裁かれる主<2> カイアファの前で (金曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書26章57-68節
旧約聖書 イザヤ書53章1-5節
最高法院開かれる
 母の日礼拝、ペンテコステ礼拝と続きましたので、イエス様のご生涯についてお話するのはしばらくぶりであります。オリーブ山でイエス様が逮捕され、大祭司官邸に引っ張っていかれ、最初に大祭司の舅であり、前大祭司でもあったアンナスの前で予備的な尋問を受けたというところまでお話してまいりました。

 その時もお話ししましたけれども、逮捕された後、イエス様は四人の権力者の前に立たされました。最初が今申しましたアンナスであり、次が大祭司カイアファ、次に総督ポンティオ・ピラト、それからガリラヤの領主ヘロデ、最後にもう一度ポンティオ・ピラトの前に立たされ、十字架刑を言い渡されたのであります。今日は、大祭司カイアファの前に立たされた時のイエス・キリストについてお話をしたいと思います。

 「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。」(57節)

 当時、ユダヤ人の社会は、大祭司のもとに組織された最高法院という宗教評議会によって支配されていました。最高法院は、宗教上のことはもちろん、政治や外交、また裁判所の役割も果たしていたのです。構成メンバーは祭司長、長老、律法学者といった面々で、定員は伝統的に70人だった為に「70人議会」とも言われました。これに議長である大祭司を加えると71人ということになります。

 イエス逮捕の報を受けると、真夜中であるにもかかわらず、さっそく大祭司官邸に議員が招集され、裁判が開かれることになります。しかし、これはとてもまともな裁判とは言えない代物であったようです。聖書にはこう記されています。

 「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」(59節)

 驚くべき事は、全員が、イエス様を死刑にしようと、最初から決めていたというのです。しかし、曲がりなりにも裁判ですから、罪もない人を死刑にすることはできません。そこで、イエス様を陥れるための材料を、あちこちからかき集めようとします。「偽証を求めた」という言葉の意味するところは、嘘でも何でもいいから、ともかく証言してくれる人を求めたということでありましょう。
焦り
 ここで感じられますのは、最高法院の焦りと憎しみであります。どうして彼らは、こんなに裁判を急ぐのでしょうか。逮捕するや否や、真夜中であるにもかかわらず、彼らはこの裁判を開くのです。どうして、夜明けまで待てなかったのでしょうか。実は、そこには理由があるのです。

 一つは、安息日が迫っているからでした。安息日にはどんな仕事も休まなければならないというが、ユダヤ教の固い掟でありました。大祭司カイアファや最高法院は、なんとしてもそれまでイエス様を処刑したいと目論んでいたのです。では、いったい、その安息日まで後どれほどの時間が残されていたのでしょうか。聖書にはそんなに細かい時間経過が書かれていないのですが、作家の犬養道子さんが『新約聖書物語』というのを書いておられて、その中に面白い計算があります。

 「福音書ははっきりと、晩餐が木曜日の夕刻にはじまり、ユダが食卓を去った時刻を『もう夜だった』と書いている。夜とはすなわち、暗くなった時刻のことで、四月のエルサレムを考えてみれば、それは八時前ではない。それから十一人への長い訓話があり、司祭的祈りがあり、ゆっくりとしたリズムで歌われる詩編が入った。それは優に一時間であったろう。ゲッセマネへは下り道ゆえ十五分か。そこでの苦優に満ちた祈りを一時間として、十時十五分。捕物が十五分。城内に戻るのは登り道ゆえに四十分。城内を突切るのに十分。つまり、最初の訊問は十一時過ぎであったと考えて良い。次に証人が来る。ひとりひとりがしゃべる。何人が出廷したのか、福音書は記さない。しかし、『寒くなる』のは夜半過ぎであるから、カヤファが衣服を裂いたのは早くて金曜日の午前一時ごろであったろう」

 たいへんよく計算してあると感心をします。犬養道子さんという方は、とにかく現場に行って自分の足で歩き、自分の目で見てくるという主義の人ですから、きっとご自分の足でゲツセマネや大祭司官邸の跡などを歩かれて、こういう計算をなさっただろうと思います。ともかく、この最高法院の裁判は、木曜日の午後十一時頃から金曜日の午前1時頃にかけて行われていたのだろうということなのです。安息は金曜日の日没からでありますから、やはり午後八時頃ということになるのでしょうか。そうすると、安息日まで二十時間前後しか時間がないことになるのです。

