|
|
|
先週は、ピラトのお話をしました。その時にも申しましたが、私たちは毎週、『使徒信条』を礼拝の中で唱和しておりまして、その中で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と、まるでピラトひとりがイエス様を十字架につけたかのような信仰告白をしているのであります。
この『使徒信条』というのは、私たちの教会だけが用いている文章ではありません。「世界教会信条」とも云われ、世界中の教会がこの『使徒信条』を正しいキリスト教の信仰告白として認め、礼拝の中で用いている文章です。その成立は紀元二世紀にまで遡ると云われています。つまり、世界のキリスト教徒たちは約2000年間にわたって、イエス様はピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んだのだと言い続けてきたわけです。
ちょっとピラトが気の毒な気がしませんでしょうか? 聖書をちゃんとお読みになれば分かりますが、イエス様を十字架にかけたのは決してピラトひとりの罪ではありません。ユダヤの指導者たち、これが一番イエス様を殺したいと願っていた人々でありました。民衆もこぞって「イエスを十字架につけろ」と叫びました。イエス様の弟子たちにしても、イスカリオテのユダは裏切りを働き、ペトロは人々の面前でイエス様を拒絶し、他の弟子達も皆、主を見捨てて逃げてしまったと書かれているのです。
誰ひとりとしてイエス様を本気で弁護しようとしたものはいませんでした。積極的であれ、消極的であれ、結果的にはあらゆる人たちが、イエス様を拒絶し、十字架にかけて殺すことに荷担したのです。
それならば、ピラトの名前だけが『使徒信条』に残されたのは、どうしてなのでしょうか。おそらく、それはピラトの姿の中に、イエス様を十字架につけた人々の姿が象徴的に表されているからだと思うのです。ピラトは、「我この人に咎あるを見ず」と言って、イエス様に罪がないことを知っていました。さらに、ユダヤ人らの訴えは根も葉もないことで、妬みによることだということまでも理解していました。その上で、ピラトには、イエス様を赦す権限も、十字架につける権限もあったのです。
ですから、ピラトは「自分には責任がない」ということを言って、群衆の前で手を洗うようなパフォーマンスをしていますが、とてもそんな言い逃れは通用しません。ピラトには権限もあり、責任もあったのです。ところが、ピラトは「我この人に咎あるを見ず」という心の声に従わず、「イエスを十字架につけよ」と狂い叫ぶ、この世の声に聞き従って、イエス様を引き渡してしまったのでした。これは逃れようのないピラトの責任なのです。 |
|
|
|
|
しかし、ピラトだけに、イエス様の十字架の責任を押しつけるわけにはいきません。23節を見ますと、「十字架につけよ」と狂い叫ぶ、ユダヤ人指導者たちに、そして民衆に、「いったいどんな悪事をしたのか」と問うたと書いています。人々はますます激しく「十字架につけろ」と叫ぶばかりであったというのです。
後で皆さんにもお聴きいただきたいと思いますが、私はこの場面を読む度に、バッハの『マタイ受難曲』を思い起こすのです。その中に、ピラトが「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」と問う、この場面が歌われています。すると、ピラトの問いに答えるかのように、ソプラノの美しい声で「主はわれらに、すべて善きことをなしたまえり」と歌い出すのです。
主はわれらに、すべて善きことを為し給えり
盲人に光を与え
不具者を歩ませ
われらに父み神の言葉をかたり、
悪魔を追い払い、
嘆く者を慰め、
罪人をも受け入れたまいぬ
わがイエスの為せしことはそれのみ
人々はこのように答えませんでした。しかし、彼らは、実際そのことを自分の目で見てきたはずなのです。イエス様に御言葉に神様の愛を感じ、力ある業の中に生きる力をいただいてきたはずなのです。しかし、彼らは「イエスという男は、お前達に何をしたのか」と問われた時、その主の愛のすべてを無視して、「ますます激しく『十字架につけよ』と叫び続けた」と書いてあるわけです。彼らには、やはりピラトと同様に、イエス様の十字架について責任があるのです。
それはまた、私たちも同じ事でありましょう。確かに私たちは直接、「十字架につけろ」と叫んだのではありません。しかし、彼らと同じことをしています。主が正しき御方であることを知りながら、主に従わないでいる。主の恩寵を豊かにいただきながら、その恩を忘れて生きている。主の言葉を聞きながら、それを否んで生きている。私たちも、彼らと少しも変わらないことをしているのです。
誰の心の中にも、神様から聞こえてくる真実の声と、妬み、恐れ、貪欲、高慢といった卑しき心から湧き上がってくるもう一つの声があることだろうと思うのです。そのどちらの声に聞き従うのかは、私たちの自由であり、責任なのです。しかし、人間というのは、常に神の言葉を否定し、もう一つの声に自分を従わせてきた存在であると、聖書は繰り返し物語るのです。
アダムとエバは、「食べてはならない」という神様の声を聞いていながら、欲望のままに蛇の声に従って禁断の木の実を食べてしましました。カインは、「罪が門口であなたを待ち伏せしている。あなたはそれを治めなければならない」という神様の忠告を耳にしていながら、妬みにかられるまま弟アベルを殺してしまいました。このような人類最初の罪、殺人から始まって、人間の歴史はずっと神の言葉を拒絶してきた歴史であったと、特に旧約聖書はそういう風に語っているのです。このような歴史を歩んでいた人間が、ついには受肉し神の言葉であるイエス・キリストを拒絶し、十字架にかけてしまった。神の言葉の拒絶が、イエス様を十字架につけたのです。私たちには関係ないといえるでしょうか。 |
