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私たちは日々、いろいろな問題を抱えて生きています。救いとはそれらの問題が解決されることだと言えましょう。けれども、いろいろな次元の解決があります。とりあえず急場はしのいだという解決もあるでしょう。しばらくは安心だという解決もあるでしょう。そういう解決では、いずれまた似たような問題で悩まされる時が来ます。それでは本当の救いとは言えないのです。
私たちにはもっと根源的なところから不安や恐れを取り除かれなくてはならないのではないでしょうか? その問題が解決されてこそ、真の救いだと言えるのではありませんでしょうか? 先週、私が自分の体験を通してお話しさせていただいたのは、そのような救いを私たちの魂に与えてくれるもの、それこそがイエス・キリストの十字架であるということなのです。イエス・キリストの十字架は、神なき望みなき人間が愛なる神様と出会う場所だと言ってもよいかもしれません。
神なき望みなき人間、と申しました。いろいろな問題が私たちの人生を襲うとき、普段は神様のことなど考えもしない人間も、神様のことを考え、神様に祈ることがあると思います。今年4月、尼崎における福知山線の列車事故があった時のことでした。ニュースを見ていますと、愛する家族を失って悲しみに暮れている方が、差し向けられたマイクにこう答えるのです。「私は運転手よりも、JRよりも、神様を憎む」と。
この事故は死者107名、負傷者550名を出した大規模な列車事故です。私たちはどうしてこんな事故が起こったのだろうと思いました。最近になってようやくいろいろな原因や状況というものが明らかになっています。しかし、この事故に巻き込まれた人々にとって、「どうして?」という問いは、単に事故の原因だけに向けられているわけではないと思うのです。脱線してしまったのは列車だけではなく、彼らの人生でもあったからです。たとえ列車脱線の原因がわかったところで、今までの人生が突如として失われてしまった悲劇については何ら納得できる答えを見いだせるわけではないでしょう。
「神様を憎む」と言った人は、これまで何かしらの神様を信じきたというわけではないように思えました。けれども、人生には、人に問うても仕方がない問題、神様に直接問わなければ決して解決しない問題があるのです。この人も、これは運転手のミスとか、JRの安全管理の不届きとか、そういう次元の問題としてではなく、私には神様に問うべき問題であるということを言いたかったのではないでしょうか。
しかし、そうして「神様!」と叫んでも、どこにも自分を救う神様を見いだすことができません。極端な話、教会に行っても、聖書を読んでも、お祈りをしても、献金をしても、一生懸命に奉仕をしても、それだけでは自分を救う神様を見いだすことはできないのです。つには「神様なんか本当にいるのか」という気持ちになってくる。私はそういう経験をしたのでした。それが神なき望みなき人間の姿です。
けれども、そのような神なき望みなき人間が、神様の愛に出会うことができる唯一の場所があります。それがイエス・キリストの十字架なのです。
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いったい主イエスの十字架とは何なのでしょうか。二千年前、一人の偉大な聖者が、妬みにかられた権威主義者、偽善者たちによって迫害され、殉教したというだけの話だけではないのでしょうか。確かに、イエス様は、すべての人々から拒絶され、打ち捨てられて十字架にかかられました。
しかし、もう一つ、見落としてはならない側面があります。それは、イエス様がご自分の意志をもって、自らを十字架に上に捨て給うたということであります。十字架の下から、「自分を救え」というあざけりの声がイエス様に向かってぶつけられます。祭司長たちも、兵士たちも、通りかがりの民衆も、はたまた一緒に十字架につけられた強盗までも、イエス様に「自分を救え」と言いました。しかし、イエス様は決して自分を救わないのです。苦しみを和らげるための苦いぶどう酒も拒絶されて、十字架の苦しみを余すことなく嘗め尽くそうとされたのでした。
肉体的な苦痛だけではありません。ご自分を十字架にかけた者たちに対して「父よ、彼らをおゆるしください」と祈ります。人を赦すということは、相手の罪を、悪意を、攻撃を、その苦しみや悲しみを一身に受けて、相手を受容することです。もし、自分を救おうとしたら、決して相手を赦すことはできません。イエス様は敵を憎むのではなく、愛そうとされました。そのためにご自分を犠牲にされました。それがイエス様の十字架でもあったのです。
さらになお、十字架にはもう一つの側面があります。それは、神がイエス様を十字架の上に捨て給うということです。正しい者が、神の聖者が、神の愛し給う独り子が、悪しき者たちによって拒絶され、殺されてしまう。こんな間違ったことはありません。そんなことを許すようでは、神の正義が確立しないのです。しかし確かに、神様はそれを容認なさいました。
イエス様は、十字架の上でこう叫ばれたのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てになったのですか」
