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毎週、イエス様の裁判についてのお話を続けております。アンナスの尋問、最高法院の裁判、ペトロの裏切り、ユダの自殺、ピラトの裁判、ヘロデ・アンティパスの尋問と、順番に読んで参りました。こうして見ましても、聖書は、この裁判に非常に大きな関心をもって、その模様をとても詳しく描いていることが分かります。
それは、イエス様の十字架の意味というものが、この裁判によってよく物語られているからなのです。一つは、誰がイエス様を十字架にかけたのかということが明らかにされます。もう一つは、どうしてイエス様は十字架にかけられたのか、ということが明らかにされているのです。
今日は、その最初の問題、誰がイエス様を十字架にかけたのかという事にはついてお話をしてまいりたいと思います。一連の裁判の模様を読んできたことから分かりますことは、あらゆる人たちが、それぞれの置かれた立場の考えをもって、イエス様を十字架に追いやってしまったということです。
ユダヤ人の宗教指導者たちは妬みによって、イエス様を十字架につけて殺そうとしました。イスカリオテのユダはイエス様に失望して裏切ってしまいました。ペトロをはじめとする他の弟子たちは恐れにかられてイエス様を見捨て逃げてしまいました。ヘロデ・アンティパスは子どもっぽい気まぐれ、そして愚かさによって、イエス様を愚弄してしまいました。ポンティオ・ピラトは、イエス様に罪がないことを知りながら、政治的な打算や妥協によって、イエス様を十字架に引き渡しました。
さらに加えて、今日、お読みしましたところには、「民衆」が登場して参ります。彼らは、イエス様の教えを喜んで聞き、数々の恵みの御業を目撃してきた人々であります。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムにお入りになる時などは、自分の着物を脱いでイエス様の道に敷き、「ダビデの子にホサナ、主の御名によって来る者に祝福あれ」と賛美しながら、熱狂的に歓迎したのです。ところが、その民衆が、イエス様を「十字架につけろ」と、叫んでいます。
「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ。」(18節)
「しかし、人々は、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫び続けた。」(21節)
「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」(23節)
人々は、今まで受けてきた主の愛と恩を忘れて、何かに取り憑かれたように「イエスを十字架につけよ」と叫び続けたのです。
このように、イエス様を十字架につけたのは、あらゆる立場の人間であります。一部の指導者たちだけではなく、民衆もイエス様を拒絶しました。ユダだけではなく、他の弟子たちもイエス様を見捨ててしまいました。イエス様を愛した人も、憎んだ人も、積極的な人も、消極的な人も、結局は一緒になって罪なき神の御子を拒絶し、十字架にかけて殺したのであります。
さらに、私は、そこに渦巻くさまざまな人間模様を見て、考えさせられます。ユダヤ人の宗教指導者たちの心にあったのは、イエス様に対する妬みでありました。妬みというのは、人の幸せを喜ばない心です。こういう心は、決して彼らだけのものでありません。私たちの心の中にも存在するのです。
また、イスカリオテのユダの心にあったのは、イエス様に対する失望でありました。この失望は、イエス様がユダを失望させたというものではなく、ユダがイエス様の大きな御心を理解しなかったために、自分の小さな思いこみによって勝手に失望してしまったのです。このような失望は、はたしてユダだけのものでしょうか。私たちもまた、イエス様の大きな御心を理解しないために、自分の小さな考えての中で、イエス様はあれをしてくれない、これをしてくれないとつぶやき、失望しているのではありませんでしょうか。
ペトロはどうでしょうか。「わたしはあんな男と関係ない」と、愛する主を否んでしまったペトロの心にあったのは、恐怖心でありました。恐怖心は、人間を過剰なまでの自己防衛にかりたてます。その結果、自分以外のものがみんな敵に見えてしまうのです。今まで愛し、信じてきた人にも、疑いの目を向け、退けようとしたり、逃げようとしたりしてしまう。こうしてペトロは主から逃げ出し、また主を否んでしまったのでした。恐怖心とは、信じられない心、愛せない心、それゆえに非常な孤独に陥らせる心だといってもよいでありましょう。この恐怖心もまた、ペトロだけにある心ではなく、私たち誰もがもっている心なのです。
ヘロデ・アンティパスは、まるで新しいおもちゃを与えられた子どものように喜んで、イエス様を歓迎しました。しかし、思い通りにならないとたちまち興味を失い、子どもっぽい気まぐれさをもって、イエス様を愚弄し、放り出してしまうのです。幼稚なヘロデ・アンティパス! しかし、私たちはどうでしょうか。喜んだかと思えば失望し、決心したと思ったら途端に揺らぎだし、夢中になったかと思えば飽きて放り出してしまう、そんな不安定で、気まぐれな心で、生き方の安定を失い、イエス様に対する信仰は常にぐらついているのではないでしょうか。
このように考えてみますと、神様が与えてくださった本当に素晴らしい贈り物であり、何にも代え難い価値をもった宝であるイエス様を、頑なに拒絶し、十字架につけて殺してしまったのは、決して彼らだけではないのです。私たちもまた、心のうちにある妬みや、考えの狭さや、恐怖心や、幼稚さによって、神様の贈り物であるイエス様を、素直に受け入れることができなかったり、自分の心をイエス様に明け渡すことができなかったりして、イエス様を拒絶しているのです。それが積極的な拒絶であれ、消極的な拒絶であれ、結局は私たちもイエス様を十字架につけて殺した人々と同じ人間だということではないでしょうか。
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ピラトはどうでしょう。ピラトというのは本当に気の毒な人だと思うのです。なぜなら、彼の名前は『使徒信条』に記され、今日に至るまで二千年間、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、」と、世界中の教会によってその罪を責め続けられてきたからです。今日も、私たちはこの礼拝で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、」とみんなで告白したのです。
しかし、今申しましたように、イエス様を十字架につけたのは、決してピラトひとりではありません。どうしてピラトの名が『使徒信条』に記されることになったのか。そんなことを考えながら、今日はピラトがいかにしてイエス様に死刑判決をくだすことになったのか、そのあたりのことを、少し丁寧に見てまいりたいと思うのです。
彼はイエス様の無罪を確信していました。4節をごらんください。
「ピラトは祭司長たちと群衆に、『わたしはこの男に何の罪も見いだせない』と言った。」
ここでピラトが言っているのは、少しは罪があるが、死罪に当たるようなものではないという意味でありません。「我この人に咎あるを見ず」、この人には何の罪も見いだせない、完全に無罪であるということなのです。しかし、ユダヤ人らは「はい、そうですか」とは言いませんでした。あくまでもイエス様を有罪に、しかも死刑にするように、より強くピラトに要求したのです。
それで、ピラトはこれをユダヤ人の問題として、イエス様をヘロデのところに送り、ヘロデに処分させようとしました。しかし、先ほども言いましたように、ヘロデにはこの問題をうまく処理するような才能がありませんで、すぐにイエス様をピラトのもとに送り返して来るのです。
それで、ピラトはユダヤ人らに妥協案を提示して、この問題をおさめようとしました。15-16節、
「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
鞭で打つということは、ユダヤ人らの言い分を聞いてイエス様の有罪を認めることです。その辺でユダヤ人らと折り合いをつけようとしたわけです。見方によっては、ピラトがイエス様を十字架から救おうとしているという風にも読めます。
しかし、本当はこんな妥協をする必要はないのではないでしょうか。ユダヤ人たちが何と言おうと、裁きの権限を与えられているのはピラトなのですから、「この男には罪がない」と、自分の信じる正義に基づいて判決を下せば、それでいいのです。
ところが、ピラトはユダヤ人らとの妥協を計りました。ユダヤ人らの暴動が起これば、自分の統治能力が責められることになる。そういう恐れを感じたのが、その理由でありましょう。先ほどもお話ししましたが、恐れというのは過剰な自己防衛に駆り立てるのでありまして、ピラトはイエス様を十字架から救おうか等という殊勝なことを考えていたのではなく、「どうやって自分の身を守るか」という事ばかりを考えていたに違いないのです。
ところが、ユダヤ人らは鞭打ちぐらいでは納得しません。どうしても、十字架につけろと言います。それで、ピラトは次の提案をします。今度は『マタイによる福音書』で、それを読んでみたいと思います。
「ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(『マタイによる福音書』27章15-18節)
つまり、イエス様が死罪にあたることを認めるかわりに、特赦という形で釈放しようとしたというわけです。ところが、それがまずかったわけです。この妥協案は、かえってユダヤ人らにつけいる隙を与えることとなり、ユダヤ人民衆までもが一緒になって、「十字架につけろ」とのシュプレヒコールが起こり始めたと言います。やはり、『マタイによる福音書』で読んでみたいと思います。
「しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、『二人のうち、どちらを釈放してほしいのか』と言うと、人々は、『バラバを』と言った。ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(『マタイによる福音書』27章20-26節)
結局、ピラトは「自分には責任がない」などと嘯(うそぶ)いて、自分の立場を守ることに必死になりながら、イエス様を十字架につける判決を下してしまったのです。
立場を守ることは悪いことではありません。しかし、ここでピラトが守るべき立場とは、総督としての務めを果たすことで、それは与えられた権威をもって正義を行うことでありましょう。しかし、彼が守ろうとしたのは、単なる総督としての地位に過ぎませんでした。『ルカによる福音書』の方は、そのことをはっきりと記しています。これは文語の方が臨場感あふれる文章になっていますので、そちらでご紹介しましょう。
