十字架 -七つの言葉-
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書19章25-27節
旧約聖書 創世記50章15-21節
十字架の救い
 これまでイエス・キリストの十字架の死について、三回のお話をしてまいりました。今日はまず、これまでのお話を簡単に振り返り、もう一度十字架の救い、十字架の愛ということについてお話をしておきたいと思います。

 最初は、十字架こそ福音の中心のあるというお話であります。福音とはイエス様のしてくださったことと、してくださること、この二つのことによって私たちが救われることです。その中心にイエス様の十字架があります。イエス様は私たちのために十字架にかかってくださり、「十字架につけられしままる姿」で私たちと出会ってくださるのであります。

 二回目は、それでは「十字架の救いとは何か」ということを、私自身の証しを通してお話しさせていただきました。生きていくうちにはいろいろ困ったことや面倒なことがあります。そういう難しい問題が祈りによって解決していく。それが神の愛であり、イエス様の救いであると、まだ私は信じておりました。しかし、人間の問題というのはそれだけではないのです。たとえこの世のすべてのものを手にしても、私たちの心に決して満たされないような空白があります。自分は何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、自分には本当に生きる価値があるのか、そういった自分の存在と人生の根源にかかわる空白であります。

 この空白を埋めるのは神様しかいません。神様が罪の赦しと愛と祝福をもって私に触れてくださり、私を満たしてくださるのでなければ、自分はまったく価値のない存在だと、私は感じていました。しかし、どうしたら、どこにいったらこのような神様に出会うことができるのか。それがイエス・キリストの十字架であったのです。神様が罪深い存在である私を赦し、愛をもって受容し、また親しき祝福の交わりの中に招いてくださっている、その恵みのすべてを私に差し出してくださっているのが、イエス様の十字架なのです。

 三回目には、イエス・キリストの十字架だけが、そのような神との出会いを果たす唯一の場所であるというお話をいたしました。十字架というのは、罪を憎み給う義の神とどんな罪人も見捨てることができない愛の神が戦い給う場所なのです。神様がふたりいるということではなくて、同じ一人の神様が、その中において戦っておられるわけです。

 このことは、私たちが自分に罪を犯した者を赦そうとするときのことを考えてみると分かると思います。赦すことによって一番傷つき、苦しむのは自分なのです。それに耐えられないならば、私たちは決して人を赦すことはできません。しかし、敢えてその痛みに耐えることに意味を見いだし、破れた関係をなんとしても修復しようとするところに赦しが成立するのです。

 神様も、その赦しの痛みを十字架で味わっておられます。神の御子を拒絶し、十字架につけて殺してしまう人間たちがいる。もし、神様がイエス様を救おうとなさるならば、この人間たちを憎んで滅ぼすしかありません。それは神様にとって実にたやすいことにちがいありません。しかし、神様はそれをなさいませんでした。愚かで、頑なで、神様に対する敵意をむき出しにして生きている人間の罪を深く歎き悲しみながら、なおも「どうしてお前を見捨てることができるだろうか」と言って、御子を十字架に見捨て、罪深い人間たちを抱きしめようとしてくださるのです。この神様の痛み、苦しみ、それが主イエスの十字架であり、神の愛の真の現れなのです。

 神様が、私たちの罪を深く悲しみ嘆きつつ、私たちを愛してくださっている場所、それが十字架です。主の十字架を仰ぎ、そこにある神様の赦しの痛み、愛の苦しみというものを、私たちの魂がしっかりと捕らえるとき、私たちは、この罪深い者をなおも憐れみ、ご自身の苦しみに打ち勝って受容し給う神様の大きな愛と出会うことができるのです。この神様の愛が、私たちの心の空白が埋め尽くしてくれるのです。神なき望みなき者であった私たちは、私の存在、人生が神様に愛されるためにあることを知り、神の子供たちとして、希望を持ち、新しい人生を力強く歩み始めることができるようになるのです。 
無知のゆえに
 さて今日からは視点を変え、イエス様の御言葉に焦点を当ててお話をしたいと思います。イエス様は十字架上で七つの言葉を発せられました。この七つの御言葉は、イエス様が十字架にかかられた午前9時から正午までに語られた三つの御言葉と、長い沈黙の後、午後3時に絶命される寸前に叫ばれた四つの言葉に分けることができます。今日は前半の三つの御言葉を通して、イエス様の十字架をもう一度心に描きたいと思うのです。

 最初にイエス様が発せられた言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という祈りの言葉でした。赦しの愛ということについては、すでにお話しをしてきました。今回は「自分が何をしているのか知らないのです」という御言葉に心を留めて味わいたいと思うのです。