これは詩編22編の御言葉です。
「わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。」(『詩編』22編2-3節)
先ほど、「私たちは神様に呼んで答えていただけない神なき望みなき人間だ。そのような人間が唯一、愛なる神様に出会うことができる場所が十字架である」と申しました。しかし、その十字架というのは、神様の独り子なるイエス様が、神なき望みなき私たちと同じように、「どうして私をお見捨てになったのですか。呼び求めても答えてくださらないのはどうしてですか。」と叫んだ場所、つまり神様がご自分の最愛の独り子を見捨て給う場所なのです。
私は、さらに思います。神様はそういうことをしなければならなかった。そこに神様の大きな悩み、苦しみ、痛みというものがあったに違いないのです。そうしますと、十字架は、神様ご自身が悩み、苦しみ給う場所であるという言い方もできると思います。 |
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神様の悩み? 神様の苦しみ? このような言い方は、少し変だと思われるかもしれません。けれども、聖書の神様は痛みも悩みもないような神様ではありません。神様もいろいろ悩んだり、苦しんだりしながら、私たちを愛してくださっているわけです。
今日は、先週に引き続いて『ホセア書』11章をお読みしました。先週はこれについてお話をする時間がなかったので、今日、少しお話しさせていただきたいと思います。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。」(1-4節)
ここには、神様がどんなに風にしてイスラエルの人々を慈しんで愛してきたかということが書かれています。「エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」というのはエジプトの奴隷状態であったイスラエルを、神様を解放してくださったという出来事のことであります。
しかし、イスラエルの人々は神様を裏切り、バアルや偶像礼拝にうつつを抜かしてしまった。それにも関わらず、神様は忍耐強く、また身を屈めて、彼らに歩むことを教え、癒しを与え、必要を満たして養ってきた。それが私の愛だと、神様は言っておられるのです。
けれども、この時、イスラエルは今また神様を愛さず、その御言葉に従わないで歩み、アッシリア帝国に滅ぼされ、屈服させられ、再び奴隷の民に成り果てようとしているのです。そういう状況の中で、この神様の言葉が語られています。
「彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。
彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。
わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。」(5-7)
この災難は、ぜんぶお前達の「身から出た錆」ではないか。あなたがたたが、私たちに立ち帰ることを拒み、頑なに背き続けてきた結果ではないか。私は、もうさじを投げた。あきれかえって物も言えない。たとえあなたたちが私に向かって叫んでも、助け起こされることは決してないだろうと、神様は最後通牒をつきつけたのでありました。
私たちが「神様はどうしてこんなことをするのか。どうして何もしてくれないのか」と問うような時には、これと同じような事が神様から問われているだと思うのです。「神も仏もあるものか」、「私は神様を憎む」なんて言うけれども、わたしが、あなたの人生に与えてきた多くの愛、多くの導きに対して、あなたはいったいどのように答えて生きてきたのか。
神なき望みなき人間とは言いますが、神様が私たちに顔を背けたのではないのです。私たちが神様に顔を背けて、自らを神なき望みなき道を選んで歩んできたのです。なぜ、信じなかったのか。なぜ、立ち帰ることを拒んできたのか。もはや助けはないと言われたならば、二の句が継げないのです。
しかし、そのすぐ後で、神様の御言葉の語調ががらりと変わります。厳しく問い詰める口調から、再び愛に富み給う父親の口調に代わります。
「ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。」(8)
ここを読みますと、どら息子の所業を嘆きつつ、しかしこれを抱きしめずにおれない神様の切々たる愛の悩みというものが感じられます。別の言葉で言い表せば、神様の中で心と心が、つまり激しい怒りとそれに優るとも劣らない激しい憐れみがぶつかり合って、戦っているのです。そして、次の言葉へと続きます。
「わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。」(9)
神様の愛が、神様の怒りに打ち勝ったということが、ここで言われています。そして、怒りの対象である者を愛そうとするこの神様のご意志が確立されたというのです。