 この二十時間の間に、やるべきことはまだまだたくさんありました。最高法院でイエス様に死刑を宣告したならば、今度はローマ帝国の裁判に訴えを持って行かなければなりません。ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人には人を死刑する権限がなかったからです。そして、実際の処刑までを安息日前にやってしまおうというのですから、本当に時間が足りなかったのです。

 けれども、ちょっと考え方を変えるならば、どうしても安息日前までなければいけない理由はありません。安息日というのは一日で明けるのですから、その後、また続きをやればいいわけです。けれども、彼らはそんなことは考えられませんでした。どうしても、安息日前にやってしまおうと焦っているのです。こういう焦りは、人間の心の中にある恐れや不安の表れだと思うのです。

 事が成るためには、神の時というものが満ちなければならないということを痛感させられることがあります。人間がどんなに心焦がしても、神の時が来なければどうにもならないのであります。しかし、神の時が来るならば、必ず事は成ります。その理が分からないから、人は不安になり、恐れ、焦り、意地になったりするのです。

 荒川教会の『教会二十年の歩み』という記念誌の中に、この地に開拓伝道を志した時の勝野和歌子先生の日記が記されています。

 「何の手がかりもない荒野に分け入る事、女性である故に、困難、無謀、高慢、親切余っての忠告、批判を背に受けて、自分自身も不安と勇気の交錯する中で聞いた神の言は、『マケドニアに福音を伝えしむる為に我らを召し給うことと思いを定めて、直ちにマケドニアに赴かんとせり』使徒行伝十六、であった。『信仰をもて思いを定め、直ちに』意地にもならず、失望もせず、雨の日も風の日も荒川の地を主に導かれ足跡残して行こう。」

 勝野先生にも最初は周りからとやかく言われると何くそと意地になってみたり、自分の力をのぞき込んでみて弱気になったり、そういう心の揺れ動きがあったということが、この文章からうかがい知れます。けれども、神様が事を為してくださるのだという御言葉を信じた時、「信仰をもて思いを定め、直ちに、意地にもならず、失望もせず、雨の日も風の日も・・」こういう心境になったというのです。

 人間の力だけ事を為そうとするから、恐れや不安が生じて、意地になったり、焦ったりするのです。神様が事を為し給うという信仰があれば、焦りや意地をもってではなく、信頼と希望をもって励む者にされるんですね。

 ところが、大祭司を中心とする最高法院の人々というのは、まったく度を失っています。嘘でもいいから証言させろというのです。ユダヤにおける最も権威ある宗教会議でありながら、すっかり神様のことを忘れて、ただただ自分たちの思いだけを実現させようとしているのです。私たちも、意地になったり、焦ったり、恐れたり、不安になったりするとき、神への信仰が私たちの内にあるかどうか、もう一度思い起こさなければならないと思います。

憎しみ
 それからもう一つ、この最高法院の裁判で強く感じますのは、激しい憎しみということです。彼らは最初から「こいつは死刑だ」と腹の中で決めてかかっているのです。そして、嘘でも何でもいいから容疑を固めて、ローマに訴え、十字架にかけてもらおうとしたというのです。ローマの権力によって処刑されるというのは、神を信じない異邦人の手にかかって殺されるということで、ユダヤ人にしてみれば一番恐れ、恥ずかしいことであったと言います。そして、十字架刑というのは肉体的にも非常に苦しい残忍な刑でありましたが、聖書には「木にかけられるものは呪われる」とありまして、神に呪われることを意味したのです。

 「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(『申命記』21:22-23)

 神様に呪われるというのは、もうどんなことがあっても神様の祝福に与ることができないところに追いやられるということです。私たちも人に対して怒ったり、許せないという気持ちになったりすることがあるでしょうけれども、果たして呪いたいということまで思うかどうか。しかし、彼らは、そこまで徹底的にしなければ気が済まないほど、イエス様という方を憎んでいたということなのです。

