主イエスの逮捕<2> (木曜日)
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書26章47-56節
旧約聖書 エレミヤ書12章1-3節
なぜ、ユダは裏切ったのか
 先週はイエス様の逮捕の場面を、特に「ユダの裏切り」に触れながら、罪の力ということについてお話をしました。今日もまたユダの裏切りについてお話をしたいと思うのです。

 イエス様が自ら選び、十二使徒のひとりに任じ給うたユダが、イエス様を裏切り、祭司長らの手に引き渡してしまうということは、イエス様を信じる者にとっては非常にショッキングなことであります。だからこそ私も、先週で終わらず、今週もまたユダについて執拗に説教をせざるを得ないのです。

 ユダは、剣や棒をもってイエス様を捕らえようとする人々を大勢引き連れて、ゲツセマネの園へやってきました。イエス様と弟子たちがそこにいるのを発見すると、何食わぬ顔でイエス様に近づいてゆき、イエス様に接吻をして、「この男だ。この男を捕まえなさい」という合図を送ったのであります。

 なぜユダがイエス様を裏切る気になったのか。それは想像することしかできません。おそらくユダが期待する救いと、イエス様が与えようとしている救いが食い違っていたのでありましょう。

 人生は様々な問題に満ちています。誰もが問題を抱えながら生きているのであります。救いとは、簡単に言えば、そのような問題が解決することでありましょう。病を抱えている人は、病から癒されることが救いです。人間関係に悩んでいる人は、それが修復されることが救いです。経済的困窮のうちにある人にとっては必要が満たされることが救いです。実に、人によって様々な救いへの期待があるのです。

 一方、イエス様が私たちに与えようとしておられる救いは、様々な救いではなく唯一の救いでありました。それは、私たちと神様との関係を修復してくださるということだったのです。

 神様との関係が修復すると、私たちはどんな風に幸せになるのでしょうか。神様の祝福が、何にも妨げられることなく、私たちに注がれることになります。神様の愛、神様の御守り、神様の恵みを、私たちは余すことなく受け取って生きることができるようになるのです。それだけではなく、私たちもまた心の自由さをもって、自分を捧げて神様のために生きるということができるようになります。人を赦し、愛し、祝福するということもできるようになります。

 イエス様は、私たちをこのような人間とするために、私たちを生き方の根本的な間違いから救おうとされたのでありました。私たちは、神様に背き、神様を離れ、神様を悲しませ、神様を怒らせて、生きています。そのことが、私たちの人生を悲しみに満ちた、ゆがんだものにしてしまっている根本原因であるということを、イエス様を教えてくださいました。しかしながら神様は、こんな私たちをもなお愛し続け、求め続けてくださっているということも教えてくださいました。だから、悔い改めなさい。今までの生き方をまっしぐらに進んでいくのではなく、立ち止まり、自らを深く振り返り、真実を悟って神様に向き直り、新しい生き方をはじめなさい。神様に帰る道を歩みなさい。わたしが、あなたがたのすべての罪を負ってあげるから、安心して神様のもとに帰りなさい。それが、イエス様の招きなのです。

 ユダにはそのイエス様の御心が理解できなかったのでありましょう。それでイエス様に失望してしまったのです。ユダにはユダの考える救いの在り方があったのでありましょう。しかし、ユダは立ち止まって、イエス様のお心を虚心なく聞くことが必要でした。それができなかったために、自分の道を貫いて、イエス様を否定してしまったのであります。

 私たちは、このようなユダの犯した間違いと自分は無関係であると言えるでしょうか。私たちもまた問題をもって生きている人間のひとりでありました。それは病気であったかもしれません。悲しみであったかもしれません。孤独であったかもしれません。いずれにせよ、何らかの人生の不安や迷いがあって、そこからの救いを求めて、イエス様を信じたのであります。

 しかし、教会に来てみると、「人間は罪人であるから悔い改めなさい」とか、「正しい信仰を持ちなさい」、「人を愛しなさい」とか、意外なことを言われて、自分が求めていることとはちょっと違うなと感じたことはないでしょうか。私には、そういうことがあります。この問題をどうにかしてほしいのであって、罪であるとか、正しい信仰であるとか、隣人愛であるとか、そういうお高い話を求めているのではないと、教会に対して非常に強い反発を感じたのです。

 幸いなことに、私は主の憐れみによって留まり続けるができ、問題はいろいろあっても、そのすべての根源にある問題は一つであって、それは神様の逆らい続けて生きている私の罪であるということを分からせていただきました。そして、イエス様がそれを解決してくださって、私が神様に帰る道を敷いてくださったのだということが分かって、救われたのであります。

