十字架 -七つの言葉A-
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書19章28-30節
旧約聖書 イザヤ書58章6-14節
イエス様がいなければ光がない
 イエス様は午前九時に十字架につけられ、午後三時に息を引き取られました。この十字架上での六時間の間に、イエス様は七つの言葉をお語りになりました。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(『ルカによる福音書』23章34節)

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(『ルカによる福音書』23章43節)

 「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』といわれた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』(『ヨハネによる福音書』19章25-26節)

 これら三つの言葉は、午前九時から正午までの三時間の間に語られた御言葉であります。この後、長い沈黙があります。そしていよいよ息を引き取られるその時に、イエス様は息も絶え絶えに四つの言葉を叫ばれました。

 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(『マタイによる福音書』27章46節)

 「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」(『ヨハネによる福音書』19章28節)

 「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(『ヨハネによる福音書』19章30節)

 「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(『ルカによる福音書』23章46節)

 前回は、前半の三つの言葉についてお話をいたしました。今日は今際の時に語られた残りの四つ御言葉の中の二つの御言葉について見て参りたいと思います。しかし、その前に、イエス様の十字架をおおった暗闇について一言お話をしておきたいと思うのです。

 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(『マタイによる福音書』27章45節)

 真昼の太陽が輝きを失い、全地が暗闇におおわれたというのであります。自然科学の見地からすると、皆既日食が起こったのではないかとか、厚い雲にたれ込めて太陽の光を遮ったのではないかとか、そういうことは考えられますが、実際どういう現象だったのかは知り由もありません。文学的に考えますと、主イエスの死を悼んで、天が喪に服したという表現もできるかもしれません。

 しかし、これを霊的な現実として申しますと、イエス様という光を失ったならば、どんなに華やかな宮殿も、にぎやかな市場も、成功をおさめた者の豊かな人生も、力みなぎる若者の未来も、まったくの暗闇に閉ざされてしまうということを意味しているのであります。イエス様の十字架というのは、人間が、「お前なんかいらない」と、神の御子に引導を渡したということなのです。イエス様などいなくても、俺たちは俺たちでうまくやっていけるんだという、おごり高ぶった人間の宣言なのです。

 けれども、そうしてイエス様を十字架にかけてしまった途端、人びとは光を失いました。真っ暗闇の中に佇む者となってしまいました。彼らは、イエス様こそ、自分たちを照らしていた光であるということを知らないで、お前なんかいらないとイエス様を退けてしまったのであります。

 私たちもこんな経験をしないでしょうか。信仰というのは、逆境にある時よりも順風満帆の時にこそ失われやすいものなのです。仕事で成功した時、家族が平和な時、健康に自信がある時、それらはすべてイエス様の愛と恵みであるにもかかわらず、私たちはふと心をゆるめて、イエス様が家族の次の者になったり、仕事に次の者になったり、自分自身の楽しみの次の者になったりするようになってしまうわけです。信仰とはイエス様を第一とすることであることです。それによってすべてものが光の中に置かれるということが、イエス様の祝福です。しかし、それを忘れて、イエス様が二番目の方になり、三番目の方になり、しまいには暇がないからお祈りができないとか、聖書を読めないとか、教会にいけないという風になってしまうのです。

 イエス様が、私たちの人生の邪魔者として扱われる時、私たちの人生がそれでも光の中にあると思ってはいけません。イエス様がいなければ、私たちの人生は暗闇の中にあるのです。 
敬老会によせて
 白洋舎の創立者である五十嵐健治氏は、一時は絶望のあまり自殺まで思い詰めた人でしたが、一人のクリスチャンによって信仰に導かれ、人のいやがる仕事で人に喜ばれる仕事、そしてそれを通して、生涯キリストを証しすることのできる仕事をと考えて、洗濯業を始めました。そして、非常に苦労して独力でドライクリーニングの技術を開発し、成功を収めた人でありますが、その経営方針の第一に「どこまでも信仰を土台として経営すること」をあげて、常にイエス様を第一として生きた信仰者でありました。

 その方が晩年、死を前にしてこんな風に語っておられます。

 「墓地に行くと、無縁の墓がありますね。年が経つにつれてやがて誰からも忘れられてしまうのですが、私は自分もそうだと思う。今は八十八歳。明日のことはわかりません。まあ、孫か曾孫まで覚えてくれるかもしれない。しかし十代、十五代先となると、誰一人として私を覚えてくれる者はないだろう。しかしその時に、私のような者を心にとめ、永遠に愛してくださる方はキリスト様の他にはない。永遠にキリスト様だけが私の友である」(正木茂「この日、この朝」より)

 五十嵐さんは、富も名声も得た方ですが、そのようなものを心の支えとして生きておられたならば、老いてゆく寂しさ、死んで人びとに忘れられてゆく虚しさに耐えることはできなかったでありましょう。しかし、五十嵐さんは「私のような者を心にとめ、永遠に愛してくださる方はキリスト様の他にはない。永遠にキリスト様だけが私の友である」と、イエス様を心の支えとすることによって人生の夕暮れにあっても、なお慰めと希望を失わなかったのであります。

