ユダの自殺 (金曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書27章1-10節
旧約聖書 ヨブ記16章19-20節
我らの生を問うユダの死
 今日は、イスカリオテのユダの自殺についてのお話です。ユダは、イエス様が格別に選び分かたれた十二使徒の一人でありました。しかし、わが主として仰いだイエス様を裏切ってしまい、最後にはそれを後悔して自殺してしまったというのであります。

 イスカリオテのユダについてお話をすることは、正直言って気が重いことであります。それは、ユダのような裏切り者の存在を認めたくないという気持ちからではありません。裏切り者なら他にいるのです。先週は、ペトロがイエス様を裏切ったというお話でありました。ペトロだけではありません。私も、皆さんも、イエス様を裏切ったことがないと胸を張って神様に言えるでしょうか。悪魔的な感情や悪魔的な欲望の虜になったことがないと、神様の前で言えるでしょうか。私などは、信仰生活の九十パーセントがイエス様への裏切りで染まっているといってもいいかもしれないとさえ思うのです。問題は、ユダはそのために死を選び、私たちは主を裏切りつつなおも生きているということです。

 ユダの自殺は、ある意味で非常にわかりやすい話なのです。ユダははっきりとこう言いました。

 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」

 つまりユダは、イエス様が正しいお方であることを認め、その方を裏切った自分の罪を心から後悔したのです。そして、もう、これは死んでお詫びするしかないと思って自殺したのでありました。

 では、私たちはどうなのでしょうか。私たちも自分の罪を本当に真剣に見つめるならば、自分がユダと少しも変わることのない裏切り者であり、イエス様を十字架につけた罪人であるということが分かるでありましょう。しかし、ユダは死んでお詫びしましたが、私たちは死にもせずに、いったいどこでお詫びをしているのでありましょうか。お詫びするどころか、十字架のイエス様をあがめて「わが罪ゆるされたり」と喜んでいるのです。

 本当にこれでいいのでしょうか? ユダの死を問うということは、私たちの生を問うことです。なにゆえ、この罪深き者が生きているのか? 否、生きることがゆるされているのか? そのことを問わずして、ユダの自殺について軽々しく語ることはできないと、私は思うのです。
自殺について
 たとえば、自殺そのものが、神様のくださった命を自分で殺すことだから、神様への反逆だという考えが、キリスト教の中にあります。そのために、自殺者の葬儀は行わないという教会も、かつては多かったと言います。私は、そういう風にユダの自殺を断罪したくないのです。

 日本は世界的に見ても自殺の多い国です。WHOの統計によりますと、日本の自殺者数は世界第10位となっています。2004年には3万227人の自殺者があったと言います。ちなみに韓国は2001年の統計で6933人です。総人口の違いを鑑みても、日本がどれだけ自殺者の多い国かおわかり頂けるでしょうか。これだけ多いと、皆さんの身近なところでも一人や二人自殺で亡くなった方がいるのではありませんでしょうか。そういう人たちに向かって、クリスチャンである私たちは「自殺は罪である」と冷たく言い放つだけで済ませるのでしょうか。

 私は、自殺は罪だと自信たっぷり言うのが敬虔な信仰だとは思いません。第一に、一口に自殺と言っても、いろいろな死があります。鬱病で自殺する人は一種の病死と考えることもできます。尊厳死を望んで自殺する人もいます。尊厳死というのは、人間らしく死ぬということです。文芸評論家江藤淳さんは脳梗塞の後遺症で苦しみ、もはやこれは自分ではない、自分の形骸であるとし、「形骸を断ずる」という名ゼリフを残して自殺しました。私はこのような考え方に賛成できませんが、尊厳死を願う気持ちまでを否定することはできません。

 お役所や大企業の責任者が、その責任の重さに耐えきれなくなって自殺するという話もあります。サラリーマンの過労自殺という話もあります。死なないで頑張っている人もたくさんいるのですから、もう少しだけ頑張り通して欲しかったと思います。しかし、きっと人一倍まじめで、努力家で、責任感が強い人だからこそ、そこまで追いつめられてしまったのでありましょう。

 子供の自殺もあります。いじめられた子供が、いじめた子供に対して「絶対に赦さない」という遺書を残して自殺するという事件は、悲しいことに珍しくなくなってしまいました。そのような子供の死は、苦しみから逃れようとするだけではなく、死をもっていじめの悪を糾弾しようという子供なりの抗議や、戦いの気持ちがこめられていたに違いありません。もちろん、それでも命を大切にして欲しかったと思います。でも、「自殺は罪だ」と冷たく言い放つ気にはなれないのです。

