裁かれる主<3> ピラトの前で (金曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヨハネによる福音書18章28-38節
旧約聖書 エレミヤ書10章6-11節
神なき裁判
 イエス様は、神を冒涜した廉で、ユダヤ人の最高法院において裁判にかけられ、死罪を言い渡されました。もちろん、これは間違った裁判でした。しかし、どうしてこういう間違った裁判が行われてしまったのでしょうか。

 実は、私たちもよく間違った裁きをするのです。たとえば、「あいつは嫌な奴だ」と心の中で思う。これも一つの裁きを下すことです。けれども、「嫌な奴だ」と思った人が本当はいい人であったり、「いい奴だ」と思った人が本当は薄情な人であったり、そういう間違いをよく犯すのではないでしゅうか。

 間違いを犯すのは、人間の常です。しかし、裁きというのは、ほんのちょっとした間違いでも大事に至ることがあるので気をつけなくてはなりません。差別事件やいじめ事件などは、偏見という私たちの心の間違った裁きの産物だともいえるのです。

 こういう間違いが一向に無くならないのは、人間には人を正しく裁く能力がないということではないでしょうか。少なくとも聖書は、人を正しく裁くお方は神様しかいないと教えているのであります。神様が尊ばれないところでは、決して正しい裁きは行われないのです。

 それならば、イエス様に対する間違った裁判が行われた一番の原因は、そこに神様がいなかったからであるということになります。もう少し丁寧な言い方をするならば、イエス様を裁いた宗教指導者たちの心の中に神様への畏れや敬いがなかったということなのです。

 イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と教えられました。神を畏れる人間は、自分を裁く神様がいらっしゃるということを知っている人間であります。ですから、人を裁くことにも慎重に成るに違いありません。しかし、神への畏れがなければ、裁く人は自分が神であるかのような振る舞いをします。イエス様の裁く裁判には、そのような人間の愚かしさと恐ろしさというものが如実に表れているのです。

 さて、ユダヤ人の最高法院は、イエス様に死罪を言い渡したものの、実のところ人を死刑にする権限までは与えられていませんでした。そのため、イエス様を死刑にするためには、どうしてもローマ総督ピラトの判決が必要だったのです。それで、彼らは夜が明けるとさっそく、総督ピラトの官邸にイエス様を連行し、判決を求めます。今日は、そのピラトの裁判についてお話であります。

 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」(28節)

 これによりますと、裁判が行われたのは過越しの食事の前であったことになります。実はこのような立場を取るのは『ヨハネによる福音書』だけでありまして、マタイ、マルコ、ルカの書いた福音書では過越しの食事の後にイエス様は逮捕され、一連の裁判が行われたと書いているのです。私もそのような立場でお話をしてきました。けれども、ピラトの裁判について一番丁寧に書いているのは、この『ヨハネによる福音書』なのです。それで、今日はこの福音書を読むことにしました。

 過越しの食事の前か、後かはともかくとしまして、最高法院の議院たちが、ピラトの官邸に入ることを厭って中に入らなかったと書いてあることは痛烈な皮肉でありましょう。それは異邦人の家に入ることは宗教的な汚れを負うことだと思っていたからであります。こういうことは几帳面に守ろうとしていながら、他方では神が遣わされた御子なるイエス様を邪魔者扱いして消そうとしている。いったいどちからが罪深いことなのか。そういうことがまったく逆転してしまっているのです。このような恐るべき倒錯、自己矛盾に満ちたことを悪びれもなくやってしまうという事が、彼らの内に神がいないということを物語っていると言えましょう。

 信仰というのは、簡単に言えば順序の問題なのです。家族、仕事、健康、財産、名誉・・・大切なものは決して一つでありません。しかし、何よりも大切なものは神様です。神様以上に大切なものがあってはならない、神様は二番でも、三番でもなく、常に一番に来なくてはならないのです。これが信仰です。