「されど人々、大声をあげて迫りて、十字架につけんことを求めたれば、遂にその声勝てり。ここにピラトその求めのごとくすべしと言ひわたし、その求めるままにかの一揆と殺人(ひとごろし)との故によりて、獄(ひとや)に入れられたる者を赦し、イエスを付(わた)して彼らの心の隋(まま)ならしめたり」
「遂にその声勝てり」、「彼らの心の隋ならしめたり」とありますように、ピラトは結局何もできずに、ユダヤ人らの言われるままに、イエス様に十字架刑を言い渡しただったと、聖書は語っているのです。彼は、人を裁く立場にいるのですから、真理を、正義を求め、「我この人に咎あるを見ず」という良心の声に従うべきでした。しかし、彼は違う声に従ってしまったのです。それがピラトの最大の汚点なのです。
考えてみますと、ユダヤ人指導者たちにしろ、イスカリオテのユダにしろ、ペトロをはじめとする弟子たちにしろ、ヘロデ・アンティパスにしろ、民衆にしろ、みんな違う声に従ってしまったのではないでしょうか。そのために妬み、失望し、恐れ、愚かになり、またピラトのごとく自己保身、自己防衛に走って、神様の贈り物である御子イエス・キリストを拒絶してしまったと言ってもいいのではないかと思うのです。
「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」というのは、ピラトのごとくに心に呼びかけてくる正しい声に従わず、違った声に聞き従ってしまったすべての人が、イエス様を拒絶し、十字架につけて殺してしまったのだという意味が込められているのだと思うのです。もっと言えば、神の声ではなく、サタンの声に従ったということであります。
「わたしは違う」と、私たちは言えるでしょうか。神の声を心に聞きつつも、違う声の大きさ、激しさに押し切られ、「遂にその声勝てり」、「その声のままならしめたり」という生き方をしてしまっているとするならば、私たちもまたイエス様を拒絶し、十字架にかけた人間の仲間なのであります。 |
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私は、これらのことを読みながら、イエス様が言われた一つの御言葉を思い起こしました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(『マタイによる福音書』16章24-26節)
「自分を守ろうとする人は、それを失う」と、イエス様は私たちに仰っておられます。ピラトがそうでした。ユダヤ人の宗教指導者たちも、イスカリオテのユダも、ペトロも、みんなそうでした。彼らは皆、一時の成功、一時の安心、一時の自己実現というものを守ろうとして、本当に自分を生かすところの真理、正義、愛に生きる命という最も大切なものを失ったのです。
「たとえ世界を手に入れたところで、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と、イエス様はおっしゃいます。一時の自己保身、自己防衛が成功したところで、永遠の命というものを失ったらどんな意味が、どんな価値があるのかと、問われるのです。
そして、そんな風にならないために、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とも言われました。「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」なんていうことは、簡単に「はい、そうですか」と言ってできることではありません。どうしたそれができるようになるのでしょうか。そのためには、十字架にかけられたイエス様のうちに、私たちの真の命があるということを知るということが必要です。
いかにして、それを知ることができましょうか? 私がそれ知ったのは、イエス様を十字架につけたのは、他ならぬ私であるということを知った時でありました。本当は私こそあの十字架にかかるべき者なのだということを知ったとき、私の身代わりとなって十字架にかかってくださっているイエス様の愛を知ったのでした。「ああ、イエス様が十字架にかかって下ったのは、死ぬべき私にご自分の命を与え、私が生きる者となるためだった」と分かったのです。
イエス様は、「お前は罪人だから自分を捨てて、十字架を背負え」と言われるのではありません。「お前の命は、私が十字架で贖った。お前の命は十字架にかけられた私の内にあるのだ。だから、お前の私と共に十字架を負って、私に従え」と仰ってくださっているのです。
十字架を負うということは、一時的な自己保身の声に聞き従うのではなく、父なる神への全き信頼と、真理と愛と正義に生きられたイエス様のみ声に従うということです。それは、私たちにとって自分を失うように思える時があります。しかし、実は逆で、それこそが私たちを本当に生かすところのイエス様と一つとなり、イエス様の真理、正義、愛に生きることになるのです。
今日は、誰がイエス様を十字架につけたのかという観点でお話をしました。もう一つの問題、イエス様はどうして十字架にかかったのかということについては、次回にお話をさせていただくことにしたいと思います。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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