 確かに、私たちは無知なんだと思います。一生懸命に、真面目に生きている人たちはいっぱいいます。しかし、今自分が一生懸命にやっていることが、本当に自分やみんなの幸せに結びつくことなのか? 自分が正しいと信じていることは本当に正しいのか? そのことが分かっていないのです。ですから、みんな幸せを願って生きているのに、不幸せになってしまう。みんな平和を願っているのに、争い遭うことしかできない。そんな矛盾が起こってしまっているわけです。

 イエス様の十字架は、そういう人間の抱えている矛盾の象徴であるとも言えましょう。イエス様を十字架につけた人びとは、神様を知らないとか、神様を憎んでやまない人たちではありません。そのまったく逆で、最も信仰深く、最も聖書に精通し、神のしもべとして尊敬されていた人びとでした。そのような人たちが、その宗教を守ろうとして、神を喜ばせようとしてやったことが、神の独り子なるイエス様を十字架にかけて殺すことだったのです。

 どうしてこんな矛盾が起こってしまったのでしょう。無知だったからです。彼らはいろいろなことを知っていました。もっともっと勉強して学ぼうともしていたでありましょう。けれども、どれだけ多くの知識を身につけたとして、イエス様を否定し、邪魔にするような知識では、誰も喜ばせることはできないし、救うことができないのです。

 「画竜点睛」という故事があります。昔、中国の偉い画家が、お寺に頼まれてそれは見事な、今にも動き出しそうな素晴らしい竜の絵を描いたそうです。ところが、不思議なことに竜の目には瞳が入れられておらず、うつろな目のままでした。当然、人びとは竜の目をぜひとも完成させてくれと頼みますが、画家はそれを拒み、こう言ったのでした。「いや、睛は入れられない。あれを画きこんだら、竜は壁をけやぶって、天に飛び去ってしまうのだ。」

 人びとはそんなことを信じようともせず、ぜひとも瞳を書き入れるようにと頼み、とうとう画家も折れて、墨をふくませた筆を、竜の眼にさっとおろしました。すると、たちまち風雲巻き起こり、竜は絵を抜け出して天に昇っていったという話です。

 このことから「画竜点睛」とは、物事のもっとも重要な部分、それによって全体に命が吹き込まれる部分を指す言葉となりました。私たちにとって、イエス・キリストを知ることが画竜点睛なのです。もし私たちがあらゆる知識に通じていても、イエス・キリストを知らないならば、それは画竜点睛を欠く知識となってしまいます。すべての知識に命を与えるところの一番大切なこと、それがイエス・キリストを知るということなのです。

 パウロは、キリストを知ることこそ画竜点睛であるということについて、こう語ります。『フィリピの信徒への手紙』3章5-9節、

 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」

 パウロは、今まで誇りとしていたもの、民族であるとか、学問であるとか、功績であるとか、名誉であるとか、そういったものが、もしイエス様を知るということにとって邪魔になるなら、喜んでかなぐり捨てようということを言っているのです。イエス様を知るということこそ、何にも優る知恵であり、知識であり、喜びであるからだということなのです。
「今日」という日の救い
 十字架上での第二の言葉は、一緒に十字架につけられた強盗の一人に向けて語られたことでした。イエス様は、二人の強盗と共に十字架につけられたと、聖書は記しているのですが、その強盗までもが人びと一緒になってイエス様をののしりました。ところが、一人の強盗は「父よ、彼らをおゆるしください」という祈りを聞いて悔い改め、もう一人の強盗に「お前は神を畏れないのか」とたしなめ、さらにイエス様に向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とお願いをしたのでした。すると、イエス様はこの強盗に向かって、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと楽園にいる」と言われた、それが十字架上でも第二の言葉です。

 私は「今日」という言葉の内に、救いの力強さを感じるのです。この強盗にとっての「今日」とは、人生最後の「今日」であります。その最後の日を、彼は十字架の上で、裸にされ、見せ物にされ、最後まで苦しみを嘗め尽くして、惨めなる死を迎えようとしているのです。この日は、彼の愚かなる人生の結末としての「今日」でありました。このような「今日」という日が、イエス様によって一瞬にして、救いの日に変えられるのです。
 聖書は、このような救いの「今日」という日を繰り返し約束しています。たくさんあるのですが、みなさんもよくご存じの御言葉をいくつか拾い上げてみたいと思います。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(『ルカによる福音書』2章11節)

 イエス様がお生まれになったことを羊飼いたち告げた天使のみ声であります。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(『ルカによる福音書』19章5節)

 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(『ルカによる福音書』19章9-10節)

