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とうとうイエス様は、ゲツセマネの園において、祭司長や長老達に手に捕らえられてしまいました。今日のお話はそこから始まります。12節をご覧ください。
「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、」
「イエスを捕らえて縛り」とあります。イエス様は、これまで幾多の危機を乗り越えてこられました。生まれたばかりの赤ん坊の時、ヘロデ大王はイエス様を殺そうとしてベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。しかし、イエス様は、神の助けによってその難を逃れました(『マタイによる福音書』2章16-18節)。イエス様がお育ちになったナザレに帰ってこられて会堂で「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と説教をなさいますと、人々は総立ちになって怒り、イエス様を崖っぷちに追いつめ、そこから突き落とそうとしたということもありました。その時も、不思議な力に守られて難の害も受けることはありませんでした(『ルカによる福音書』4章16-30節)。
イエス様が弟子達と舟に乗って湖を渡ろうとしておられると、大嵐が襲って舟が沈みそうになったということもありました。しかし、イエス様が風と湖をお叱りになると風も湖は穏やかになったということもありました(『マタイによる福音書』8章23-27節)。イエス様が、エルサレムで伝道活動をなさっているときには、祭司長たち、長老たち、またファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党の人々などが、イエス様の言葉尻をとらえ陥れようとして。様々な議論をふっかけてきましたが、イエス様はすべてをクリアされました。
このようなことを神のお守りだと考えるならば、それはイエス様が神様の愛されている証拠であって、誰もイエス様を捕らえようなどとは思わなかったでありましょう。しかし、ユダヤの宗教や政治の実力者たちの目には、「神通力を操る危険な奴」としか映らなかったようであります。つまり彼らは、イエス様の御力を悪魔に由来するものだと思っていたのであります。
そういう恐怖心の表れだと思いますが、彼らは「一隊の兵士と千人隊長」、これはローマの軍隊でありますが、そんなものまで引き連れて、丸腰のイエス様を捕まえに来て、ようやくイエス様を捕まえて、縛り上げることが出来たというのでありました。「これでこの男も一巻の終わりだ。もう手も足も出まい」と、彼らは勝ち誇ったでありましょう。 |
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しかし私たちは、ここで本当の勝利者となられたのはイエス様であるということを読み取らなくてはなりません。これは愛の勝利なのです。愛の勝利というのは、相手を打ち負かすことになるのではありません。相手を赦し、相手を生かすことにあるのです。
私たちもしばしばこの愛の勝利を手にしなければなりません。ところが、これはたいへん難しいのです。どうしてかというと、相手を赦すためには自己主張を引き下げ、犠牲的な姿勢を貫かなければならないからです。
荒川教会の二十周年誌に、当時、富士見町教会の牧師をしておられた島村鶴亀先生が文章を寄せてくださっています。それは荒川教会に通っていたトシちゃんという男の子の話です。古い教会員はよくご存じのお話だと思いますが、その文章をそっくりここで引用させていただきたいと思います。
「戦後のことであった。たった10万円で尾久に教会堂をたてた。勝野和歌子先生は、そのベニヤ板で出来た六畳と四畳の教会で、喰うや喰わずの生活をつづけながら、伝道を始めた。労働者やサラリーマンの住んでいる地域であったから、困難な伝道であったが、子供達がポツポツと集まってきてさんび歌をうたうようになった。
その中にまだ小学生にあがらぬ、トシちゃんがいた。ある日、勝野先生が部屋を出ると、途で子供たちがたがいに話をしていた。
『イエスさまは、十字架にかかって、ヤリで突かれた。血が出て死んだのや』
『いたかったろうな』
『いたいもんか、イエスさまは神様じゃ、と先生が云ったよ。神さまなら、いたくもなんともねえや!』
子供たちがこんな話をしていたので、勝野先生はビックリした。日曜学校での話が子供たちの心に、どんなにひびいているのだろうかと好奇心も手伝って聞いていると、トシちゃんが、
『ちがうよ、いたかったんだよ、イエスさまはな。いたかったんだが、こらえていたんだよ。とてもいたかったんだ。だけど泣きやしなかったのだよ。』
このトシちゃんは、十字架上のイエスの祈り、『父よ、彼らをゆるしたまえ』というのをきいた。
ある日、友だちにいじめられたとき、石をもって相手になげつけようとしたが、『父よ、彼らをゆるしたまえ』を思い出し、『先生、ぼくくやしかったんだけど、石をぶつけることやめた』と勝野先生に話したそうである。
トシちゃんは、神が人になったのが、イエス・キリストだと、わかっている。そして、子どもなりに、それを信じた生きた生活をしている。
私は思う、単純に福音を受け入れると、キリストは今も、二千年前と同じようにわれわれの生活の原動力となる。」
イエス様が捕えられ、縛られ、無力な者として十字架にかかられたことを、トシちゃんは子どもながらに、それはイエス様の愛の勝利だと見抜きました。イエス様は負けたのではない。堪えたのだ。それは相手を力でやっつけることよりも、ずっと難しくことであり、価値あることだったのだと、イエス様の愛のお心を感じ取ったのです。
