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イエス様が十字架にかけられることになった裁判について、これまで丁寧に読んでまいりました。ポンティオ・ピラトは、ユダヤ人らがイエス様を訴えているのは単なる妬みによるものだと、よく理解していました。ですから、ピラトは、何度も「我この人に咎あるを見ず」とユダヤ人らに訴え、イエス様を釈放しようとしたのです。それにもかかわらず、ユダヤ人らは「十字架につけよ」と激しく訴え続け、暴動になるかもしれないと恐れたピラトは、ついにユダヤ人らの声に押し切られる形で、イエス様を十字架につけるため兵士らに引き渡したというのであります。
このようにまったく正義の行われていない裁判によって、イエス様は十字架の刑に処せられることになりました。しかし、その罪状は何でしょうか。普通、十字架刑に処せられる場合、その罪状が札に書き記され、囚人の頭上に打ち付けられることになっていました。そして、聖書には、このように記されています。37節
「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。」
ピラトは、イエス様を「ユダヤ人の王」として十字架にかけたのだというのであります。この辺のことについて、『ヨハネによる福音書』がもう少し詳しく書いていますので、ちょっと読んでみたいと思います。
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『「ユダヤ人の王」と書かず、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてください』と言った。しかし、ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた。」(『ヨハネによる福音書』19章19-22節)
罪状書きは、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語、ローマ人の言葉であるラテン語、そして当時の世界共通語であるギリシア語の三カ国語で、つまり世界中の人々に知らされる形で、「ナザレのイエス ユダヤ人の王」と書かれ、イエス様のおかかりになった十字架の上に打ち付けられた、といわれています。
面白いのは、これを見たユダヤ人らは仰天し、「『ユダヤ人の王』ではなく『ユダヤ人の王と自称していた』という風に書き直して欲しい」と、ピラトに頼んだということです。しかし、ピラトは取り合いませんでした。「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と、つれなく答えて、ユダヤ人らを追い返したのでした。
きっと、これはユダヤ人らに対するピラトのしっぺ返しだったのでありましょう。つまり、「お前たちが叫んだ男は、お前たちの王なのだ。お前たちは、自分のたちの王を、自分たちの手で十字架につけたのだ」と、そんな皮肉を込めたのであろうと思えるのです。
しかし、聖書にはよく、それを引き起こした人間には思いもよらぬ形で、神様の御旨がそこに実現していくということがあります。
たとえば『創世記』に記されているヨセフ物語などは、そういうことをたいへんよく表していると思うのです。まず、ヤコブの息子たちが、兄弟ヨセフを妬んで荒れ野の穴に投げ込んでしまうという酷い事件が起こります。ところが、後になって見ると、そのことがヤコブ一家全員を飢饉から救うという神の救いの出来事につながってくるのであります。
あるいはまた、ペルシア王キュロスが、バビロン帝国を滅ぼして、ユダヤ人たちをバビロンから解放したという歴史的事件があります。キュロスは、何も神のためにやったのではありません。ユダヤ人のためでもありません。実際のところは、ただ自分のためにバビロンと戦い、これに勝ったということだけの話でありましょう。しかし、これまた神の偉大なる救済の実現として、聖書に記されているのです。
このように、人間が思いのままに振る舞い、自分の目的のために生きているように感じておりましても、実は神様の御手の中にあって、神様の御心を世に為すために用いられているということがあるのです。
ピラトも、そうだったのです。ピラトが、イエス様を「ユダヤ人の王」として十字架につけたのは、まったくユダヤ人たちへの腹いせであり、嫌がらせでありました。しかし、実は神の御手の中にあって、ピラトは、十字架こそイエス様の王たる徴であり、王たるイエス様の栄光であるということを、後々の世に知らせる役割を果たしていたのです。 |
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では、十字架こそイエス様の王たる徴であるとは、どういうことでありましょうか。イエス様は英雄として殉教したのではありません。イエス様が十字架でお受けになったのは、英雄としての名誉や栄光ではなく、散々なる嘲りと辱めのみであったのです。象徴的な言い方をするならば、イエス様は黄金の冠を戴いた王様ではなく、茨の冠をいただいた王様なのです。しかし、まさしくこのことにおいて、イエス様は、私たちの真の王となられたのです。
ピラトは、バラバを釈放し、刑を執行させるためにイエス様を兵士達に引き渡しました。兵士たちは、イエス様をそこで鞭で打ってから、総督官邸の中に連れて行き、そこでイエス様をからかったり、罵ったり、痛めつけたりして、その際にイエス様にいばらの冠をかぶせたということが書かれています。
まず、鞭打ちでありますが、これはただの革の鞭ではなかったようであります。鞭の先に鉛が貼り付けられており、その上には何と棘まで植え付けられていた。そういう鞭で、背中を打つのだそうです。もちろん肉が裂け、血しぶきが飛んだことでありましょう。想像するだけで顔を背けたくなるような残酷さであります。
一年ぐらい前でしょうか。キリストの受難を描いた『パッション』という映画が公開されました。ビデオ化もされていまして、ご覧になった方もいるかと思います。実は、私はまだ見ていないのです。映画館の前までは行ったのですが、結局、隣の映画館でディズニーの映画を見て帰ってきました。正直に言って、ちょっと恐いわけです。イエス様が私たちの為にお受けくださった残酷なまでの苦しみから、本当は目を背けてはいけないのかもしれません。しかし、イエス様が棘のついた鞭で打たれるシーンや、十字架に釘打たれるシーンなどは、想像するだけで体中の血が逆流するようなゾッとした感じを覚えて、未だ見ていないのです。
こういう意気地のなさを弁解するわけではないのですが、実は福音書を書いた四人の弟子たちも、イエス様のお受けになった肉体的な苦痛については、あまり生々しい描写はしていません。「鞭で打った」、「茨の冠を頭にのせた」、「葦の棒で頭をたたきつけた」、「十字架につけた」と、妙に淡々と書き記しているのです。勝手な想像ですが、彼らも、「肉が裂けた」とか、「血しぶきが飛んだ」とか、「苦痛に呻かれた」とか、その有様を思い出すのが辛かったのではないでしょうか。そのことを思い起こすと、もはや冷静でいられなくなり、とてもイエス様の姿を書き記すことができなくなってしまう。ですから、極力感情を抑えて、出来事を淡々と書き記すしかなかったのではないかと、そんな風に意気地のない私なりに想像してみるのです。
しかし、その一方で、福音書がしっかりと、生々しく書き記していることがあります。それは、人々の嘲りの様子です。
兵士たちが、イエス様の着物をはぎ取って、赤い外套を着せたと書かれています。おそらく、当時のローマの兵隊が身につけていた安っぽいマントを、そこら辺から持ってきてイエス様に着せたのでありましょう。これは、「赤い」ということに意味がありまして、それを王様の着る赤いガウンに見立てたのです。お前はユダヤ人の王だからとからかってやったことなのです。
次に、兵士らは、そこらに生えている茨の木を切ってきまして、それで冠を編み、イエス様の頭に載せました。茨の棘が頭を突き刺して、イエス様はさぞかしお苦しみだったと思いますが、先ほど申しましたように、福音書はそういう肉体的な苦痛については敢えて一言も記していません。一方、兵士たちのあざけりの様子を生々しく描きます。兵士たちはイエス様の前にひざまずいたり、「ユダヤ人の王、万歳」と言ったり、葦の棒で頭を叩いたり、唾を吐きかけたりして、イエス様を辱めたというのです。
このような辱めは、イエス様が十字架にかかられた後も続きました。福音書記者は、ここでもやはり、十字架の肉体的な苦痛ではなく、それもあったに違いないのですが、それではなく人々がいかに十字架のイエス様を嘲ったか、辱めたかということを生々しく描いているのです。
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから。』一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」
一緒に十字架につけられた強盗までもが、イエス様を罵ったと言われているのですから、まったく驚きであります。
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しかし、私たちがそこで気づかなくてはならないのは、イエス様はこれらすべての仕打ちに対して完全な無抵抗を貫かれたということであります。それは、我慢とはちょっと違います。我慢というのは、忍耐しながらも結局は自分を貫くことです。しかし、イエス様には、怒りや悔しさを抑えて一生懸命に我慢をしているという様子は微塵も感じらないのです。一言で言えば、イエス様の心には誰に対しても一切の敵意というものがなかったように思うのです。
それはイエス様に罪がなかったです。罪ある者の心は、いつも敵意で満ちています。それは私たちの心の中を覗けば分かることです。人の善意を素直に受け取れないで、ありがた迷惑だと感じてしまう。何も悪いことをされていなくても、フィーリングが合わないと苦手な人というレッテルを貼って拒絶してしまう。たくさんの親切を受けていながら、一度でも不愉快な思いをさせられたら、その印象は何十年も消えない。罪ある者の心には、疑いがあり、妬みがあり、高慢があり、よからぬ計算があり、常にこのような敵意が存在するのです。
その罪の根っこは何かといえば、自己中心の一言に尽きるでありましょう。まず「自分在り」きなのです。真実は違います。神様がいるから、私も存在するのです。他人(ひと)がいるから自分が存在するのです。簡単に言えば、「お陰様」なんですね。しかし、罪ある心には、そのような謙虚さがありません。自分を中心にして神様を見る、隣人を見る。そして、利益があるとかないとか、有り難いとか迷惑だとか、敵であるとか味方であるとか、そういう風に見てしまうのです。
有名な聖書の話ですが、ある律法学者がイエス様に「何をしたら永遠の命を手に入れることができますか」と聞きました。イエス様が、「あなたはどう思っているのか」と尋ねますと、律法学者は「神を愛し、隣人を愛することだ、と書いてあります」と答えました。イエス様は、「その通りだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」と、律法学者に答えたのでした。
ところが、律法学者が「わたしの隣人とは誰ですか」と問い返します。すると、イエス様は「善きサマリア人」という譬え話をなさって、彼にこう教えるのです。「誰が私の隣人か」と問うのではなく、「あなたが困っている人のところに行って、隣人になってあげるのだ、それが愛なのだ」と。
まず自分があって、「誰がわたしの隣人か」と考えると、あの人は味方だ、あの人は敵だということになってしまいます。しかし、まず他人があって、自分はその人の味方になろうと考えるならば、それがどんなに苦労の多いことであったとしても、敵意の生まれるまったく余地はないのです。
イエス様は、かつてこのようにも教えられました。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
」(『マタイによる福音書』5章43-47節)
自分の気に入った人に親切にするなんてことは、誰だってすることです。泥棒だって、人殺しだって、自分の仲間は大切にするのです。そんなのは、本当の愛ではないと、イエス様はおっしゃるのです。本当の愛とは、誰が味方であるとか、敵であるとか、そういうことを考えないで、自分がその人の味方になってあげることなのです。
イエス様は、神様はそういう御方だと仰います。悪い人にも、善い人にも、同じように太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるのが、神様なのです。そして、そのお子であるイエス様もそうなのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」と仰ったように、イエス様は天の父の子として、誰一人恨むことなく、裁くことなく、それどころか、そのような者たちをなお愛し、なお救わんと祈りつつ、自分を鞭打つ者の打つに任せ、辱める者の辱めに任せ、罵る者の罵りに任せ、最高の恥辱である十字架の刑に死なれたのです。
イエス様には罪がないのです。自己中心がないのです。イエス様は愛なる天の父の子なのです。その徴が、十字架なのです。 |
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罪なき御方がどうして十字架にかかるのか。正しき御方がどうして悪者たちに敗れるのかと、私たちは思うかもしれません。もしイエス様が、人に敵意を持つ御方でありましたら、十字架にかかりなさいませんでしたでしょう。代わりに、悪い人を裁き、懲らしめて、十字架にはりつけにしたに違いないのです。もし、イエス様の正しさが、私たちの考え得るような人間レベルのものでしたら、必ずそういう結果になっていたに違いありません。
けれどもイエス様の論理は違うのです。イエス様は罪なき者でありますから、その心には真の愛がありました。どんなに敵意をむき出しにしてくる相手に対しても、自分を喜んで与えることによって、真の平和をもたらす愛がありました。このような愛だけが、人の敵意を無力なものとし、消し去ることができるというのが、イエス様の十字架なのです。
先週はロンドンで多くの犠牲者を出すテロ事件がありました。このようなことは、あってはならないことです。正義ということを考えれば、このような悪を行う者に対しては断固として戦い、決してこのようなことがまかり通らないことを思い知らせる必要があるのでありましょう。
しかし、そのようなことではお互いの敵意はなくなりません。敵意がなくならなければ、報復の連鎖が起こります。実際、アメリカの9.11事件以降、そういうことが世界で続いているのです。
私たちに必要なのは、そのような人間レベルの正義ではなく、すべての敵意を無力なものとする真の愛、すなわち十字架ではありませんでしょうか。罪なき者が嘲られ、辱められ、苦しんで死ぬという、十字架は、正義とはまったくかけ離れています。イエス様は打たれるまま、罵られるまま、辱められるまま、何をされてもされるが儘でありました。そこには正義がありません。しかし、どんなに敵意をむき出しにされても、せめて自分だけは彼らを友として愛し、彼らの隣人であろうとする、そのような真実の愛があるのです。敵をも愛し、赦し、救おうとする愛、これだけが人間の世に真の平和を実現するのではありませんでしょうか。
しかし、それのためには、自分を捨てて、自分を無にして、命をも捨てる覚悟で、相手の敵意をもすべて受け入れる者とならなければなりません。誰にそのようなことができましょうか。そんなこと、とても人間にできることではありません。
そうです! イエス様は、まさに人間にできないことをしてくださったのです。まことに弱く、情けなく、無様な姿をさらけ出して、これが私たちの王なのか、これが神の子なのかと思いたくなるかもしれませんが、黄金の冠ではなく、茨の冠をかぶり、すべての敵意を飲み干して、十字架にかかりたまう姿こそが、神の御子、罪なき人間、人の世に真の愛と平和をもたらす真実の王なる御方の栄光の姿なのです。
ローマの兵隊たちは、あざけりの心をもって、イエス様に膝を屈め、「王様、万歳」と叫びましたが、私たちは心からなる敬愛と信仰をもって、茨の冠をかぶり、十字架につけられたイエス様に膝をかかげ、「あなたこそ私たちの真の王様です」と告白する者になりたいと願うのです。
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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