 皆さんの中にも、もし似たような迷いのある方がいらっしゃるならば、どうか踏みとどまって、そして虚心になって御言葉に耳を傾けて欲しいと願うのです。必ず、イエス様はあなたの求めている救いを越えて、願いを叶えてくださいます。
ユダと悪魔
 しかし、ユダにはそれが出来なかったのです。ユダの裏切りは、私たちにとって非常にショッキング出来事だと、最初に申しました。ユダとは一面識もない私たちですらそうなのですから、当時の弟子たちにとっては、私たちの百倍も、千倍も大きな衝撃であったに違いありません。聖書はユダの中に悪魔が入ったのだ、といって憚らないのです。そうとしか考えられないような出来事が起こったということでありましょう。

 『ヨハネによる福音書』によりますと、このように言われています。

 「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(『ヨハネによる福音書』6章70-71節)

 このように言われているのは、イエス様のお働きの初期にあるガリラヤ伝道の最中のことでありますから、ユダのイエス様への失望というのは相当早い時期から、ユダの心の根に入り込んでいたということが分かります。それにしましても、「悪魔だ」というイエス様のお言葉は激しいものであります。

 ただし、イエス様はシモン・ペトロに対しても、「サタンよ、退け!」と、激しく叱られたことがあります。そういうことからしますと、イエス様はユダが悪魔であると言われたのではなく、ユダの心がイエス様と悪魔の間を揺れ動いているということを指摘されたのでありましょう。

 実際に、ユダがサタンに捕らえられた者となってしまったのは最後の晩餐の時であったと、『ヨハネによる福音書』は記しています。

 「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(『ヨハネによる福音書』13章2節)

 「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」(『ヨハネによる福音書』13章27節)

 この後、ユダはこの最後の晩餐を中座しまして、イエス様のもとを離れていきました。

 「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出ていった。夜であった。」

 「夜であった」と、ポツリと添えられている言葉が、ユダの裏切りに対するもの悲しさを伝えているような気がします。

 ところで、『マタイによる福音書』によれば、ユダが裏切りを企てたのは、最後の晩餐の直前であったと記されています。水曜日、ベタニア村で、イエス様はマリアからナルドの香油の注ぎをお受けになりました。ユダはそれを見て、「なんてもったいないことをするんだ」と思うのです。イエス様への捧げ物をもったいないと感じてしまう、それはユダの心が完全にイエス様から離れていることを物語っているのです。

 私たちも自分を反省したいと思うのですが、献金にしろ、奉仕にしろ、その量で信仰の深さを測ることはできません。献金や奉仕の量というのは、その人のもっている力によるものでありまして、必ずしも信仰によるものではないのです。しかし、喜んで捧げるか、惜しみつつ捧げるか、そこには信仰が表れるのです。イエス様に対する愛や感謝が覚めてしまえば、私たちは僅かな献金や奉仕ですら惜しいと思ってしまう。しかし、逆にイエス様への愛と感謝にあふれているならば、できることは僅かであっても喜んでそれを捧げることができるのです。

 話を戻しますが、ユダはマリアが捧げる香油をもったないないと思った。その直後、ユダはひとりでエルサレムに行き、祭司長らと密談して、イエス様を引き渡すことを約束するのです。

 「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(『マタイによる福音書』26章14-16節)

 しかし、聖書によれば、この時はまだユダの中に悪魔が入っているわけではありません。ということは、ユダが自分の意志と信念に基づいてやったことあり、ユダの不信仰と罪の結果なのです。

 この後、ユダは何食わぬ顔で戻ってきて、翌日、イエス様や他の弟子たちと一緒に過越しの食事をします。ところが、その最中に、悪魔がユダに入り込んで、ユダは事を起こしたと記されているのです。

 悪魔がユダに入り込んだということは、もはや自分の自由な意志や考えで行動ができないほどに、ユダの心が悪魔に占領されてしまった、その支配下におかれてしまったということです。悪魔に縛られてしまったと表現してもいいかもしれません。

 私たちもまた、そのような悪魔に縛られるような経験をするかもしれません。自分で自分がコントロールできないようになって、怒りや憎しみ、汚れた欲望に身を任せたり、わがままやネガティブな思考に陥ったりして、逃れられないということがないでしょうか。私にはあります。

 このような時、この悪魔の力から解放される唯一の道は、罪を神様に告白するということなのです。このことは先週お話ししましたから繰り返しませんが、悪魔の力というのは嘘にあるのです。嘘というのは隠すから嘘としての力を持つのでありまして、告白したらもう嘘ではなくなり、悪魔の力からも解放されるわけです。家有珠様も、「真理はあなたを自由にする」とおっしゃいました。これが悪魔に勝つ秘訣なのです。 
悪魔の勝利
 さて、もっとも重要なお話に入りますけれども、ユダは、あるいは悪魔は、驚くべきことに、イエス様を捕らえることに成功しました。そればかりか、イエス様を十字架にかけて殺すことにまで成功したのです。日本でも広くその説教集が読まれているヴァルター・リュティという牧師が、このユダについて非常にユニークなことを言っています。