 「他のものはいらない」などと言わなくても良いと思います。しかし、イエス様は「何よりもまず神の国と神の義を求めよ。そうすればすべてのものは添えて与えられる」と仰いました。神様を常に一番にせよ、そうすれば他の必要も正しい形で満たされてくるのだと、イエス様は教えてくださったのです。

 そのように神様を一番に考えていれば、そもそも異邦人を宗教的に汚れたものと見るような信念が生まれてくるはずもないと、私は思います。そういう偽善的な宗教的信念は、もっと別の次元から起こってくるに違いないのです。彼らは宗教者でありながら、もっとも神様の御心から遠いことをしてしまっている。このような倒錯が、神の御子を殺してしまうという恐ろしい倒錯を引き起こしていると言っても過言ではないのです。
十字架刑を求める
 さて、ユダヤ人らは囚人イエスをローマ兵に引き渡し、ピラトの裁判を求めました。続きを読んでみましょう。

 「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」

 ユダヤ人らが官邸の中に入ってこないで、ピラトの方から彼らのところに出来たと書いてあります。ピラトにしてみれば癪に障ることでしょうが、ユダヤ人らの風習と考えて目をつぶったのでありましょう。ローマ帝国は基本的に属国の宗教というものを重んじる政策をとっていたのであります。

 ピラトはユダヤ人らに向かって問います。「いかなる廉でこの男を訴えるのか」 彼らは「悪人でなければ、あなたに引き渡したりはしません。どうぞ、調べてください」と答えます。ピラトは、彼らがはっきりとした罪名を言わないことを怪しんだに違いありません。「罪状が言えないならば、私が裁くまでもない。自分たちの律法で裁けばいいだろう」と応じました。すると、彼らは「この男を死刑にして欲しいのです。私たちには人を死刑にする権限が与えられていませんから」と、本音を吐いたのでした。

 ここまでは、理解に難しいことはありません。しかし、次にちょっとわかりにくい解説がつけられています。

 「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」

 実は、ユダヤ人らが「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」といったのは、厳密な意味では正しくありません。なぜなら、宗教的な律法違反で石打ちの刑に処する権限は、彼らにも与えられていたのです。けれども、彼らは石打ちの刑ではなく、ローマの国事犯として十字架にかけて殺すことを望んだのです。

 ユダヤの律法では「木にかけられた死体は呪われる」というものがあります。そういう点からしますと、ユダヤ人にとって十字架刑というのは肉体的なつらさだけではなく、神様に捨てられるという宗教感情として耐え難いことであったと言えます。そういう苦しみを、イエス様に与えようとしたのでありましょう。

 しかし、どうしてそこまで徹底的にイエス様を憎まなければならなかったのか。完全には説明ができないのです。そのことに対して、聖書は、実はそのことは彼らの考えではなく、イエス様ご自身の御言葉が実現するためであったと説明しているわけです。

 確かに、イエス様はガリラヤからエルサレムに昇って行かれる途上で、ご自分の受ける迫害と殉教について、三度にわたり預言をしておられます。

 @「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(『マタイによる福音書』16章21節)

 A「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』弟子たちは非常に悲しんだ。」(『マタイによる福音書』17章22-23節)

 B「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」(『マタイによる福音書』20章17-19節)

 これは是非とも覚えておかなければならない、大切なことなのです。イエス様は、今日もお話ししましたように神を畏れぬ偽善的宗教指導者たちの手にかかって死に追いやられるのです。しかし、実はその背後で、そのような不法を敢えて許し給う神の御心があり、その神の御心によってイエス様は十字架にかけられたのだと、聖書は語るのです。

 それは神様が、大祭司や祭司長、律法学者、長老たちの悪行に手を貸したということではありません。また、彼らはただ神の御旨を行って、イエス様を十字架にかけたのだから罪はないという話でもありません。神様は、ご自分の独り子であるイエス様をも殺してしまう罪深き人間たちを敢えてなすがままに任せ、イエス様が彼らの罪を、愛をもって赦し受け入れることを求められたのです。