|
|
|
|
ところで、今日はバラバの話をしようと思うのです。先ほども、ここを読む度に、バッハの『マタイ受難曲』を思い起こすと申しました。特に、ピラトが「どちらを釈放しほしいのか」と尋ねると、群衆が「バラバ!」と叫ぶ、その異常な迫力は、何遍聞いても鳥肌が立つような思いをするのです。
聖書で言うと、21節のところですね。「そこで、総督が『二人のうち、どちらを釈放してほしいのか』と言うと、人々は『バラバを』と言った」とあります。この「バラバを!」と叫ぶたった一言の合唱に、人間ではない、悪魔がひょっこり顔を出して、「バラバ!」と叫んだかのような不気味さ、不吉さ、恐ろしさというものが込められているのです。
それでは、ちょっと『マタイ受難曲』をお聞きいただきたいと思います。時間の都合がありますから、聖書でいうと15-23節まで、「主はわれらに、すべて善きことを為し給えり」という部分までになります。
<福音史家>
さて、祭りのたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる習慣になっていた。ときにバラバという評判の囚人がいた。それで彼らが集まったとき、ピラトは言った。
<ピラト>
おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか、バラバか、それともキリストといわれるイエスか。
<福音史家>
彼らがイエスを引き渡したのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。また、ピラトが裁判の席についたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、言わせた。
<ピラトの妻>
あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから。
<福音史家>
しかし、祭司長、長老達は、バラバをゆるして、イエスを殺してもうらようにと、群衆を説き伏せた。総督は彼らに向かって言った。
<ピラト>
ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか
<福音史家>
彼らは言った。
<合唱>
バラバ!
<福音史家>
彼らはいっせいに言った。
<合唱>
十字架につけよ!
<コラール>
おお、おそろしき罪。
よき牧者は、羊のために苦しみを受け、
正義の主は、僕のために
その罪をあがないたもう
<福音史家>
ピラトは言った。
<ピラト>
あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか。
<叙唱ソプラノ>
主はわれらに、すべて善きことを為し給えり
盲人に光を与え
不具者を歩ませ
われらに父み神の言葉をかたり、
悪魔を追い払い、
嘆く者を慰め、
罪人をも受け入れたまいぬ
わがイエスの為せしことはそれのみ
音楽の持つ力によって、聖書の物語が非常に生き生きと伝わってきます。それから、私はバッハの聖書解釈の深さにも驚かされるのであります。それをバッハは音楽で伝えているんですね。たとえば、みなさんは、ピラトと群衆のやりとりを、劇にするとしたならば、どこにクライマックスをもってくるでしょうか。これは、イエス様を十字架につけた人々の話でありますから、一番その罪がよく表されているところにクライマックスをもってくるのが良いと思うのです。それはどこかということであります。「十字架につけろ」「十字架につけろ」と狂ったように叫び続ける群衆、これがクライマックスであるという考え方は十分にあり得ることだと思うのです。
しかし、バッハは、人々が、イエス様ではなく、バラバを選んだということ、そこにもっと大きな罪の根っこがあると、読んでいるのです。「十字架につけよ」と叫ぶ合唱にも迫力があります。でも、それは人間の声です。それに対して、「バラバを!」と叫ぶ声はとても人間の声とは思えません。神の子イエス様に挑戦する悪魔の声にさえ聞こえるのです。その悪魔に従わされてしまった群衆が、まるでとりつかれたように「十字架につけよ」と叫び出すわけです。 |
|
|
|
|
聖書によりますと、バラバもまたイエスという名前だったと言われています。バラバというの「父の子」という一種のあだ名でありまして、バラバ・イエスの父親は「父」と慕われ、愛され、尊敬されていた立派な人物であったということが伺われます。
そのバラバが事件を起こし、囚人となり、十字架にかけられようとしていたのであります。他の福音書によりますとある程度分かるのですが、バラバは革命家であり、最近何か暴動事件を引き起こし、その廉で捕まったのではないかと想像されます。やっていることは強盗や人殺しと同じなのですが、彼は他ならぬバラバ、つまり「父の子」でありましたし、その目標、理想においては人々の共感をさせるものがあったのでありましょう。民衆の敵をやっつけた英雄だと私淑する人々もいたことは十分に想像されます。