 イエス様は彼らにどんな酷い事をしたというのでしょうか。もし、私たちが彼らのように人を呪ってやりたいと思うほど憎むことがあるとすれば、それは自分の生き甲斐であるとか、愛する家族であるとか、最も大事なものを奪われた時、それによって人生が滅茶滅茶にされてしまった時です。すると、彼らもまた、イエス様によってそんな風に人生を滅茶滅茶にされてしまうような経験をしたのではないかと想像できるのです。

 それはどういうことなのでしょうか。確かに、イエス様は彼らを手厳しく非難しました。でも、それだけでしょうか。この裁判の中で、くっきりと浮かび上がってくる一つの証言があります。

 「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、『この男は、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言いました』と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』」(60-62節)

 証人が次から次へと、イエス様に対して不利な証言を並べ立てますが、どうも決めて欠ける。そもそも、ユダヤの裁判では二人以上の人間が同じことを証言したのでなければ、証拠として取り上げることができないのです。そうこうしている内に、やっと二人の証人が一致する証言が出てきました。イエスという男は、「神殿をぶちこわして、自分が三日で立て直してみせる」と言っていたというのです。

 これは重大な発言です。神殿というのは、ユダヤの宗教の象徴的建物でありまして、大祭司はもちろんのこと、最高法院の議員たちは皆、神殿との密接な関係をもって生きています。彼らの地位も、名誉も、権威も、みな神殿が与えてくれるものだったのです。イエス様はそれをぶち壊して、別の神殿を建て見せる。しかも、たった三日でそれをやってのけると言ったというのです。

 これはあまりにも馬鹿にした言い方だと、彼らは怒ったのです。そして、自分たちが何よりも大切にしている神殿を奪おうとする者として憎んだのであります。しかし、神殿というのはいったい誰のものでありましょうか。それは神様のものであるはずです。たとえばこの教会も、決して牧師のものではありません。皆さんのものでもありません。神様のものなのです。それならば、神様がこれを壊そうが、新しく建てようが、いっこうに構わないはずです。もし、それが許せないとするならば、教会を自分たちのものにしてしまっているからでありましょう。

 彼らはまさにそういうことをしていたのです。神様のものである神殿を自分たちのものにしてしまっていた。神様に帰するべき権威や栄光を、自分のたちの力や名誉にしてしまっていた。だから、神殿を壊す者であるイエス様を激しく憎んだわけです。

 もっとも、イエス様は自分で神殿を壊すなどということは一言もいいませんでした。イエス様が仰った言葉を正確に言ならば、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(『ヨハネによる福音書』2:19)となります。ところが、彼らはイエス様を「神殿を壊す者」と見なしました。そして、それは神様からそれを奪うというよりも、彼らからそれを奪うことであった。だから、呪いたいほどに憎んだのです。

イエス様の沈黙

 「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。』イエスは黙り続けておられた。」(62-63節)

 「イエス様は黙り続けておられた」と、あります。これも大変印象的な御言葉です。そんなことは言っていない、などと弁解がましいことは一切言わなかったというのです。言ったところで、聞いてくれる相手ではなかったでありましょう。

 しかし、イエス様が沈黙を守られたのは、どうせ聞いてもらえないからという消極的な理由だったのでしょうか。そうではありません。イエス様は偽証であろうと、誤解であろうと、讒言であろうと、すべてを神様に委ねて受け入れるおつもりなのです。沈黙はその印です。

 イエス様は、「あなたがたも自分の十字架を背負って、私について来なさい」と言われたことがありました。自分の十字架を背負うというのは、時としてこの時のイエス様のような沈黙を守るということなのではないでしょうか。誤解されたり、陰口をたたかれたり、有らぬ嘘をつかれたり、そういう悲しい目にあうことは、私たちにもあります。そのような時、言い訳もせず、恨みもせず、ただ黙っているということはどんなに辛いことでありましょうか。しかし、そうすることによって、私たちはイエス様に連なる者になることができるのです。イエス様に連なる者になるならば、人の前ではなんと言われようが、神様の前では正しい者とされるのであります。
イエス様はいかなるメシアか

 「大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』」(63節)

 大祭司は、イエス様が何を言われようが一言も弁明しないものですから、業を煮やして、おまえは神の子メシアなのか、イエスかノーかで答えよと、問い詰めたのです。イエス様は、ようやく口を開かれます。