 わかりにくい話、理不尽な話だろうと思います。しかし、愛というのはしばしばこのような不合理な形をとるものなのです。イエス様は十字架の上で、自分を死に追いやった者たちのために「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているか自分で分からないのです」とお祈りなさいました。まさに、彼らの罪を、愛をもって赦しつつ受け入れられたのです。そのことによって、罪人を赦す神の愛が表されたのでした。

 このことについては、いずれまたお話をすることになるだろうと思います。今日のところは、イエス様の十字架は、表面的には神を畏れぬ人間が神の子を殺したという物語でありますが、その物語の中に罪人の赦しのために敢えて神の子を十字架にかけられた神様の悲しいまでの愛の物語であるという本当の物語が隠されているということを是非とも覚えていただきたいと思うのです。 
イエスはメシアか?
 さて、ピラトは「自分たちで裁け」と、ユダヤ人らに言い放ちました。しかし、ユダヤ人らはローマによる裁判を強く望みます。ここには書いてないのですが、『ルカによる福音書』によると、罪状をあげてイエス様を訴えてとも言われています。

 「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』」(『ルカによる福音書』23章1-2節)

 第一は治安妨害です。第二は皇帝に税金を納めない運動をしたことです。第三はメシアなる王を自称したことです。もちろん、どれもこれもでっち上げです。もっとも、イエス様が群衆を扇動したり、デモ行進したなどという話はありません。皇帝への税金については、むしろ「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言って、税金を納めることは決して信仰に反しないことを教えられました。第三のことは、実はイエス様がご自身で私はメシアだと言われたことは一度もありません。むしろ、人々がイエス様を王として担ぎ上げようとしたとき、ひとり山に逃げたということも言われているぐらいです(ヨハネ6:15)。

 ともあれ、ピラトはユダヤ人らがイエス様を一種のローマ帝国に対する政治犯として訴え、裁判を強く希望したので、いったん総督官邸の中に入り、イエス様を呼び出して、そこで尋問を始めました。

 「お前がユダヤ人の王なのか」

 ピラトはこのことをしつこくイエス様に訊いたと、書かれています。しかし、イエス様は「そうだ」とも、「そうではない」ともお答えになりません。まず、こう問い返します。

 「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

 このような問い返しによって、ピラトの権力に対する超然とした姿勢を、イエス様がお示しになったという風にも読めます。しかし、私は、あのフィリポ・カイサリアの問答を思い起こすのです。

 「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます。』イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」(『マタイによる福音書』16章13-18節)

 イエス様が何者であるかということについては、当時も今も、いろいろな人がいろいろなことを言っています。しかし、先ほども言いましたように、イエス様ご自身は、実際神の御子でありながら、またメシアでありながら、一切そういうことは仰らなかったのです。ここでも、イエス様は「あなたがたはどう思うか」と尋ねられました。それに対してペトロが「あなたは神の子メシアです」と答え、イエス様がそれを祝福するという形になっているのです。

 信仰というのは、「イエス様は誰か」と問うことではなく、「わたしのことを誰だと思うのか」というイエス様から問いに答えることなのではないでしょうか。

 私は、教会を訪ねてこられた方によく「イエスという御方は人間ですか、神ですか」ということを訊かれます。教理的に申しますと、イエス様は真の神であり、まことの人間です。しかし、そういうことをお答えしても、その人の心にはどんなイエス様像も生きてこないでありましょう。真の神、真の人とはいったい如何なることなのか、という暗中模索が始まるだけであります。

 それはそれで意味のあることですが、しかし、信仰を持つためには、自分が問うのではなく、自分がイエス様に、神様に問われている人間なのだということに、まず気がつかなければなりません。そうでないと、どんなに熱心に「イエス様が何者であるか」ということを求めていても、決して分からないのです。誰かがこう言っているとか、教会でこう教えられたということではなく、自分の実存をもって「あなたは○○です」と答える。その時に、イエス様と私たちの関係はリアルなもの、生きたものになるのです。そして、それが信仰であります。

 それで、イエス様はピラトに「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と問うわけです。しかし、ピラトは自分が囚人に問われるということに腹立たしさを覚えたのでありましょう。ぶっきらぼうにこう言い返します。

