十字架 -ゴルゴダの丘-
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ルカによる福音書23章32-38節
旧約聖書 ホセア書11章1-11節
真の救いとは何か
 先週は、福音の中心なるイエス・キリストの十字架というお話をしました。新約聖書には四つの福音書があり、それぞれの特徴をもった視点で、イエス様の生活、教え、御業を描き出しています。けれども、もっとも重点を置いて描き出されているのは、十字架におかかりになる最後の一週間でありまして、どの福音書も約三分の一から半分をそのことに費やしているのです。このことから分かりますのは、福音書というのは単純にイエス様のご生涯を伝える物語ではなく、「イエス様の十字架こそ、私たちの救いである」ということを伝える物語であるということなのです。

 では、救いとは何でしょうか。私たちが救われたいと思っている問題や悩みというのは、みんな違うことだと思います。それなのに、「イエス様の十字架こそ、私たちの救いである」などと、一口で簡単に言い切ってしまっていいものなのでしょうか? イエス様の十字架が、いったいどのように私たちの抱えているあらゆる問題、たとえば健康の問題、金銭上の逼迫した問題、家族の軋轢、心に受けた痛手、そういった現実問題に答えてくれるというのでしょうか?

 かつて、私は祈りが聞かれることが神の救いだと思っていたことがありました。困ったことや、願い事があるとすぐに神様にお祈りをしました。中学生の時、私は好きな女の子と友だちになれるようにお祈りをしました。高校生の時には試験の山が当たるようにとお祈りしました。大学生の時には生活費の不足分を補ってくださるようにともお祈りしました。そして神様は、このようなお祈りを実によく聞いてくださいました。

 こうして私は、生ける神様ということを知り、自分の祈りをいつも聞いてくださる神様がいらっしゃるということに神様の愛と救いを感じるようになりました。今でも、私は祈りが聞かれると信じ、どんな問題でも神様の導きと助けを求めて祈ります。そして、神様の愛と恵みを経験することに大きな祝福を覚えるのです。

 しかし、困ったときに呼べば助けに来てくれるというだけでは、私たちの問題を根本から解決してくれているとは言えません。たとえば病気を癒されたとしても、もう二度と病気にかからないということではありません。一つの問題が解決しても、新しい問題が自分を悩ませ、苦しめるだけなのです。私もだんだんそういうことが分かってきまして、どんなことがあっても悩んだり、苦しんだり、悲しんだりすることのない霊的に強い人間になりたいということを祈り求めるようになりました。 
罪の問題
 ところが、こういう風に祈り始めますと、逆に自分がどんなに霊的に弱く、貧しい人間であるかということを痛切に感じるようになってしまいました。心の中に渦巻いている私の狡さ、貪欲さ、臆病さ、偽善、利己心、そういうものが私の霊性を弱く、貧しく、惨めなものにしているということはひしひしと感じるのです。

 なんとか、それに打ち勝って霊的に強い、清い人間になりたい、そう願いました。けれども、自分の弱さにどうしても勝てないのでした。「弱さ」とは言いますが、実はこれはものすごく頑固で強いものなんですね。もちろん、このことも神様にも祈りました。しかし、祈っても、祈っても、これだけはどうしても聞かれなかったのです。

 私は情けなさでいっぱいでした。私が真剣に自分の罪ということを考え、思い悩むようになったのは、この時からです。自分の中には、どうしても神様の思いに逆らおうとする根深い罪があると思いました。そのために、自分は神様に愛されていないのではないかということを真剣に思い悩みました。

 その頃の私は、端から見れば完全な鬱状態に陥っていたと思います。朝起きることができず、昼過ぎまで寝ていました。もちろん、大学の講義など出られるはずもありません。本当に親しい友人以外とはおしゃべりもせず、四六時中、心が重く感じられました。また怒りっぽく、いらいらしていることが多かったように思います。しかし、逆に虚脱状態に陥って、雨の中の傘もささずにふらふらと歩き回っていることもありました。