 「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。』」(63-64節)

 イエス様は、ここで「そうだ、私は神の子メシアだ」とお認めになっているのでしょうか。それとも、「違う」とお答えになっているのでしょうか。「それはあなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく」という言い方すれば、決して大祭司の言うことを認めているわけではないと思われます。けれども、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」という部分は、「そうだ。私は神の子メシアなのだ」とお認めになっているようにも思えます。

 きっとイエス様の言わんとしているのは、大祭司が頭に描いているようなメシアかといえば、「そうだ」とは言えない。けれども、大祭司の思いを遙かに超えた意味においては、確かに私は神の子メシアであると、言われているのではないかと思います。重要なことは、如何なる意味で、イエス様がメシア、つまり救世主なのかということなのです。

 病気を治してくれるから、貧しさから救ってくれるから、心の抑圧から解放してくれるから救世主なのか。そういうことは、私たちがしばしば願うことでありますが、イエス様は必ずしもそのような救いを与えるとは約束しておられません。はっきり言うと、イエス様が約束してくださっている救いというのは天における救いなのです。

 では、この世での救いは約束されていないのでしょうか。それも違います。イエス様は、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と言われました。「人の子」とは、イエス様のことです。イエス様は天で神の右に座し、また雲にのって私たちのところに来ると言われているのです。つまり、天の祝福を世に来たらすということです。世の富、世の誉れ、世の愛を与えるとは約束してくださいませんが、天の豊かさ、天における名誉、そして天の愛を、世にある私たちに与えると約束してくださったのです。

 それは、この世で貧しくても天の豊かさをもって生きることができる。この世で汚名を着せられても天における名誉をもって誇り高く生きることができる。この世で憎まれても、天からの愛を豊かに受けることができるということです。

 使徒パウロは、このような天の祝福をもって生きることをこのように言い表しています。文語訳でご紹介します。

 「我らは人を惑はす者の如くなれども眞、人に知られぬ者の如くなれども人に知られ、死なんとする者のごとくなれども、視よ、生ける者、懲さるる者の如くなれども殺されず、憂ふる者の如くなれども常に喜び、貧しき者の如くなれども多くの人を富ませ、何も有(も)たぬ者の如くなれども凡ての物を有てり」(第二コリント6:8-10)

 このような不思議なる人生、天の祝福にあふれた人生をお与えくださる救い主、それがイエス様なのです。

 しかし、これを聞いた大祭司も最高法院の議員諸氏も、そのようには受け取りませんでした。どうやら、イエス様が自分を神のごとき者であると宣言したと、受け取ったようなのです。

 「そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。『神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。』人々は、『死刑にすべきだ』と答えた。」(65-66節)

 こうして大祭司ならび最高法院は、イエス様を有罪とし、死刑に処すべきであると判決を下したのでありました。考えてみれば、これはなんと恐ろしい、罪深い判決でありましょうか。罪深き人間たちが、聖なる神の御子を殺してしまうというのです。

 「そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った。」

 縛られ自由のきかないイエス様にむかって、人々は唾を吐きかけました。こぶしに殴りました。平手で打ちました。そして、お調子者のように「先生、今は叩いたのはだれでしょう。メシアなら分かるでしょう? 神の子なら分かるでしょうか? 預言者なら分かるでしょう? どうしたのですか。答えてくださいな」と、イエス様をこづきながら冒涜したというのです。

 みなさん、確かにこのようなイエス様のお姿は哀れです。しかし、神の御子をこのように扱っている人々はもっと哀れです。イエス様は罪もないのにこのような仕打ちを受けて、まことに哀れです。しかし、最高法院の人々は罪もなき人に対して、まして神の御子なる方に対して、何も知らずにこのような仕打ちをしていい気になっている。それが哀れです。二つの哀れは、内容がまったく違います。

 みなさん、私たちも哀れな人間であります。しかし、哀れな人間にも二種類あるのです。神を知らず、神を冒涜するような傲慢に陥っている哀れと、そのような者の罪を許すために黙って蔑みに耐え忍ぶ哀れです。同じ哀れならば、主の持ち給う哀れさを身にまとう者でありたいと願います。
目次

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