうしてみますと、どちらが本当にイエス様の最期のお言葉なのか、ちょっと測りかねますが、普通は「成し遂げられた」と言われてから、「わたしの霊を御手に委ねます」と仰って、息を引き取られたという風に解釈されているようです。いずれにしましても、こうしてイエス様は、地上での三十三年間のご生涯に幕を引かれたのでありました。
三十三年というのは、人の生涯としては短き一生であったと言わざるを得ません。しかも、イエス様は、故郷のナザレをお出になって宣教活動を開始されたのが三十歳の時であったと記されておりますから、実質的な宣教の期間はわずか三年間ということになります。それだけのお働きをなさっただけで、イエス様は迫害者たちの手にかかって十字架につけられ、尊い命を落とされることになってしまったのでした。
このようなお話をしますと、「えっ、イエス・キリストの布教活動はたった三年なのですか?」と、驚かれる方が大勢います。今や世界最大の宗教となったキリスト教の開祖であるイエス・キリストは、たった三年の働きでそれを成し遂げられたということは、確かに驚くべき事です。しかし、そのためにはこの三年間というものを徹底的な神への服従と信頼に生きられたイエス様の生き様があったのだということを忘れてはなりません。
たとえば、次のようなイエス様の御言葉をご覧ください。
「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」(『ヨハネによる福音書』5章19節)
「わたしは自分では何もできない。・・・わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(『ヨハネによる福音書』5章30節)
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」(『ヨハネによる福音書』6章38節)
「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(『ヨハネによる福音書』7章16節)
「わたしは自分勝手に来たのではない。」(『ヨハネによる福音書』7章28節)
「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」(『ヨハネによる福音書』8章50節)
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(『ヨハネによる福音書』14章10節)
これらの御言葉は、イエス様がご自分と父なる神様との関係についてお語りになった御言葉です。この中で、イエス様が繰り返し強調されているのは、「わたしではない」ということでありました。「わたしの力ではない」、「わたしの意志ではない」、「わたしの教えではない」、「わたしの勝手ではない」、「わたしの栄光ではない」、「わたしの言葉ではない」と、イエス様は繰り返し力説されています。
ここに、イエス様のご生涯の秘密があったのです。何年生きても、何年働いても、何も為しえない人もいます。生きた年数、働いた年数が問題ではないのです。いかに生きたかということが大切なのです。イエス様は、この三年間、何をするにしても、何をしないにしても、徹頭徹尾、神様の御心に従って歩んでこられました。ご自分の生涯の中に父なる神の御心と意志とが完全に行われるために、ご自分のすべてを、いつも全面的に神に明け渡しておられたのです。
それが「わたしの力ではない」、「わたしの意志ではない」、「わたしの教えではない」、「わたしの勝手ではない」、「わたしの栄光ではない」、「わたしの言葉ではない」という言葉の意味なのです。そして、最期の時には、「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」と言って、ご自分の命さえもお捧げしました。こうしてイエス様は、神様がすべてとなられるために、ご自分を無きに等しい者とされたのでした。
自分を無にされるイエス様。しかし、イエス様はそれのことによって何一つ失いませんでした。かえって、そのことのゆえに、イエス様はどんな時にも神の豊さ、つまり神の愛、神の力、神の知恵、神の平和に生きることができました。
みなさん、イエス様のご人格について誤解をしないでいただきたいと思います。イエス様は神の力をもって世に来られたのではないのです。そうではなく、イエス様は神の栄光も、神の豊かさも、神の力も、すべてを脱ぎ捨てて、無力で、無防備な赤子として世にお生まれになりました。イエス様がご自分のことを「神の子」と言わず、常に「人の子」と言っておられたことを思い出してください。イエス様は、罪をお持ちにならないという点を除けば、私たちと何一つ変わることのない人間として生きられたのです。
しかし、今申しましたように、イエス様は自分の意志も、願いも、考えも、力も、言葉も、すべてのことを神様に明け渡し、徹底的な服従に生きることによって、神の業がご自分のうちに行われるようにしたのであります。それゆえに、天の父なる神様は、ご自分の栄光をイエス様のご生涯の上に余すことなく現すことがおできになりました。イエス様がなさった奇跡の数々、尊きみ教えの数々は皆、そういうことなのです。