 イエス様が、町中の嫌われ者であるザアカイの家にお泊まりになったときの御言葉です。ザアカイは、この日を境に生まれ変わったのでした。
イエス様は遠い将来のことではありません。天国に行ったら救われるというものではありません。私たちの「今日」がどんなに暗く、絶望に満ちていようと、あの強盗のように明日はない「今日」であろうと、この「今日」という日を救いの日にしてくださるのです。

 ですから、『ヘブライ人への手紙』には、このように勧められています。

 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
  神に反抗したときのように、
  心をかたくなにしてはならない。」
             (『ヘブライ人への手紙』3章15節)

 「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。」
             (『ヘブライ人への手紙』3章13節)

 「今日」という日が、私たちの救いにとって大切な一日一日であることを覚えながら、信仰を道を精進してまいりたいと願います。
母マリアへの言葉
 イエス様の十字架上で第三の言葉は、母マリアに対する言葉でありました。前にもお話をしましたが、イエス様が逮捕されたとき、男の弟子達はみんな恐れをなして逃げ去ってしまいましたが、マグダラのマリアをはじめとする婦人の弟子たちは、ゴルゴダに向かう悲しみの道を歩まれるイエス様の後を嘆きつつ従い行き、十字架のそばで、あるいは遠くから、イエス様の最後をしっかりと見とどけようとしていたのでありました。その中には、母マリアもいたと、『ヨハネによる福音書』は記しているのです。

 「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」

 ここを読みますと、あの老シメオンの預言を思い起こします。生まれたばかりのイエス様を連れて、ヨセフとマリアが宮詣に来たときのことでした。聖霊に満たされたシメオンが近づいてきて、母マリアにこう言うのです。

 「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」(『ルカによる福音書』2章34-35節)

 イエス様の十字架の苦しみは、母マリアも全身で味わっていたに違いありません。シメオンの言葉を借りるならば、剣で胸を刺し貫かれる痛みを必死になって耐えながら、我が子の最後を見とどけようとしていたのでありました。なんと惨いことでありましょうか。

 そんな母の姿を見て、イエス様は十字架上から「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と、その側にいた愛弟子ヨハネを紹介し、ヨハネにもまた「見なさい。あなたの母です」と紹介したのでありました。こうして、ヨハネはイエス様の母であるマリアを自分の家に引き取ったと言われています。イエス様の十字架のもとで、新しい家族の絆が結ばれたのです。

 ここに教会の根源があるのではないでしょうか。私たちは皆、様々な悲しみをもってイエス様の十字架のもとに集まっております。このような私たちに、「見なさい。あなたの母です」、「見なさい、あなたの子です」と、イエス様は語りかけ、新しい霊的な家族の絆に結び合わせ、慰めを与えてくださるのであります。

 そして、それはイエス様が私たちに与えてくださった使命でもあるのではありませんでしょうか。つまり、悲しんでいる者の父となり、母となり、子となり、兄弟姉妹となって、慰めに満ちた新しい家族というイエス様の御心が、教会に与えられているのだと思います。

 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」(『コリントの信徒への手紙二』1章4-5節)

 これはちょっと不思議な文章だと思います。神様が私たちの苦難を慰めてくださり、その慰めをもって私たちも苦難の中にある人びとを慰めることができる。これはわかりやすいことだと思います。しかし、その次に「キリストの苦しみが私たちに満ちあふれているように、慰めもキリストに満ちあふれている」とは、どういうことを言っているのでしょうか。

 最初にお話ししましたように、私たちの救い、つまり人生の慰めは、キリストの十字架を通して与えられるのであります。ですから、神様によって慰められ、神なき望みなき人生から救われた私たちは、キリストの十字架のみ苦しみということを忘れて生きることはできません。イエス様が私のために十字架にかかって死んでくださったのだということに、いつも痛みと感謝をもって生きるのが、神に慰められた者の生活なのです。

 このような生活は、決して自分の慰めばかりを求める生活にはならないでありましょう。その慰めがイエス様が私たちのためにご自分を犠牲にしてくださったことから来るものであることを知るならば、必ず自分もまた、苦しみの中にある人びとの慰めになろうとする生活をするからです。しかし、その生活があるところに、キリストは満ちあふれる御方となってくださるのだ。それがキリストのいます教会なのだということではありませんでしょうか。

 そういう意味では、イエス様が十字架にかかってくださったのは、私たちが救われるということに留まらないのです。私たちを通してキリストの慰めが苦しめる人びとに満ちあふれていく。そのために、私たちがイエス様の苦しみに与る者になる。そのためであるのです。「キリストだに己を喜ばせ給はざりき」(『ロマ書』15章2節)との御言葉を、わたしはいつも思い起こします。どうぞ、十字架のもとで慰めを受けつつ、私たちもまたキリストの慰めとして世に遣わされる者になりたいと願います。 
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