 自殺したっていいじゃないか、と言っているのではありません。クリスチャンというのは、どんなに人々に対しても、生きる希望を、生かしてくださる神様の愛を語り続け、自殺は神様の望み給うことではないと励まし続けなくてはなりません。しかし同時に、イエス様がそうであったように、どんな罪人に対しても、自殺者に対しても、その人の苦しみや深い悩みに同情をもって、その救いを祈る友となる者になりたいと思うのです。

 それからもう一つ、自殺は罪だと冷たく言い放ってはならないと思うのは、自殺というのは本当にその人だけ罪なのかということを考えなくてはいけないと思うのです。たとえばいじめられて自殺した子供はどうでしょうか。過労自殺というわれる死はどうでしょうか。そこには他殺的な要素があるのです。一人の人の自殺には、世の中が負わなければならない問題であり、また私たち一人一人が隣人として負い目を感じなければならないことがあるのではないでしょうか。

 そのようなことをまったく無視して、自殺者は罪人だと決めつけたり、その葬儀を行わなかったりなどというのは、まったく神様の愛や正義に反することだと思わされるのです。
ユダの罪の負い方
 ユダの自殺もそうです。この自殺の記事を読むと、私はイスカリオテのユダというは決していい加減な男じゃなかったと思えるのです。ユダの自殺は、先ほども言いましたように、自分の罪を真剣に見つめた結果でありました。罪というのは誰にでもあるのでありまして、ただその罪に気づいているか、気づいていないか。真剣に見つめようとしているか、目をそらしているのか。そういう違いだけがあるのです。

 たとえば、私はユダほど悪い人間じゃないと思う人がいるならば、それはまだ自分の罪深さに気づいていないだけのことなのです。しかし、ユダは、非常にまじめに自分の罪を見つめて、決して誤魔化そうとしなかったのです。もう一度、『マタイによる福音書』27章3-5節を読んでみたいと思います。

 「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(3-5節)

 ここを読みますと、ユダは実に潔く、誠実な男なのです。彼は自分の罪に気づくと、出来る限りのことをして罪を償おうとします。まず、祭司長、長老たちのところに言って、「わたしは間違っていた。罪のない人をあなたがたに売り渡してしまった」と真正直に告白しました。それから、裏切りの代償として受け取った銀貨三十枚を返そうとしました。そうすることによって、もしからしたら、今からでもできるならイエス様を救うことができるかもしれないと考えたのではないでしょうか。つまり、ユダは自分の罪をくよくよ悩むのではなく、罪を犯した者としてのできる限りの責任を果たそうとしたのです。

 しかし、ユダヤ当局者たちは、そんなユダを相手にしようとはしません。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と、ユダを突き放してしまったのです。「お前の問題だ」というのは、「自分で責任をとれ」ということでありましょう。それで、ユダは死をもって自分の罪を償おうとしたわけです。

 ユダが自殺したところで、イエス様が死を免れるわけではありません。自殺しても償いにはならないのです。そういう意味では、自殺は何の意味もないことだったかもしれません。けれども、それなら私たちは、自分の罪に対してどれだけ責任ある生き方をしているのでしょうか。ただ自分の罪を考えないようにしているとか、どうせイエス様がゆるしてくださるのだから大丈夫だというような安易な考えをもっているとしたら、それは自分の罪の重さを知り、真剣に後悔し、それを全身で負おうとしたユダの自殺に勝るような立派な生き方だと言えるのでありましょうか。

私は、ユダの自殺を読む時、自分はこのユダにも劣る卑劣で、恥ずべき人間ではないかと、思わされることがあるのです。 
泣かないユダ
 私は、ユダの自殺を礼賛したり、正当化しようとしているのではありません。ユダはやはり自殺をしてはならなかったのです。思いますに、ユダは、先週お話ししたペトロのようにイエス様の前でわんわんと声をあげて泣くべきだったのではないでしょうか。けれども、ユダは泣きませんでした。そこがユダの最大の問題だと思うのです。

 まずペトロの話を思い返してみましょう。『マタイによる福音書』26章74-75節、

 「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

 ペトロもイエス様を裏切りました。気ちがいのようになって、「わたしはイエスなんて男は知らない。あんな奴とは関係ない。赤の他人だ」と、イエス様との関係を否定してしまったわけです。ユダの罪と同じです。ユダも、イエス様を敵方に売り渡すことによって、自分とイエス様との関係を断ち切ろうとしたわけです。