 「このユダというのは、途方もなく運のいい男であった。彼より以前に大勢の者がやってみたが失敗したことを、この男はやってのけた。例えば、かつてヘロデがベツレヘムで幼児殺戮の時に成功しなかったことーそのことに、ユダは成功したのである。この世の大抵の大物たちは、権力と支配を手に入れるためには、まず何人かの同じような大物たちを相手に戦って苦労しなければならない。彼らがみな、ユダをうらやましく思うとしても、それは当然である。なぜかと言えば、このユダは、いわば最高の王をーすべての王の中の王を、王そのものを、その支配を限りなくその御国は終わることのない『人の子』を、捕らえることができたのだからである。・・・神ご自身がユダと共にいます、というより他はない。さもなければ、ユダはあの恐るべきことに、決して成功できなかったであろうし、成功するのを許されなかったであろう。神が、ユダに、そのような成功を与えられたのである。神がユダに、ユダの時をー活動と成功の時を、容認されたのである」

 なかなかいっぺんには飲み込めない文章かもしれません。リュティが言いたいのは、こういうことです。神のひとり子であるイエス様を捕まえて殺すなんていうことは、本当はどんなに人間にもできないことのはずだった。人間にできないだけではありません。悪魔にだって出来ないことだったのです。神様が、悪魔に負けたらお話になりません。

 では、イエス様が逮捕されたということは、どういうことなのか。どうして、ユダはそれに成功できたのか。どうして、悪魔はイエス様を捕まえることができたのか。それは、神様の御心だったからだ、それしか考えられないということなのです。それが、リュティのいう「神ご自身がユダと共にいます、というより他はない。」という言葉であり、「神が、ユダに、そのような成功を与えられたのである。」という言葉になっているわけです。

 これは何の根拠もない話ではありません。イエス様は接吻するユダに、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われました。そして、剣を抜いて大祭司の手下に襲いかかったペトロには、こう言われています。

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(52-54節)

 イエス様は、戦おうとするならば、私には十二軍団以上の天使がついているのだ、とペトロに言います。ローマの一軍団は6000人ですから、十二軍団ともなれば7200人です。天使ひとりでも大変な人間の一軍団など赤子の手をひねるようなものでありましょう。それが十二軍団もイエス様についているというのですから、リュティが言うように、本来ならば、誰も、悪魔ですらイエス様に手出しはできないのです。

 しかし、イエス様はペトロの剣をさやに納めさえ、自分もまた十二軍団の援助を求めないというのです。どうしてかというと、それでは神様の御心が実現しなくなってしまうからだとおっしゃっるわけです。イエス様が罪人らの手に引き渡され、十字架にかけられることは、神様の御心なのだということなのです。

 言い方をかえれば、悪魔もまた、しばし神にゆるされて、自分の時を持つということなのです。

 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(『ルカによる福音書』22章52-53節)

 「されど今は汝らの時、また暗黒(くらき)の力なり」(文語訳)と、イエス様はおっしゃいました。私たちの人生においても、そういう時があります。正義が踏みにじられる時、愛が裏切られる時、善が敗北し悪が勝利する時があるのです。

 そういう時に、私たちは神様がそんなことを許すわけがないと思います。悪を許してはいけない。悪に負けてはいけない。正義を叫び、悪をやっつけなければと躍起になるだろうと思うのです。確かに、神様の御心であるならば、私たちは悪魔を恐れることなく戦いを挑まなければなりません。けれども、意外なことに、神様が「剣をさやに納めなさい」と言われることもあるということなのです。

 それは、敢えて悪魔に時を与え、敗北に甘んじなさいという、たいへん不思議な、納得しがたい神様の命令であります。しかし、イエス様は確かにそういう「闇の時」があるということを、つまり悪魔が時を得る時があることを認めていらっしゃるのです。

 もちろん、イエスは、悪魔に服従したわけではありません。悪魔に時を与えている神様に御心が実現するために、神様の御心に服従するのです。悪魔の時のただ中にあって、なお神の勝利を見ていると言ってもいいかもしれません。剣を振り回すよりも、剣をさやに納めて、悪魔の力の下で苦しみを受けながら、忍耐の時を過ごし、神の勝利の時を信じ続ける。これが、この時、イエス様がお示しくださった信仰の道なのであります。

 最後に、もう一つ御言葉をご紹介させていただきます。

 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(『ヨハネの黙示録』2章10節)

 これも、やはり悪魔が時を得て、教会に激しい迫害が起こっていることを言っているのです。しかし、恐れるな、神様があなたがたを試みるために悪魔に時を与えたとしても、それは永遠ではなく、たった十日間である。だから、堪え忍べ。忠実であり続けよ。そうすれば、命の冠が与えられるのだ、というのです。

 たとえ一時、悪魔が時を得ようとも、最後に勝利されるのは神様なのです。どんな苦しみの中にありまして、じっと神の勝利を信じて、待つ者には勝利の冠を与えられるのです。どうか、信じて堪え忍ぶ者になりたいと願います。
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