しかし、この愛の勝利には、もう一つ忘れてはならない大事なことがあります。それは、愛の勝利とは、人の愛を得ることではなく、神の愛を得ることであるということです。
たとえば、トシちゃんがいじめっ子に石を投げるのを思いとどまったということが、はたしていじめっ子の心に通じたでしょうか。それが通じれば、確かに勝利と言えるかもしれません。しかし、通じない可能性もあるのです。同様に、イエス様が罪人らの手によって捕らえられ、縛られたということが、イエス様の愛による自己犠牲だとしても、その心が果たして彼らに通じるのでしょうか。通じないから、イエス様は十字架にかけられて殺されてしまったのです。これでは愛の勝利というよりも、愛の敗北ではないかと思えるのです。
私たちが、なかなか愛することができない理由に、このような愛の敗北ということがあります。つまり、愛したところで、この人にはその思いが通じないではないか。そんな人のために自分を犠牲にするということは空しいことではないか。そう思うと、私たちはもう人を愛することができなくなってしまうのです。
しかし、愛することが私たちの勝利であり、祝福となるのは、それによって私たちが人からほめられたり、感謝されたりするからではないのです。神様が、私たちの愛に飢え渇いておられます。マザー・テレサはこう話しています。「ある人がかつて私に、百万ドルもらっても、ハンセン病者にはさわりたくないと言いました。私も答えたものです。私も同じです。お金のためにだったら、二百万ドルやると言われても、今の仕事はしません。しかし、神への愛のためなら喜んでします。」私たちが愛するのは、それが誰であっても、神様のためなのです。ですから、私たちが示した愛がたとえ人に通じなくても、それは決して空しくは終わりません。「あなたが示した愛は、私にしてくれたことである」と、神様がそれを受け取り、神様がご自分の愛を私たちに与えてくださるのです。愛の勝利とは、そういうことなのです。
イエス様が敢えて無力な者となられて、罪人らの手に引き渡されたということもそうです。彼らはトシちゃんと違って、主の深い愛を悟り得ませんでした。イエス様の犠牲的愛は、彼らに通じなかったのです。それにもかかわらず、イエス様は愛の敗北者ではなく勝利者であられました。神様がその愛を受け止め、イエス様に復活の命と多くの罪人らの魂という愛の実りを与えてくださったのです。 |
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さて、イエス様は捕らえられますと、ただちに四人の権力者の前に引き立てられ、尋問を受けることになります。その第一はアンナス、彼は時の大祭司カイアファの舅で、陰の実力者でありました。第二は大祭司カイアファ、第三はポンティオ・ピラト、彼はローマから派遣されていたユダヤの総督でした。第四は、ヘロデ・アンティパス、彼はガリラヤの君主でありました。そして、最後にもう一度ピラトの前に引き立てられまして、彼によって十字架による処刑が言い渡されるのです。
イエス様が十字架におかかりになったのは金曜日の朝の九時であったと、聖書に記されていますから、これらの裁判は、木曜日の夜に逮捕されてから徹夜で、金曜日の早朝にかけて行われたものと思われます。
今日の聖書には、イエス様はまず大祭司官邸に引き連れられ、アンナスの前で予備的尋問をお受けになったということが書かれていました。13節をごらん下さい。
「まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。」
「その年の大祭司カイアファ」という言い方は、大祭司が毎年変わるような印象を与えますが、本当はそうではありません。大祭司というのは終身制で、ひとたび大祭司になったものは死ぬまで大祭司であるというのが、元来の定めでありました。しかし、紀元15年に、ローマから派遣されてきた総督が、大祭司アンナスをその地位から下ろし、イシマエルという人物を新しい大祭司につけてしまったのです。ユダヤ人にとっては心外なことであったに違いありません。しかし、ローマの属領とされているわけですから逆らうこともできなかったのです。この総督は、その後もしばしば大祭司を更迭しまして、僅か足かけ四年の間に、大祭司が四人も変わるという異常事態が起こりました。ですから、「その年の大祭司」というような言い方がされているわけです。
とはいえ、ユダヤ人の心には、ローマによって勝手に更迭されてしまったけれども、アンナスこそが本来の大祭司であるというものが残っていたのでありましょう。時の大祭司カイアファも、アンナスの婿であったとありますし、大祭司を退いた後も、アンナスは陰の実力者としての力を持ち続けていたのです。その証拠に、聖書には「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」(『ルカによる福音書』3章2節)というような、まるで大祭司が二人いるかのような書き方がされているところもあるのであります。イエス様が、まずアンナスのもとに連れて行かれたということも、アンナスの実力を物語っていると言ってもよいと思います。
しかし、あくまでも陰の実力者でありますから、正式な裁判を行うことはできません。ですから、アンナスの尋問というのは、カイアファによって議員たちが招集され、正式な尋問(サンヘドリン)が開かれるまでの時間を利用しての予備的な尋問であったと考えられます。
それは、どんな尋問だったのでしょうか。19節をごらんください。
「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。」