 ある日曜日、私は教会の礼拝が終わってから、すぐに帰る気になれなくて喫茶店に入り、ひとりでコーヒーをすすりながら、このことを悩み続けていていました。そして、牧師に相談しようと思い立ったのです。それまでは、自分の心の醜い部分の話でありますから、恥ずかしくて誰にも相談できなかったのです。けれども、もう限界でした。そのまま教会に戻り、私は牧師に赤裸々に自分の醜さを打ち明けました。

 その時、牧師は「キリストを見なさい」と教えてくださいました。他にもいろいろとお話下さったかと思いますが、それだけが非常に強く心に残りました。私は今までキリストを見ているつもりでした。毎日聖書を読み、お祈りをしておりました。日曜日の礼拝はもちろんのこと、教会学校、青年会、夕礼拝、祈祷会など、教会のあらゆる集会に積極的に出席しておりましたし、献金も収入の十分の一を必ず献げていました。そして、大学では牧師になるために神学の勉強までしていたのです。

 それにも関わらず、私は本当にキリストを見ていたのだろうか。キリストは救い主であるというけれども、私は少しも救いが感じられなくてこんなに苦しんでいるではないか。救い主なるキリストを見ていたのなら、どうしてこんなに苦しんでいるのだろうか。結局、私は教会に行っても、神学を勉強していても、聖書を読み、祈っていても、少しもキリストを見ていなかったのだということに気づき、愕然としたのでした。

 しかし、それならば、キリストを見るためには、いったどこを見たらいいのでしょうか。どこに行き、何をしたらいいのでしょうか。実を言うと、私はその時、キリスト教の最も大事なこと、キリストの十字架と復活を疑い始めていました。キリストの十字架は少なくとも自分のような罪深い人間を救うことはできないし、キリストが復活したなんていう話もでっちあげではないかと思い始めたのです。

 それは、私を絶望に陥れる、実に恐ろしい考えでした。もし、十字架によっても自分の罪が清められず、復活のキリストもいないのなら、私にはもはや何の希望もないことになります。これ以上生きている値打ちもないとさえ思ったのでした。
十字架のキリストとの出会い
 「イエス様が本当に生きておられるのなら、ひと目、この目でその姿を見せてください」と、私は必死の思いで祈りました。目覚めている間は四六時中、私はこのことを心の中で祈り続け、夜は大学のキャンパスの片隅で1時間、2時間という時間をひざまずいて祈りました。もし、これでイエス様に会えなかったら、イエス様なんかいないか、いたとして自分は見捨てられた人間なのだから、私の人生はそれで終わりだと思っていました。そんな祈りの日々が数ヶ月も続きました。その間、私はイエス様の姿もみることなく、声も聞くことなく、私は祈る言葉を失ってしまいました。

 その日も、私はいつものように大学のキャンパスの片隅にひざまずいて祈り始めました。ところが、祈ろうとして口を開くと、呂律が勝手に回ってしまって、言葉ではないような言葉になってしまうのです。何度やっても同じでした。私は不思議に思い、友人にこのことを相談しました。すると、彼は「それは聖書に書いてある異言であるかもしれないから、今度は途中でやめないでそのまま祈り続けてごらんなさい」とアドバイスをしてくれたのでした。

 聖書の中に、聖霊に満たされた人々が異言を語ったということについて語られているのは、私ももちろん知っていましたが、自分の口からそれが出てくるというのは半信半疑でした。しかし、ともあれ友人のアドバイスに従うことにし、もう一度、祈りの場に行きました。すると、やはり異言らしきものがでてきます。しかし今度は、私はそのまま祈り続けました。呂律が勝手に回る感じで、言葉にならない言葉が流れるように出てきました。