そのイエス様のご生涯の最期を、十字架の側で見守っていたローマの百人隊長は、「本当にこの人は神の子だった」と告白したと記されています。それは、十字架の死に至るまで神様への信頼と服従に生きられたイエス様のうちに、神様の完全なる現れがあることを、この百人隊長が認めたからであります。
こうして考えますと、イエス様が三十三歳という短きご生涯にもかかわらず、またわずか三年という短き宣教にもかかわらず、しかも、弟子に裏切られ、迫害者によって命を奪われるという非業の死を遂げたにもかかわらず、「無念!」ではなく、「成し遂げられた!」と言って死なれたこと意味がお分かり頂けるのではありませんでしょうか。それは、イエス様が何かを成し遂げたということではなく、神様の御旨がイエス様のご生涯において貫徹されたということなのです。もっと言えば、人類を愛し救わんとする神様の愛の御旨が、イエス様のご生涯において成就したのであります。 |
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みなさん、私たちもまた、イエス様の御救いをいただきまして神の子たちとされた人間であります。それならば、私たちもまた必ず神の愛、神の豊かさ、神の力をいただいて神の子として人生を生きることができます。しかし今、イエス様のご生涯において見てきましたように、神の愛に生きようとするならば、この世の愛に生きることはできません。神の力に与ろうとするならば、この世に力に依り頼むことはできません。神の豊かさを持とうとするならば、この世の豊かさへの執着を捨てなければなりません。イエス様も仰いましたように、永遠の命を得るためには、自分を捨ててイエス様に従わなければならないのです。
このように申しますと、「〜をしなければならない」という律法のように聞こえますが、そうではありません。私たちがそのように自分を捨てて、神様との完全なる一致のうちに生きることができる者となる、それが神の救いなのです。イエス様の十字架による罪の赦しがあればこそ、なのです。
小泉の首相の発言じゃありませんけれども、人生はいろいろです。しかし、この世に生を受けた以上、長くても短くて、日向にあろうとも日陰にあろうとも、成功に彩られようとも困難一色であろうとも、すべての人生は神様の目的をもって一人一人に分け与えられているのです。人生が成就するとは、その神様の目的が、私たちの人生において成し遂げられることに違いありません。そうでなければ、私たちの人生は何年生きようが、何年働こうが、どれだけの富を築き、どれだけの名誉を受けようが、死によってすべてが虚しくなってしまうのです。
では、私たちは、どうしたら神の子として、神の愛と豊かさをもって、人生の目的を成就するような素晴らしい生き方ができるのでしょうか。このように問いかけますと、「何をすればいいのだろう」とか、「自分にはどんなことができるのだろう」とか、「頑張ってみたけれど、自分には何もできない」とか、そういう考えに陥りやすいのです。しかし、神の子どもらの人生というのは、イエス様のご生涯と死を見る限り、決して、そのようなものではありません。もう一度繰り返して申しますが、「わたしの力ではない」、「わたしの意志ではない」、「わたしの教えではない」、「わたしの勝手ではない」、「わたしの栄光ではない」、「わたしの言葉ではない」という人生を送ること、それが肝腎なのです。
私たちは何かをする努力ではなく、何かをしない努力をしなければならないということなのです。私たちの考えも意志も、神様の御心にそぐわないことが多いのです。あれはしたい。これがしたい。あれはやだ。これはやだ。自分にできるはずだ。自分にはできっこない。そういう私たちの内から起こってくる思いをすべて神様に捧げて、喜びだけなく悲しみも、平和だけではなく困難に満ちた戦いも、成功だけではなく忍耐も、神様の与え給うままに「アーメン」と言って、自分の人生を受け取っていく。それが神の子どもらの生き方なのではありませんでしょうか。
そのように生きる時、私たちの貧しい考えや力によってではなく、神様の素晴らしい知恵と力によって私たちの人生が、神様の目的に向かって進み出すのです。そして、長いか短いか、それは分かりませんけれども、私たちの人生のうちに神様の目的が成就するのです。 |
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もう一つ、私は「成就した」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉から感じることは、安息ということであります。イエス様の地上でのご生涯は、常に神様と共におられたのですから恐れはありませんでした。しかし、それは決して安楽なもでもなかったのです。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と、イエス様は言われました。ここから察するに、イエス様のご生涯は、心休まることのない、悲しみと困難の絶えない毎日であったと創造されます。しかも、その最後は十字架という、言葉に尽くしがたい試練をお受けになったのです。イエス様にとって死とは、どんな苦痛の中の死でありましても、そのような生涯を戦い抜いたという安堵と安息の瞬間だったのではありませんでしょうか。
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(19:30)