ここで「大祭司」と言われているのは、アンナスのことです。アンナスがイエス様に問い質したのは、まず弟子たちのことでありました。どのくらいの弟子がいるのか。どのような人物がいるのか。どのように組織されているのか。そんなことを聞いたのではないでしょうか。その意味は、イエス教団といいますか、イエス様に従う人たちの危険性というものを推し量ろうとしたのだと思います。しかし、イエス様はこれには一言もお答えになりません。イエス様は弟子たちの身を守ろうとされているわけです。
それから、イエス様の教えに関する質問もなされたとあります。それに対しても、イエス様は、すでに公で語ったことを繰り返す必要はないと答えられました。20-21節、
「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
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すると、イエス様の側にいた下役が、「この無礼者! 大祭司様に向かってそんな返事の仕方があるか」と、イエス様を平手で打ちました。すると、イエス様は、彼に「いったい、わたしのどこが無礼なのか」と問い返されます。イエス様を殴った下役は答えに窮します。イエス様はアンナスを恐れはしませんでしたが、侮辱をしたわけでもありません。堂々と思うままに答えましたが、嘘をついたわけではありません。日頃、自分の身の保全ばかりを考えて、意味もなく権力に媚びへつらって生きている者には、このアンナスを前にしても少しも萎縮せず、堂々と渡り合っている姿そのものが、侮辱だと思いこんでしまったわけです。
イエス様は、黙り込んでしまった彼に、「私に悪いところが見いだせないならば、なぜ私を打ったのか」と問われました。おそらくイエス様は、この下役がプライドを捨てて、権力の犬と成り下がってしまっていることを憐れんでこう言われたのだろうと思います。「あなただって、神に造られたひとりの人間ではないか。人の目ばかりを気にして生きるのではなく、自分の心の声に従って、プライドをもって生きたらどうか。」ということを、この男の心に問いかけたかったのだと思います。
これは、イエス様がこの下役をひとりの尊厳ある人間として扱い給うことからくる発言だったと、私は思います。イエス様というお方は、人間を肩書きで区別したりするようなことはなさらないのです。
それと共に、ここで考えさせられるのは、本末転倒ということであります。本当ならば、イエス様こそがこのアンナスを縛り上げ、その行いと問い質すはずのお方なのです。ところが、神の御子であるイエス様が縛り上げられ、尋問され、下役に平手で打たれている。本当に無礼なのは、イエス様に対してこのような仕打ちをする者たちでありましょう。しかし、それが逆さまになっているのであります。この本末転倒こそが、人間の罪だと言えます。
この一週間、尼崎の電車脱線事故のニュースでひっきりなしでありました。本当に恐ろしい、悲惨な事故であり、私も食い入るようにテレビを見ておりました。106名の方々がこの事故でなくなり、何百人という方が負傷されました。その犠牲者の遺族のある方が、テレビで「JRよりも、運転士よりも、神様に問い質したい思いだ」と言っておられたのが、とても印象的でした。
本当にそうだと思うのです。まじめに生きていたのに、何も悪いことをしてきたわけでもないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。私だって、当事者ならばそのことを誰よりもまず神に問い質すだろうと思うのです。
実は、聖書にはそれと同じ事をした人いるのです。ヨブという人物です。彼は何も悪いことをしていないのに、盗賊に奪われ、天災に見舞われ、次から次へと襲ってくる災難によって、財産を失い、愛する息子、娘らの命を失い、自分自身も辛い病気にかかってしまうのです。ヨブは、「神様は間違っているのではないか。私は神様を訴えたい」と、叫ぶように神様に訴え続けます。
神様は、そのヨブになんとお答えになったのでしょうか。
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
「『なぜ、こんなことをするのか』と、私のやることに文句を言うならば、まず、私の問いに答えてみよ。答えられるのか?」と、神様がヨブに挑戦されるのです。それは、「人間が神を問い質すのではなく、神が人間を問い質しているのだ。神が人間に答えるのではなく、人間が神に答えなくてはならないのだ」ということが言われているのではないでしょうか。
私は「なぜ、神様は・・」と、神に問うてはいけないと言っているのではありません。列車事故もそうですが、私たちにはそう問わざるを得ないようなことがしばしば襲いかかるのです。しかし、私たちもまた、神に問われているのだということを忘れてはならないのです。あなたは何者なのか。あなたは何を知っているというのか。あなたは神以上の存在なのか。神を問うことは、許されましょう。しかし、自分自身に向けられている神様の問いを無視して、一方的に神を縄で縛りつけ、問い質し、平手で打つようなことをするならば、それは本末転倒だとしかいいようがないのです。
神ではなく人間に過ぎない私たちにできることは、神に問いつつ、同時に神がそのことを通して自分に問われていることを聞き、それに答える者となることではないでしょうか。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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