 しばらくすると、私は何か大きな光に包まれたような衝撃を受け、その瞬間、幼き日から今日の悩める自分に至るまでのいろいろな思い出が、走馬燈のように頭の中を駆けめぐりました。そのすべての瞬間に、神様の愛を深く感じました。そして、今までは考えもしなかったけれども、どのような時もイエス様が聖霊によって私と共にいてくださったのだ。そして、私の歩みの一歩一歩を支え、今日まで導いてくださったのだということが分かったのです。

 また次の瞬間、一つの御言葉が私の心に浮かんできました。それは二人の犯罪人がイエス様と一緒に十字架にかけられたという箇所です。私はそれまでイエス様の十字架を偉大な愛の証しぐらいにしか理解していませんでした。十字架は救いというよりも、象徴でありました。もちろん、教理としては十字架の贖罪や和解ということを理解していましたが、自分自身の罪の問題、また神様との関係の問題が、この十字架によって解決されるのだという実感はなかったのです。

 けれどもその時、主の十字架に涙しました。私の心の一番奥底にあった問題、それは自分は世界で一番の罪人で、神に見放され、もはや自分の中にある貪欲、偽善、臆病、利己心という根深い罪の中に打ち捨てられたまま死ぬほかない人間なのだと思っていたことです。十字架にかけられた強盗がその自分と重なりました。しかし、その見放され、打ち捨てられた場所にまで、なんとイエス様が共におられるのです。

 イエスが十字架にかかられたのは、こんな絶望のどん底にある私と、なおも共にいてくださるためなのだ。そのためにご自分を捨てて、十字架にかかってくださったのだ。先週、「十字架につけられ給いしままなるキリスト」というお話をしましたが、まさにそのようなキリストとの出会いがそこにあったのです。

 それからもう一つ、はっきりと示されたことがあります。十字架につけられ給いしままなるキリストとの出会いを果たした次の瞬間、私は天の門が私に向かって開かれているのを見ました。「見た」などというと不思議に思えるかもしれませんが、頭の中にはっきりとその様子が描き出されたといった方がいいかもしれません。そして、今度はそこにイエス様はおられて、両手を差し出すように私に向かって広げ、私をみつめておられたのです。

 これまでイエス様がどんな瞬間にも愛をもって共にいてくださったように、これからもイエス様は愛をもって私に伴ってくださるのだ。そして、天国に導いてくださるのだ。すべてをイエス様にお委ねしようという気持ちが自然と沸き上がってきました。そして、私の心に大きな安らぎと喜びが溢れてきたのです。「強い人間にならなくては」、「心の清い人間にならなくては」、「罪に勝利する人間にならなくては」という心のもがき、力みというものがすっかり消えていました。このまま自分を、イエス様は愛し、赦し、導いて、天国に迎えてくださるのだということが分かったのです。

 私はこれらのことをほんの一秒か二秒の間に、つまり一瞬にしてしめされました。本当に不思議な体験でした。けれども、私はこの時から、イエス様の十字架こそが私の救いであり、神の救い中心であるということをはっきりと悟ることができたのです。
十字架の愛
 今日は、わたしの証しをご紹介するという形になりましたが、わたしが体験したことを整理してみますと、神の救いというのは三つの事柄に及ぶと思うのです。

 第一、罪の桎梏(しっこく)からの解放(過去)
 第二、あるがままの自己受容(現在)
 第三、天国の希望(未来)

 第一は過去の問題の解決、第二は現在の問題の解決、第三は将来の問題の解決です。「祈れば聞かれる」ということも神様の恵みの表れでしょうけれども、神様の救いというのはそんな小さなものではないのです。人間の過去、現在、未来にわたるあらゆる問題を根本的に解決という壮大な救いです。そして、これらの救いの中心にイエス様の十字架があるのです。
イエス様は私のために十字架にかかってくださったのだということを、心の内にはっきりとしめされる時、私たちはその十字架によって自分に与えられている神様の愛と救いの大きさを知ることができるのです。

 さて、聖書を見てみましょう。イエス様がゴルゴダ(されこうべ)の丘で、裸にされ、二人の犯罪人と共に十字架にかけられたということが書かれています。兵士たちは、十字架の下でイエス様の衣服をくじを引いて分け合い、見物人たちは「他人を救っても、自分を救えないのか。メシアなら自分を救ってみろ」と罵ったとあります。そして、あろうことか、一緒に十字架につけられた犯罪人までもが、同じようにイエス様を侮辱したというのです。ここに描き出されているのは、人々から捨てられたイエス様であります。

 しかし、ここでもっと重要なことは、イエス様がご自身を十字架に捨てておられるということです。まず、『マタイによる福音書』によりますと、こういうことが記されています。

 「そして、ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」(27:33-34)

 「苦いもの」というのは、別の聖書によれば没薬という薬だったようですが、麻酔効果があったようです。十字架というのは、生きながら磔にして死ぬまで野ざらしにするという刑でありましたから、そのままではあまりにも残酷過ぎるということで、このような麻酔薬を飲ませることになっていたようです。

 『ルカによる福音書』の方を読みますと、十字架にかけられた後にも、苦しみ悶える犯罪人にそのようなぶどう酒を口に含ませることがあったということが分かります。

 「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」(23:36-37)

 このようなぶどう酒にどれほどの効果があったかわかりませんが、少しでも苦しみを逃れようとするならば(それが普通の人間だと思いますが)、むしゃぶりつくようにそのぶどう酒を受けると思うのです。しかし、イエス様はこれをお受けにならなかったというのです。十字架の苦しみから、ほんの少しでも救われることを拒絶し、余すことなくその苦しみをお受けになろうとされたのでした。

 それから兵士をはじめ、ユダヤの議員たち、通りがかりの者たち、はたまた一緒に十字架につけられている犯罪人までもが、「神の子なら自分を救え」「メシアなら十字架から降りてみよ」ということを言いました。しかし、イエス様はそれに対して何もお答えにならなかったというのです。
それはイエス様のそのお力がなかったからでありましょうか。そうではないと思うのです。イエス様は逮捕される時、剣で抵抗しようとしたペトロを諫めてこう言われました。

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(『マタイによる福音書』26章52-53節)

 イエス様がそうしようと思えば、十字架から降りることが出来たに違いないのです。しかし、イエス様は決して十字架から降りようとしなかったのです。

 それからもう一つ、イエス様は十字架上でこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。人を赦すということは、自分が犠牲になることです。相手の罪を、悪意を、攻撃を、その苦しみや悲しみを一身に受けて、相手を受容することです。そして、愛することなのです。

 イエス様は、決して意地を張って苦いぶどう酒を拒んではありません。無力であるから十字架から降りようとなさらなかったのではありません。ご自分を十字架につけた者たちを赦し、愛そうとしたのです。もし、ここでイエス様がほんの少しでもご自分を救おうとされたのなら、その瞬間、イエス様を十字架につけた人たちが十字架につけられることになっていたでありましょう。イエス様はそれを望まれなかったのです。ご自分がすべてを引き受けることによって、私たちを救おうとされたのでありました。

 そういう観点からすると、イエス様は十字架につけられたというよりも、ご自分で十字架につかれたといってもいいのではないでしょうか。そこには、自らの命を捨てることを厭わず、私たち人間の罪深さの低みに自分を置くことをも厭わず、そうまでして私たちの友となり、救おうとされたイエス様の愛の意志、決意があったと思えるのです。

 私たちは、神の前に立ち、自分の内面を見つめるならば、決して神の愛に価しない者であることが分かります。ですから、そういう事実からしますと、神様が私たちを愛してくださるなんていうことはあり得ないことなのです。しかし、私たちのうちに愛される何かがあるからではなく、神様のうちに私たちを愛そうとする意志、決意というものがおありなのです。それは、私たちが愛されるべき人間であるからではなく、神様が愛なる神様だからです。その愛なる神様の究極の姿が、イエス様の十字架にあると、私はそう思うのです。
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