しかし、ここで忘れてはならないのは、神様の心の葛藤なのです。神様の怒りは、人間の短気から来るようなものではなく、絶対的な正義に基づく怒りです。この怒りが失われるならば、神の正義が曲げられることになると言ってもよいでありましょう。他方、神様の中には激しい愛があります。何があっても貫かれる真実の愛です。この二つの心が神様の中でぶつかるのです。
ある人は、これは神と神の戦いであると申します。ひとりの神様の中で、罪人に死を与えようとする神と、罪人を抱きしめようとする神がおられて、対立しているのです。神様の愛というのは、このような神様の内に起こる激しい悩み、苦しみ、痛みなくして考えられないことなのです。 |
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イエス様の十字架は、神なき望みなき人間が愛の神に出会う場所であると申しました。なぜなら、そこにはこのような神様に悩み、苦しみ、痛みという手続きを経て確立された真実の神様の愛があるからです。
罪を犯した人間を、まあいいじゃないかと簡単に許すのが、真実の愛ではありません。それは単なる無関心です。もし、本当に愛しているならば、罪を犯した人間のことを悲しむはずです。そして、その罪の大きさを知って欲しいと願うはずです。しかし、そうなったら、神様は人間を死に定める他ありません。それほど人間の罪は救い難いものなのです。真実の愛は、それもできません。たとえどんなに救い難い人間であろうとも、これを抱きしめずにはいられない。この身が引き裂かれるような戦いを経て、確立された愛こそが真実の愛なのです。
その神様の苦しみが、イエス様の十字架にあります。イエス様は、神の独り子、神と一つなる御方、それを十字架にかけ給う神様というのは、自分で自分を殺すような苦しみを味わっておられるのです。それは、怒りに定められ、死に定められた人間を、なお抱きしめて愛し、生かすためであります。
神なき望みなき人間が、なおも神様の愛を見いだすことができるとしたら、私たちの罪のために、わが身を引き裂くような思いで独り子なるイエス様を死に渡された、神の悩み、苦しみ、痛みの頂点にあるイエス・キリストの十字架の他にないのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)
イエス様の、この十字架上の叫びをしっかりと私たちの胸の奥で受け止める者になりたいと思います。「自分を救え」と嘲られても、決して自分を救おうとなさらなかったイエス様の堅いご意志をも忘れないようにしたいと思います。それを忘れて、「神は愛なり」と歌うことはできないのです。
しかし、私たちがどんな絶望にあっても、イエス様の十字架のもとにゆくならば、私たちは神様と愛と希望を取り戻すことができるのです。それによって、神なき望みなき人間から、神様に愛されている子どもとして、新しく生まれ変わることができるのです。
それは言い換えれば、人間性の回復であります。神なき望みなき状態が、いかに人間性を損なっていたか。そのことによって、私たちは理性も、感情も、常に恐れや不安や絶望に支配され、真の愛を知らず、真の希望を知らず、真の喜びを知らぬ者でありました。
たとえば戦争もそうです。平和を維持するためにはもっともっと強力な武力を装備しなければいけない。こうした矛盾したことを、誰もが信じて疑いません。これが神なき望みなき人間の理性なのです。
しかし、私たちがイエス・キリストの十字架のもとで、独り子を惜しまず与え給う神様の偉大な愛に出会うならば、恐れや不安は消え、愛すること、信じること、そして生きる喜びを喜ぶこと、そういう当たり前の人間になることができるのです。そして、今までとは何もかも違ってきます。平和のためには赦すこと、武装を解除することであるという、考えてみれば当たり前の理性が取り戻されるのです。
私たちの犯してきた罪が消えてなくなるわけではありませんが、そのことは私たちを絶望に音知れるのではなく、このような者をも愛し給う神の愛の大きさを讃える源となります。
パウロは、このようにまったく生まれ変わった人間の一人でありました。キリスト教を憎み、教会を迫害し、クリスチャンを捕らえて牢屋に放り込むことを信仰だと思って生きていたパウロは、逆にイエス・キリストの福音を世界中に伝える人間となったのです。パウロはこのように申しました。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(『コリントの信徒への手紙二』5章17節)
これこそ真の救いではありませんでしょうか。私たちが今まで何をしてきたか、今何ができるか、これから何かできるか。そういうことに関わらず、神様が私たちを愛してくださっている。その神様の愛を信じて、希望を持つことができるのです。困難がないわけではありません。悩みがないわけではありません。しかし、神様がともにおられることを知り、希望をもって困難に立ち向かうことができるのです。私たちをこのような人間として生まれ変わらせてくださる救いが、われらの主イエス・キリストの十字架にはあるのです。 |
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Translation
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