 旧約時代の預言者ゼカリヤはこのように言いました。

 「夕べになっても光がある」(『ゼカリヤ書』14章7節)

 今日は、礼拝の後、敬老会が行われることであります。教会で行われる敬老会というのは、長寿をお祝いするとか、お年寄りをいたわるとか、そういう世間一般の意味とはちょっと違うものがあると思います。目がかすみ、耳が遠くなり、歯も抜け落ち、足腰が弱くなり、そのように体が衰えていくということは、個人差はあれ、自然の摂理として誰にも訪れることであります。しかし、どんなに体が衰えても、イエス様をわが友として生きる者には、復活の希望、永遠の命の希望があります。この希望を本当に力強く私たちに証してくれるのが、人生の夕暮れになおも光をもって歩んでおられる敬老の兄弟姉妹たちであります。

 アメリカの第六代・大統領ジョン・クィンシーにこんな話があります。彼が街を散歩していると、ひとりの青年が挨拶をしてきました。「元・大統領のジョン・クィンシーさんではありませんか。お元気ですか」クィンシー元大統領は答えました。「ありがとう。クィンシーは至極元気だよ。しかし彼の家はもうだめだな! 瓦は飛んでいるし、壁はおちているし、つっかえ棒さえしてあるよ」これを聞いた青年は不思議そうに聞き返しました。「でも、あなたの家はまだまだ頑丈そうに見えますが・・」クィンシー元大統領は、帽子を取って「さあ見てごらん。頭の瓦はだいぶ飛んだよ」それから胸を広げて、「壁の土もだいぶ落ちたよ」それからまたステッキを指して「風がふくとゆらゆらするので、つっかえ棒までしているんだよ。そろそろ引っ越しだな」と、笑って答えたそうです。クィンシー元大統領は、自分の老いていく肉体を悲観しないで、天国への引っ越しする希望をユーモアをもって明るく語ったのでした。

 今日、私たちもまたこのような希望に生きる兄弟姉妹たちと共に礼拝を守り、聖餐式にあずかり、また愛餐の時を過ごし、私たちの希望が新たにさせられる恵みを、心から喜びたいと思います。
わが神、わが神
 さて、少し脱線をしましたが、十字架上におけるイエス様の最期の御言葉を学びたいと思います。真昼の太陽が輝き、三時間が過ぎた時、イエス様は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」すなわち「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

 これは、イエス様の十字架を理解する上でとても大切な御言葉尊でありますが、すでに十字架の主についての三回目の説教でお話してあります。今日はちょっと違った角度から、補足をしておきたいと思います。

 私はここを読んで、イエス様がこの絶望の叫びの中に身を置かれたことの大いなる意味を思えば思うほど、私のような甘っちょろい人間が安易に「神様に見捨てられている」などという絶望の言葉を言ってはならないと考えるのです。

 どんな時にも神様と深い交わりの中におられたイエス様が、どうして神様に見捨てられ、十字架で死なねばならなかったのでしょうか。その理由はただ一つ、私たちが神様に見捨てられない為なのです。私たちが神に赦され、愛される者となるためなのです。そのことを考えますと、イエス様が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びの中に身を置かれたということは、私たちは決して神に見捨てられることはないということの保証なのです。

 それなのに、私たちが「私は神に見捨てられている」とか、「愛されていない」とか、「祈っても聞かれない」と言うことは、どんなにイエス様の十字架の愛を空しくすることでありましょうか。確かに私たちの人生にも、辛い時、苦しい時、神様の愛が見えない時があります。しかし、そのような時にこそイエス様の十字架を見上げ、神様の愛を深く信じる者になりたいと願います。
渇きの苦しみ
 次に、イエス様が語られた言葉は「渇く」という言葉でした。

 「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」

 これは、イエス様が十字架におかかりになった肉体的な苦しみを漏らされた唯一の言葉だと言ってよいでしょう。私は勝野和歌子牧師の最期を思い浮かべるのですが、渇きの苦しみは経験した者でないと分からないと言います。ある人は気も狂わんばかりの苦しみだと言います。

 ヨハネ福音書では「こうして、聖書の言葉が実現した」とありますが、それは詩編22編15節のことを指していると言われます。

 「口は渇いて素焼きのかけらとなり
  舌は上顎にはり付く。
  あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」

 渇きの苦しみが生々しく表現されています。このような渇きの苦しみを自分のこととして味わっておられる人びとは決して少なくありません。肉体的な渇きだけではなく、愛の渇きということまで考えたら、どれだけ多くの魂が渇きに苦しみ、そのために自殺をしたり、狂気に満ちた犯罪行為に及んでいるでしょうか。強盗、通り魔、放火、私たちはこのような犯罪を犯してしまった人びとに魂の渇きを知ることもできなければ、そのような人びとに情けをかけることもできません。

 しかし、イエス様は渇きの苦しみを知っておられます。それゆえに、そのような人びとにもなお憐れみ深く、情け深くいてくださる御方なのです。聖書はこう語っています。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(『ヘブライ人への手紙』4章14-16節)
 
 あと二つ、「成し遂げられた」という御言葉と、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という御言葉が残っていますが、時間がありませんので次回にお話をしたいと思います。
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