 「ピラトは言い返した。『わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。』」

 簡単に言えば、お前がユダヤ人の王であろうがなかろうが、そんなことは私にはどうでもいいことだ、ということを言ったわけです。このピラトのように、イエス様を憎んでいるわけでもなければ、信じ、また愛しているわけでもない。イエス・キリストなどという存在は、自分には何の関係もないという人は、今の世にもたくさんいます。それは、ある意味で心の拠り所を持っている人であります。たとえば、ピラトにとって絶対的な拠り所はローマ帝国の偉大さ、ローマ皇帝の権力の絶対さでありました。それを揺るがすような存在でない限り、無関心でいられるのです。

 しかし、気をつけなければならないのは、本当にそれが自分の拠り所として十分なものであるのかということであります。イエス様とピラトの対峙は、300年の長きにわたるローマ帝国とキリスト教の対峙の最初の出来事であったということもできます。この時、ピラトはイエス様を軽くあしらおうとしました。ローマ帝国の偉大さに比べたら、イエスなどということはまったく相手にする足らない相手だと思っていました。十字架にかけてしまえば、それでお終いだと思いました。しかし、100年もすると、ローマ帝国は国家をあげてキリスト教をつぶしにかかります。無視できない存在となったからです。さらに300年後には、ローマ皇帝が洗礼を受け、キリスト教を国教とするという形で、逆転するのです。そして今、ローマ帝国は過去のものとなりましたが、キリスト教は今もなお人々の心を支配し続け、拡大しているわけです。

 さて、イエス様とピラトのやりとりはさらに続きます。

 「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」

 イエス様は、「わたしの国は、この世に属していない」と言われました。するとピラトは再び「では、やはり王なのか」と問います。その時も、イエス様は「そうだ」とは答えません。「それはあなたの言っていることです」と言い返します。ちょっとわかりにくい答えですが、「それはあなたが決めることです」という意味ではないかと思います。そして、イエス様はさらにつっこんだお答えをなさいまして、私の力、権威というのは国家権力でもなければ、武力でもない。真理に基づくものなのだと仰るのです。

 このやりとりは、非常に印象深いピラトの言葉で幕切れとなります。

 「ピラトは言った。『真理とは何か。』」

 それに対するイエス様の答えはありませんでした。ピラトにとって権謀術数は大事であっても、真理などというきれい事は、この世を生き抜くためには何の役にも立たない関心のないことだったのでありましょう。

 しかし、そうでしょうか。マハトマ・ガンジーは、次のような感銘深い言葉を残しています。

 「真理にあって戦う者は、自由であろうと囚われの人であろうと、勝利者であって敗北を知らない。真理と良心に従わなくなった時に、彼は初めて敗北者となるのである」

 世の中には、自分を守るため、会社を守るためにと、平気で真理と良心に背いて仕事をしたり、嘘をつく人がいることと思います。確かに、それで一時はうまくいくことがあるかもしれません。しかし、その成功、その勝利というのは目先のことであって、長い目で見たら実にはかないものなのです。しかし、もし真理に従うならば、その時は理解されなくても、また迫害されても、私たちは常に確信をもって、後悔することなく、自分のやってきたことに誇りをもって生きることができます。それがガンジーの言う人生の勝利者ということではないでしょうか。

 聖書にも、次のような言葉があります。

 「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」(『コリントの信徒への手紙二』)

 これも、真理の普遍性、力というものを語っているのであります。イエス様は、このような真理を明らかにするために、私は生まれ、世に来た。また真理に従う人は、私の声にも従うのだと、ピラトに答えています。それは、「わたしが真理だ」という意味でありましょう。

 しかし、イエス様は「真理とは何か」というピラトの問いに答えませんでした。これもまた、「イエス様は誰であるか」という問いと」同様に、私たちがイエス様に問われていることなのです。私たちは何を真理として生きていくのか。その真理は本当の真理なのか。

 それに対して、どんな時にも、イエス様こそ私の真理であり、私たちの救い主ですと答えていくこと、それが私たちの信仰であります。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp