十字架 -福音の中心-
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書27章32-56節
旧約聖書 詩編22編2-12節
十字架の福音
 私が、しばしば説教の中で繰り返してきたお話があります。それは「福音とは何か」というお話です。福音とは何か? それはイエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって私たちが救われることであります。私たちの信仰、希望、愛は、すべてこの二つのことから始まるのです。

 ところが、実際の生活となりますと、何事につけ、私たちが真っ先に考えることは、自分が何をしてきたか、何ができるのかということであり、人が自分に何をしてくれたのか、何をしてくれるのかということだろうと思うのです。本当はこれではいけないのです。しかし、「イエス様に頼れ、期待せよ」と言われても、目には見えない御方ですし、どこでどのように働いてくださっているのかがたいへん分かりにくいというのも事実でありましょう。ですから、とりあえず目に見える具体的なものに頼り、期待する生活になってしまうわけです。

 それで、その結果はどうでしょうか? しばらくの間はそれでうまくやっていけるかもしれません。しかし、いつまでもそれが通るわけではないのです。自分を頼りにした者は自分に失望する時がきます。人を頼りにしてきた者は当てがはずれる時がきます。そして、立ち上がれなくなるほどの自信喪失に陥ったり、期待を裏切った人に憎しみや恨みをぶつけたりすることもあるわけです。

 そうならないためには、あるいはそうなってしまったところから立ち直るためには、自分が何をしてきたか、自分に何ができるかではなく、また人が何をしてくれたか、何をしてくれるかでもなく、ただイエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つのことを原点として、そこから信仰と希望と愛をいただいて生きる者にならなければならないのです。

 では、イエス様は私たちのために何をしてくださったのか? 何をしてくださるのか? そのことを書かれているのが、今私たちが読んでおります「福音書」という文書です。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』と、新約聖書には四人の弟子達が書いた四つの福音書がありますが、どうして、これは「キリスト伝」と言われずに「福音書」と言われるのでしょうか? それは、これが単にイエス様の生涯を世に伝えるためではなく、イエス様が私たちのためにしてくださったことは何かということを伝えることを目的に書かれたものだからです。

 ですから、これらの福音書には一つの際だった特徴があります。イエス様のご生涯は33年でした。しかし、四つの福音書はどれも、イエス様がいかにお生まれになったか、いかにお育ちになったか、いかに教え、いかにご活躍なさったかということ以上に、イエス様の十字架について多くを語っています。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入られてから十字架におかかりになり、復活されるまでの一週間について、どの福音書も約三分の一を割いて伝えているのです。『ヨハネによる福音書』などは約半分が、この最後の一週間の物語に費やされています。

 イエス様が私たちに何をしてくださったのか。こうしてみますと、その答えは、福音書においてはっきりとしています。それは、イエス様が十字架にかかって死んでくださったということであります。イエス様の十字架こそ私たちの救いであり、この福音をしっかりと受け止めるところから、私たちの揺らぐことのない信仰、希望、愛による生き方が始まるのです。
十字架につけられ給ひしままなる主
 最近、西南学院大学神学部の教授をしておられる青野太潮先生の「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」という本を読みました。この先生のご本を読むのは初めてなのですが、いろいろなことを教えられ感謝でした。「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」とはどういうことか? 
 ガラテヤ書3章1節にこう記されています。

 「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」

 ガラテヤ教会の人たちは十字架の福音を離れて、自分がしてきたことやできること、また人が何をしてきたか、何をしているかということばかりを追い求めることになってしまった。それを信仰だ、希望だ、愛だというようになってしまった。そのことに対してパウロが嘆いている言葉です。

 青野先生が注目するのは「キリストが十字架につけられた姿で」という部分です。これはギリシャ語の文法でいうと現在完了形になっているというのです。現在完了形というのは、英語の文法をやった方なら分かると思いますが、過去に起こったことが今も続いているという状態を表す文法です。つまり、パウロは、過去のある時点でイエス様は十字架につけられて死んでしまったというだけではなく、今もなおイエス様は十字架につけられたままの姿で私たちの前にいらっしゃるのだということを、ここで言っている。ギリシャ語で読めば、そういうニュアンスが伝わってくるのです。

 だけれども、残念ながら日本語訳はどれを見ても上手に訳していないと言います。ただ文語訳聖書だけはこう訳しているのです。

 「愚かなる哉(かな)、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前(めのまえ)に顕されたるに、誰(た)が汝らを誑(たぶら)かししぞ」

 今、私たちが出会うイエス様は、復活のイエス様ですね。パウロがガラテヤ教会の人々に「汝らの眼前に顕された」と言っているのも、復活のイエス様のことを言っているわけです。しかし、その復活のイエス様はどういうお姿で私たちと共にいてくださるのか。永遠の命を勝ち取られて、勝利の栄光に輝かれたキリストなのか。もちろん、そういう面もありましょう。

 しかし、それだけではないのです。イエス様は、今も十字架につけられたあのお姿をもって、つまり、傷つき、弱り果てて、人間の最も深い悲しみを体験されたところから「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶叫されたお姿をもって、私たちと共に生きてくださっている。だから、私たちはどんな神様に背を向けた罪の中にあっても、どんな弱さの中にあっても、その中に、このような私の理解者、慰め主となって共にいてくださるイエス様を見ることがゆるされているのだ、そこから新しい命をいただいて、神様に対して生きる新しい人間として生まれ変わらせていただけるのだ。そういうことを言わんとしているのが、あの「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」というパウロの言葉なのだというのです。

 実は、他に二箇所、パウロが同じ言い方をしている部分があります。『コリントの信徒への手紙一』1章23節と、2章2節です。

 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(1:23)

 「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(2:2)

 これは文語訳でも「十字架につけられ給ひしキリスト」となっておりまして、現在完了形がうまく訳出されていません。しかし、ギリシャ語ではガラテヤ書とおなじでありまして、「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」なのです。パウロが命をかけて伝えている福音のは、このキリストの御姿なのだということが、このコリント書から分かるのです。

 先ほど、福音とは、イエス様が私たちのためにしてくださったことと、してくださることによって救われるということだ、と申しました。そして、イエス様がしてくださったことは、十字架にかかってくださったことだというお話もしました。実はそれだけではなく、「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」という言葉から分かることは、イエス様が私たちのために今してくださっていることも、そして今後してくださることも、イエス様が私たちのために十字架を負ってくださるということなのだ、と言い切れるのです。

 パウロは、それ以外何も知る必要はないと言っています。それほどイエス様の十字架は福音の中心にある大事な事なのです。そして、それは遠い昔話ではありません。今イエス様が私たちのためにしてくださっていること、これからイエス様がしてくださること、私たちの今と将来にかかわることでもあるのです。
十字架上の六時間
 さて、十字架のお話してまいりたいと思います。今日は、福音の中心であるイエス様の十字架ということをお話ししましたので、残りの時間で、十字架につけられたイエス様が死に至るまでどのような経過をたどられたのか、四つの福音書を通してご説明したいと思います。

 イエス様はポンティオ・ピラトのもとで十字架刑の判決をくだされると、鞭を打たれ、兵士たちにさんざん弄ばれた後、自ら十字架を背負って、処刑場までの約1キロの道を歩かされました。

 しかし、前日の逮捕劇から徹夜の裁判で、大祭司官邸から総督ピラトの官邸へ、そこからヘロデの王宮へ、さらにまたピラトの官邸に戻ってくるという具合にあちこちに引き回され、棘のついたむちで何度も背中を打たれたりしたわけで、疲労困憊しておりましたイエス様には重い十字架を背負って歩く体力は残っておりませんでした。そこでローマの兵隊は、たまたま野次馬の中にいたクレネ人シモンを捕まえて、無理矢理イエス様の十字架を背負わせたのでした。

 また途中、イエス様は嘆き悲しみながらついてくる婦人の弟子達をみつけまして、彼女たちに「わたしのために泣くな。自分の罪のために泣きなさい」とお教えになったということも、『ルカによる福音書』に記されています。

 こうして、イエス様は処刑所であるゴルゴダの丘に到着をしました。ゴルゴダ、ラテン語ではカリバリですが、それは「されこうべ」という意味でした。されこうべの形をした丘であったとも言われていますし、そこで処刑された人々のされこうべがあちこちに散らばっていたとも言われています。

 そこにつくと、兵士達はイエス様に苦い没薬を混ぜたぶどう酒をのませようとします。これは強い麻酔効果があったようで、鬼の目に涙といいますか、少しでも苦しみを和らげようとするための処置でありました。十字架というのは生きながら磔にされ、死ぬまで野ざらしにするというたいへん残酷な刑であります。その苦しみは人によっては一昼夜も続くと言われています。しかし、イエス様はその苦痛を少しでも和らげるための憐れみをお受けになりませんでした。十字架刑の苦しみを余すことなくすべてを味わうことを望まれたのです。

 午前九時、イエス様は十字架に磔にされました。二人の強盗が、一人はイエス様の右に、一人は左に、イエス様と共に十字架につけられたと言われています。イエス様は、こういう強盗や人殺したちと何ら区別のない罪人として十字架におかかりになったのであります。

 その時、イエス様はこう祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と。イエス様は十字架上で七つの言葉をお語りになりました。これはその第一の言葉です。

 一方、ローマの兵士達は、イエス様の十字架に「ナザレのイエス。ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きを打ち付け、イエス様の衣服を物色していました。十字架にかけられる囚人は裸hにされ、その衣服は、刑を執行した兵士達の間で分けるのが習わしだったのです。イエス様を十字架にかけた四人の兵士たちもイエス様の衣服を分け合い、下着については縫い目がなく、上から下まで一枚織りの上等のものであったので、「これは裂かずに、くじ引きでだれものになるか決めよう」と話しあったと言われています。

 イエス様の下着が上等であったという話は、イエス様がうわべではなく、目に見えない部分を大切にしておられたということも象徴的に表しているかもしれません。しかし、それよりも、イエス様の十字架の下で、兵士達が一枚の下着を争い、奪い合っているということにやるせない思いがするのではないでしょうか。彼らはイエス様の十字架の一番近くにいながら、十字架につけられキリストではなく、その身につけていた衣服しか見えず、関心をもとうとしなかったのであります。

 他方、イエス様の十字架を取り巻く、多くの見物人たちは、イエス様に「神の子なら十字架から降りてみよ。他人は救ったが自分を救えないのか」と言ってあざけり、ののしりました。イエス様の十字架を願い続けていた祭司長、律法学者、長老ばかりではなく、通りがかりの人も一緒になって罵りました。それだけではなく、一緒に十字架につけられた強盗までも、イエス様をののしりました。このように十字架につけられ給いしキリストは、四方八方から、イエス様は悪態をつかれ、さげすまれたのでありました。

 しかし、中にはイエス様の死を悲しみ、自らの苦しみとしつつ、十字架のそばに立ちつくしている人がいました。イエス様の母マリア、その姉妹であるサロメ、またクロパの妻マリアとマグダラのマリア、そして男の弟子ではただヨハネだけがそこにいました。

 彼らの存在に気づいたイエス様は、十字架の苦痛に耐えながら、目配せで母マリアに弟子ヨハネを見るように合図を送りながら、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と語り、ヨハネにも「見なさい。あなたの母です」とお語りになりました。この時からヨハネはイエス様の母マリアを自分の家に引き取りました。それにしても、自分が死ぬ苦しみに合っているときに、残される者のことを思い、このようなお言葉をかけてくださるとは、驚くべき心遣いです。これが、十字架上での第二の言葉でした。

 このようなことを見てのことでありましょうか。一緒に十字架につけられながら、イエス様に悪態をついていた強盗の一人はののしることをやめ、もう一人の強盗に「お前は神を畏れないのか。我々は、自分のやったことの報いを受けているだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていないのだぞ」と忠告します。そして、イエス様に向かって「イエス様、あなたが御国においでなるときには、わたしを思い出してください」と頼みました。これに答えて、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と約束をしてくださったのでした。これが十字架上での第三の言葉となります。

 さて、以上はイエス様が十字架におかかりになった午前九時から正午までの三時間にあったことでした。不思議なことに昼の十二時になると、全地が暗闇に覆われました。普通に考えると日食かなと思うのですが、この過越しの祭りの時期(3-4月)に日食は起こることはないそうです。厚い雲に空が覆われたのかもしれません。いずれにせよ、それは単なる自然現象ではなく、神様の裁きを象徴する御業であったのでありましょう。

 それから約三時間の沈黙があります。今際の時になって、イエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と大声で絶叫されました。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。これが十字架上ので第四の言葉です。

 これを聞いた人々の中には、「エリヤを呼んでいるのだ」と聞き違える人もいました。また、苦痛が極み達していると感じた一人が十字架のもとに走り寄り、海綿に酸いぶどう酒をしみこませ、葦の棒につけて、イエス様の口に含ませようとしました。しかし、別の人がそれを引き留めます。「待て、エリヤが助けにくるかどうか、見ていようではないか」というのです。『ヨハネによる福音書』によりますと、イエス様はこの差し出された葡萄酒を受け取られたとあります。

 そして、再びイエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊をあなたに委ねます」。これが十字架上での第五の言葉です。続いて「わたしは渇く」とおっしゃり、「すべては成し遂げられた」と仰って、午後三時、ついにイエス様は頭を垂れ、息を引き取られました。これが第六、第七の言葉になります。最初から終わりまで見守っていたローマの兵士たちの隊長は思わず「この人は本当に神の子であった」と告白したと言われています。

 以上、イエス様が午前九時に十字架につけられてから午後三時までの六時間のお話をしました。この中には、人々から捨てられ、神からも捨てられ、またご自身で自分を捨て給うイエス様の御姿があります。しかし、そのようにご自身が捨てられた者となることによって、イエス様は私たちを神様なき望みなきどん底から拾い上げてくださる救い主となられたのです。

 『コリントの信徒への手紙二』8章9節にはこう記されています。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

 イエス様がご自分の捨てられたのは、私たちにそれを与えるためであったということが、ここで言われるのです。次週から、この十字架につけられ給いしキリストについて、さらに丁寧に聖書を読み解きながら学んで参りたいと思います。そして、私の目の前にも、十字架につけられ給ひしままなるキリストの御姿がはっきりと描き出されることを祈り願ってまいりましょう。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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