ここで「頭を垂れて」という言葉は、「横になって休む」という意味の言葉が使われています。先ほども引用しましたが、「人の子には枕するところがない」とイエス様が仰いましたが、ここで出てくる「枕する」という言葉とまったく同じ言葉なのです。イエス様の地上でのご生涯は、横になって休むこともできない苦労に満ちたものでありました。しかし、十字架の死をお受けになった瞬間、イエス様はやっと安息を得られたということが、この言葉からも受け取ることができるのです。
私たち、神の子供らの人生も同じです。神の子とされた私たちの人生には神様が共にいてくださるのですから、何があっても恐れる必要はないでありましょう。しかし、神様の目的のために生きるということは、私たちもまた自分の十字架を背負って生きるということですから、悩みも、苦しみも、戦いも、悲しみもある人生なのです。神様の約束は、安楽の生涯ではありません。しかし、私たちが自分の十字架を背負って、悩み、苦しみ、戦い、涙して生きたこともすべては、どんな目にあっても、何一つ無駄にならない。それは必ず豊かな実を結ぶ。百倍もの実を結ぶ。そして、多くの人を力づけたり、慰めたり、祝福するものになるということが約束されているのであります。
パウロはこう言いました。
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(『コリントの信徒への手紙1』15章58節)
今、様々な労苦を負っている兄弟姉妹たちもいることでありましょう。その労苦が神様によって必ず報われ、実りをもたらし、私たちも慰めと安息を得ることができる日が来ることを堅く信じたいと願います。 |
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さて以上で、十字架上の七つの言葉をすべて見てきました。イエス様がこれらの言葉を語り終えて息を引き取られました時、『マタイによる福音書』によると、ちょっとどう説明していいか困るような不思議な事が起こったと言われています。
「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(『マタイによる福音書』27章51-53節)
第一に、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたということが書かれています。これは、マタイだけではなく、マルコやルカによる福音書にも記録されています。第二に、地震が起こり、墓が開き、葬られていた聖徒たちが生き返ったということが書かれています。これはマタイによる福音書だけに記されていることで、本当にこんなことが起こったのだろうか? ちょっと気味が悪い話だなという感想をもたれる方も多いのではないでしょうか。
しかし、この二つの出来事は、イエス様の十字架の死が、私たち罪人に何をもたらしたのかということを象徴的に物語る非常に意味のある出来事なのです。
まず、神殿の垂れ幕というのは、神殿の至聖所の前にかけられている垂れ幕のことであります。至聖所とは、聖所の中の聖所という意味でありまして、神様がいますところであると同時に、決して人間が中に入ることができない場所とされていました。ただ年に一度、大祭司だけが特別な儀式をもって中にはいることができたのです。その垂れ幕が上下に真っ二つに裂けたということは、言ってみれば、神様と人間との交わりを制限するものが、イエス様の十字架によって取り除かれたということなのです。このことによって、私たちは神様との親密なる交わりの中に生きることができるようになったのです。
それから、墓が開いて眠っていた聖徒たちが甦ったということですが、これは永遠の命を得て甦ったということではないだろうと思います。甦ったとしても、朽ちる肉体をもって甦ったのでありまして、また死ぬのです。しかし、その意味するところは、イエス様の十字架の救いには、私たちを死の力、滅びの力から解放する力があるということなのです。
それは死なないということではありません。しかし、イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と仰いました。死んでも生きる。死は私たちを滅ぼす力ではなく、新しい命への入り口となったのです。
そして、この二つのこと、すなわち神との交わりと新しい命、これをもたらすのは罪の赦しであります。イエス様の十字架によって私たちの罪がゆるされる。そのことをよって、閉ざされていた神との交わりへの門が開き、永遠の命への門が開いたのです。
本当にイエス様の十字架は偉大なる死であります。どうぞ、私たちも主の死を死ぬ者になろうではありませんか。主の死を死ぬとは、「わたしの力ではない」、「わたしの意志ではない」、「わたしの教えではない」、「わたしの勝手ではない」、「わたしの栄光ではない」、「わたしの言葉ではない」という生涯であります。死に至るまで神への信頼と服従に生きることであります。こうして、自分を虚しくして、神様が私たちのすべてとなっていただくことなのです。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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