 しかし、二人とも自分の過ちに気づき、そのことを深く後悔して罪責感にさいなまされます。そこまではユダもペトロもほぼ同じ道をたどったと言ってもいいのです。問題は、その後です。ペトロは、「激しく泣いた」と言われています。自分の罪に気づいて、わんわんと泣き叫んだというのです。

 他方、ユダは泣きませんでした。きっと、泣いたってどうにもならないと考えたのでありましょう。ユダは罪を犯した人間として自分は何をすべきか、どう責任を取るか、ということを考えました。そして、罪を告白し、それを償おうとし、それが叶わないとなると死をもって罪の責任を取ろうとしたのです。

 ペトロはそういうことをしないで泣いただけです。ペトロは子供っぽくあり、ユダは大人らしかったと言ってもいいかもしれません。けれども、その行く末は、大人らしい態度をとったユダは自滅し、子供っぽく泣いたペトロは愛と赦しと祝福を手にしたのでありました。

 ですから、ユダも泣けばよかったのだと、私は思うのです。しかし、ユダは泣きませんでした。ユダはインテリだったという人がいます。博愛主義者だったという人もいます。ユダについて聖書を読んでみると、そういうところが伺えるというのです。インテリも博愛主義も悪くはありませんが、ユダは知性にしろ、理想にしろ、自分が強すぎるのが欠点だったと思います。

 考えてみますと、ユダは人生の失敗者でも挫折者でもありません。ペトロの裏切りは、挫折でありました。「決してあなたを裏切りません」と誓ったに、裏切ってしまったのです。しかし、ユダの裏切りは、自分の情熱、計画をもって、断行し、成し遂げたことでありました。おそらくユダは、イエス様を祭司長らの手に渡すことが、神のためであり、国民のためであると、本気で信じていたんだろうと思います。しかし、裏切りを成し遂げたとき、彼は自分の誤りに気づきました。するとユダは、そこでまた、自分の情熱に従って、自分の力で罪を負い、問題を解決しようとするのです。

 このようにユダはいつも自分の頭で考え、自分の力で問題を解決し、道を開き、自分だけを頼りにして生きていたと思えるのです。そういう人は、どんなに苦しいときだって、泣いてはいけないと考えるに違いないと思います。泣くということは、自分の弱さをさらけ出して、自分の責任を投げ出して、誰かに助けを求めることだからです。それは格好わるいし、自分の惨めさを認めることになる一番辛いことだったのではないでしょうか。
悲しむ者の幸い
 しかし、イエス様は何と仰っていますでしょうか。

 「悲しむ人々は、幸いである、
  その人は慰められる」(『マタイによる福音書』5章4節)

 イエス様は、悲しむ人々を祝福され、悲しむ人々に神の愛と慰めを約束してくださったのです。

 最初に、ユダの自殺を問うことは、私たちの生を問うことだということを申しました。ユダは自殺したから悪いなんて、軽々しく言うことはできません。ユダは出来る限り自分で罪の責任を負おうとしたのです。それだけ、罪の重みというものを誠実に受け取っていたということです。それに対して、私たちは自分の罪ということにどれだけ気づいているのか。それに気づいていないから、のうのうと生きていられるだけではないか。果たして、そうやって生きているのは正しいことなのか。そういうことを考えなくてはならないと思うのです。

 その上で、私は、それにもかかわらず、神様は私たちに「生きよ」と呼びかけておられるのだということを申し上げたいのです。神様が願っておられるのは罪人の死ではなく、罪人が神様に立ち返って、神様のもとで新しい人間として行き直すことであります。しかし、どうしたら、そんなことができるのでしょうか。熱心でしょうか、努力でしょうか? 誠意でしょうか? ユダはそのすべてをしたけれども、神様に立ち返って新しく行き直すことが叶わなかったのです。

 それならば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。人間にできないことならば、神様の愛と憐れみに寄りすがるしか道はありません。ペトロは幼子のように泣いて、愛と憐れみを求めたのです。しかし、ユダはそれをしなかったのです。神の恵みの前に謙ることができなかったために、絶望の道を歩んでしまったのです。

 しかし、何度でも繰り返しますが、神様もイエス様も、このような結末を決して望んではおられません。「悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる」と、涙を携えて、神様の愛と恵みの前に謙ることを求めて居られるのです。そうすれば、わたしがあなたを慰めると、約束してくださっているのです。この招きを忘れることなく、十字架の主を仰いで歩んで参りたいと思います。
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