一方、イエス様は、何をされた方だったでしょうか。先ほどもお話をしましたように、「主はわれらに、すべて善きことを為し給えり」「わがイエスの為せしことはそれのみ」と歌われていたようなことなのでが、もう少し言えば、それはバラバのような、力で新しい世界を創り出そうとするようなものとは違いました。今日お読みしましたイザヤ書には、彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」とあります。粗々しさではなく優しさをもって、激しさではなく静けさをもって、力ではなく愛をもって、暴力ではなく和解をもたらすことによって、神の国を世にもたらそうとする御方であるというのです。そして、このイエス様も、やはり民衆の心を捕らえ、たいへんな人気を博していたことは今までに読んできた通りなのです。
しかし、そのイエス様の人気を読んで、ピラトが「祭りの慣例によって一人の囚人をゆるそう」と提案し、「どちらを釈放して欲しいのか。バラバといわれるイエスか。メシアと言われるイエスか」と問いかけると、「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した」とあります。
どうやって説得したのでしょうか。この群衆たちは、祭司長や長老たちが恐れるほどに、今までイエス様を熱烈に支持し、メシアの来臨だと歓迎していた人たちをどのように説得したら、手のひらをひっくり返したように「イエスを十字架につけよ!」と叫ばせることができるか? とても不思議に思います。
ここぞとばかりにイエス様の悪口を群衆にたたき込んだのでしょうか。そうじゃないと思います。「主はわれらに、すべて善きことを為し給えり」「わがイエスの為せしことはそれのみ」ということを、人々はよく知っていたと思うのです。そんなことを言えば、逆にイエス様をかばう人も出てくるでありましょう。
おそらく、彼らはこう言ったのではないでしょうか。「勇敢で、猛々しく、敵を打ち砕いて容赦しないバラバこそ、我らの英雄である。彼こそ、我らに新しき世界を与える救世主である。」と。私たちもそうだと思いますが、人間というのは現金な存在なのです。神の国の教えを説く人よりも、現在の状況を力で変えていこうとする人の方が頼もしく思われる。
しかし、それが悪魔のささやきであります。イエス様を誘惑した悪魔も、「もし私をひれ伏して拝むならば、世界を与えよう」と言いました。民衆は、その悪魔のささやきを聞いて、「敵を愛しなさい」と教えられたイエス様ではなく、「敵をうち倒せ」と暴動を起こしたバラバを選んだのであります。「自分を低くして人に仕える者になりなさい」と教えられたイエス様ではなく、「英雄であれ」と教えたバラバを選んだのであります。
それは愛よりも力を、平和よりも戦いを、生命を与えることにより人殺しを、つまり神よりも悪魔を選んだということもであります。その結果が、あの「バラバ!」という叫びなのです。
このことは、先ほど申しました「神の言葉の拒絶」ということにも通じてくることだと思うのです。人々は悪魔のささやきに耳を傾けることによって、神の言葉を拒絶したのです。私たちはどうでしょうか。私たちは、「主はわれらに、すべて善きことを為し給えり」「わがイエスの為せしことはそれのみ」ということをよく知っているのです。しかし、それを知っていても、その御方をいつも「わが主」として選んでいるかどうか、それが大切であるということです。
前にもお話ししたことがありますが、ある牧師さんが、とても重々しい十字架の立派な置物をプレゼントされたというのです。それで、家族で話し合って、この十字架を見ていつもイエス様を思い出すことができるように、リビング・テーブルの真ん中に置いたというのです。ところが、子どもたちは、テレビを見るのに邪魔だと言うことで、その十字架を隅っこに寄せてしまう。それを見つけて真ん中に戻して置くんですが、今度は奥さんがテーブルの上に仕事を広げるときに邪魔だというんで、また隅っこに置かれてしまう。あげくに、自分も新聞を読むのに邪魔だと、十字架を動かす、こんな風にして、十字架の置物は、いつ見てもリビングテーブルの真ん中ではなく、隅っこに、邪魔者のようにおいてあるようになってしまったというのです。
これとそっくりのことが、私たちの毎日の生活に起こっているのではないでしょうか。イエス様が救い主であることは分かっていると言いながら、イエス様と共にいることよりも、この世の救いを求めているということはないでしょうか。イエス様こそ私たちの喜びであると分かっていながら、世の楽しみのためにイエス様を邪魔者にしているということはないでしょうか。イエス様のお言葉を信じると言いながら、この世の言葉に信仰が惑わされているということはないでしょうか。
私たちは、イエス様をあからさまに否定するような人間じゃありません。でも、イエス様でないものを選び取ることによって、イエス様を邪魔者の位置に押しやっているんじゃないでしょうか。私たちも、あの民衆と一緒に不愉快な声で「バラバを!」と叫んでいるのではないでしょうか。
みなさん、注意深く聖書を読んでください。悪魔は、イエス様が神の子じゃないなんて一言も言っていないのです。悪魔は、ある意味では人間以上に、イエス様が神の子であることを知っているのです。しかし、知っていながら、イエス様を礼拝しない。これが悪魔であります。「バラバ・イエスと、メシア・イエスとどちらを釈放してほしいのか」と問われたとき、「バラバを」と渾身の力を込めて答える。それが悪魔であります。
そのような悪魔の声から、耳を背けたいと願います。そして、どのような問いかけに対しても、「イエス様こそ救い主です」という声にこそ従う者になりたいと願います。私たちは、二度もイエス様を十字架にかけるようなことは、決してしてはならないのです。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|